――1232年。
教皇様。コンスタンティノポリ総主教から親書です。
なんだ?メッシーナ侵略の侘びでも入れに来たのか*1?
まさか。彼らは、シチリア王国の領有権を正当だなどと言ってますからね。
では、いったい何だというのだ。
さあ。まさか教皇様へのお手紙を私が勝手に読む訳にもいきますまい。
そうか。
教皇Sixtus V世聖下 これは悪夢である。挨拶もなくこのような手紙を書くことを許されたい。 私は今、コンシタンティノポリスではなく、クロアチアでこの手紙をしたためている。 去る10月18日、燃え盛る炎の中、命からがらコンスタンティノポリスを脱出した。 思い出すだけでも身が震えるような思いだ。
……戦争だ。コンスタンティノープルが落ちたらしい。
コンスタンティノープルが?!セルジューク朝*2ですか?
どうやら違うようだ。聞いたこともない名前の国が彼らを征服したと書かれている。
へ?
君は知っているか?Hulegu(フレグ)という男を。
いいえ。まったく。
初期の人物を除くとほとんどが自動生成のキャラクター(僅かにプレイヤーの子女に関しては名前を自由に決められる)のCK2において、数少ない実在の人物がイベントで出現するモンゴル系の侵略者であるフレグやバトゥなどです。フレグとバトゥはいずれもチンギス・カンの孫で、いずれもモンゴル帝国の征西の総大将となりました。生年はバトゥの方が少し早いですが、CK2ではフレグが先に登場します。登場のタイミングはランダム要素もありそうですが、今プレイでは、フレグは本来の生年1218年よりも以前の1215年にイルハン国当主となっています。
フレグは列強を超える軍事力を持って登場する。
強大な軍事力を誇るフレグはセルジューク朝の後継王朝であるカイコバード朝とは事を荒立てることなく、アナトリアを進軍し、1237年にコンスタンティノープルを奪うと、瞬く間にギリシア、ブルガリアを制圧した。
これは由々しき事態である。
はい。
すぐさま十字軍を編成するのだ。
お仰せの通りに。
教皇はすぐさま十字軍の準備に取り掛かった。しかし、6年前にエルサレムとともに神聖ローマ皇帝をも喪ったカトリック諸侯に遠征を行うほどの余力はなく、痺れを切らしたSixtus V世は、充分な諸侯の賛同を得られないままに1247年にギリシアへ向けて十字軍の遠征を決行した。この無謀な試みは夥しい数の死者を出すに終わり、十字軍史上に残る失敗に終わったのだった。
それから30年もの時が流れ、1275年。キプチャク草原に新たな軍団が姿を現した。バトゥの軍団である。幾万もの軍馬は見事に統率され、ハンガリーに侵攻した。彼らは欧州全土で「黄金のオルド」と怖れられることとなる。
バトゥの率いる軍団はフレグをもさらに上回る。
悪魔の化身たるモンゴル軍の侵攻を防ぐ手立てを見出せなかったカトリック諸侯だったが、彼らにとっての糸口は黄金のオルドの登場と時を前後して、早くも訪れていた。度重なる諸侯の叛乱と、それによるギリシアの分裂である。
ギリシアは無数の国家に分裂していった。
1277年に再び編成された十字軍は、13年もの長きに渡る戦闘の末に、1290年、ついに勝利の栄冠を手にし、イングランド王Eadgar公正王がギリシア王位を兼ねることとなった。その支配領域は当初こそ限られたものだったが、イングランドはギリシアでの拡張政策により列強への道を歩んでいくこととなる。
戦況。1277年に開始された十字軍は1281年には敗色濃厚であったが、それから盛り返し、1290年に勝利で幕を閉じた。
十字軍でイングランドが手に入れたのはギリシア王国のde jure内でイルハン国に支配されていた領域に限られる。 このため、ギリシアの王冠を戴冠したとはいえ、その勢力は必ずしも大きなものではなかった。
登場時にイベントとして強大な軍隊が付与されているイルハン国や黄金のオルドなどのモンゴル勢力は他を圧倒する軍事力を有しています。ところが、この軍隊は消耗品で、戦争を繰り返すたびにその軍事力は低下していくことでしょう。特に度重なる内乱に見舞われた場合は、AIは広大な版図を維持することができず、歴史に埋没していくことも少なくありません。
今プレイに於けるイルハン国は、最初に第二セルジューク朝(庶子カイコバードによるセルジューク朝の継承に異を唱えた叛乱軍が中央アジアで独立した王朝)を併合したのですが、第二セルジューク朝は偶然、コンスタンティノープルに隣接したプロビンスに男爵級の領地を領有していました。この領地を足がかりにしてカイコバード朝を無視する形でギリシアに攻め込んだイルハン国はその後カイコバード朝も攻め、ペルシアを獲得していますが、その後は良いところなく、度重なる叛乱と十字軍の標的とされ、強大な王朝を打ち立てるには至りませんでした。
一方の黄金のオルドはハンガリーを攻略し、以後、北ユーラシアに広大な帝国を築き上げることとなります。
時の神聖ローマ皇帝Poppo II世(Poppo I世の長男)は再三の要請にもかかわらず十字軍への参加を拒み続け、このことがもとで教皇から破門に処されることとなった。(父のPoppoも叙任権問題で破門されており、父子揃っての破門となった。)これを嫌ったPoppo II世は、王がギリシアへ遠征している留守を狙ったイングランド本国での叛乱の鎮圧により後方援助を行うこととし、4万を超える皇帝軍がドーバー海峡を渡った。ところが、ギリシアへの大規模な遠征も決して不可能でないことを自ら証明するようなこの行動は逆に教皇の怒りを逆撫でする形となり、皇帝が破門を解かれることはなかった。
イングランドでの神聖ローマ帝国軍