AAR/フレイヤの末裔 AAR/フレイヤの末裔/盟主ギュリド(中編)
――「小エッダ」神話詩のうち「オーディンの鴉の呪文歌」
……誰も彼もが歓んでいた。
「グリム率いる本隊はブリテン島・リンカンに上陸! 早くも首府の占領を済ませ、オスムンドの軍と交戦し、それを撃破したとの事です!」
「コルチェスターにてヨハネ騎士団と会戦! 地の利を活かし、圧勝であったとの報せを受けました!!」
「ノーフォークの占領が完遂されました! 合流する敵軍の撃滅に向かうとの事!」
……まるで、この世の春が来た様に、歓んでいた。船上で報告を受けるギュリドにも、それは伝わっていただろう。
「コルチェスターで会戦!」 「ノルウィックで会戦!」 「セットフォードで会戦!」
「勝利!」 「快勝!」 「圧勝!」
だがギュリドの内心はどうだったろうか。戦場の歓喜を、彼女の戦士達と共有していただろうか。 いや、それ以前に……深海の様なその瞳の奥に、何らかの人間性を見出す事が誰にできただろうか。
……或いはアルフリドならば、それが可能であったのかも知れない。
* * *
「ではやはりスカジの王冠は盟主座に統合されるべきと?」「スカルワ奴隷の流通はどうだ」「十字軍のせいで品余りだ」「おい!
大民会の合意によってノルウェー王位に長子相続が可決された、その夜。宴席はいつもに増して喧しい、
「単なる破れかぶれでしょう。我らを恐れる余り、現実が見えなくなっているに過ぎません」
……そう言う者もいた。しかし、5年を超えた頃から事情は変わっていく。密偵達の報せによれば、緒戦は三々五々に集まった遠征者達をムスリム軍が鎧袖一触に討伐するばかりだったが、「騎士修道会」なる組織の参戦と共に一転攻勢、
「姉様は知ってる? この戦いで、サラセン人がフランク人になんて言っているか」
宴席の最北、そんな喧騒が一切耳に入っていない風で、黙々と蟹を解体していたギュリドにアルフリドが声を掛けた。 ギュリドはいつも通りの無表情で、その妹に首を傾げて応じる。
「……『フランク人が強いのは獣が強いのと同じ』なんですって」
「まるでフランク人がノルド人を『悪鬼』って呼ぶのと同じだわ」
アルフリドはギュリドと同じく、無表情だ。しかし、どこか自嘲の響きを含んでもいる妹の言葉を、ギュリドは蟹の脚を咥えながら聴く。アルフリドも返答を求める事無く続ける。それが、この姉妹の会話だった。アルフリドもどちらかといえば内向的な性質だったが、ギュリドにとって外界が更に"遠い"ものである事をアルフリドは理解していたから、こうして姉とまみえられる時には、自分から話題を持ち出す様にしているのだ。少なくとも、ギュリドにそれを厭う風は無い。
「……姉様、私はムスリムの"科学"に興味がある。彼らが"人間"の条件だとする知性に、知識に興味がある」
ギュリドにとっては意外な事ではなかった。祖父と母の膨大な蔵書には、ギリシャや中東から持ち込まれたものも多量に含まれている。ギュリドにとっては殆ど全く理解する事もできなかったそれらを、妹が幼いうちから熱心に勉強していたのを知っている。
「彼らは百年も前から天の星々について研究していて、例えば、
「地上にはなぜ昼と夜があって、星々がなぜ巡って、月がなぜ満ち欠けするのか……彼らはその"本当の"理由を知っているのよ」
それは、神官達が聞けば卒倒する様な言葉だった。エーシルとヴァニルの代理者である
「……カソリックは、ムスリムより強いかも知れない。そして、ノルドはそのカソリックより強いわ」
ギュリドはアルフリドの眼を覗き込んで訊ねる。
「叶うなら。でも難しいかな……ユランまで来る事はないと思うけど、中フランクでは今肺病が流行っているわ」
「まだゲルレには届いていないけれど、それもいつまでか解らない」
「罹患者の流入を防ぐ為の国境警備の強化や、衛生環境の改善……戻ったら、しなくちゃいけない事が沢山ある……」
溜息を吐くと、アルフリドは愚痴っぽくなってしまった話題を切り替える。
「ええ、夜鳴きの声が大きくてナイメーヘンは皆寝不足に悩まされているわ」
元気過ぎるのも困りものね、とアルフリドは笑う。ギュリドも釣られて、くすくすと笑っていた。他の誰も、ギュリドがそんな顔で笑うのを見た事はないだろう。幼くして両親を失い、偉大な母の美と才をそれぞれ受け継いで「インガの魂の半分ずつ」と言われた姉妹は、確かに二人の魂が元は一つであったかの様に強い絆で結び付いていたのだ。
……そんな、姉妹のやり取りとは無関係に、
「つまりブリテン島はがら空きなんだろう?」「だったら俺が一番最初に出るね!」「"フレイの剣"って呼ばれてるのが誰か知らないんじゃないの?」「大体"イングランド"なんて名前はだな……」「そりゃトティル残酷王の受け売りだろ?」「ケントは元々ユート人の版図だって」「ビョ、ビョルグ様……?」「ザクセン人もいるんだろ」「信じてる奴ぁいねえよ」「また東方で暴動が起きてるのに気の早い……」「トョルフィ氏族長でも手に負えない程なので?」「
「
* * *
「連勝に次ぐ連勝ですな」
と、ギュリドに同行する
しかし、ギュリドはただ船上で夜空を眺めていた。戦の事など、それが「聖戦」であったとしてもまるで興味がないという風に。 彼女の視線の先では、無数の星々が瞬いている。スカンディアとここでは、その配置が全く異なって、まるで異世界にいる様に思わせる。
もう数日の航海で、ギュリドはそこに辿り着く。遂にアルフリドが踏む事の無かった世界に。 この星々について知る事で、姉妹の魂は、再び一つに戻るのかも知れなかった。
公会議に馳せたカソリック者を熱狂させたボニファス7世の演説と、それに続いて起こる第一回十字軍であるが、この運動を語る際に無視できない人物と勢力がある。
ロマノス2世と1026年時点のビザンツ帝国版図。ロマノス2世はこの26年後に崩御するが、治世期間は62年に及び、最も偉大な皇帝の一人として今日にも語られている。
"鉄騎帝"ロマノス2世と、そのビザンツ帝国である。
ロマノス2世は、父・ユーフェミオスが23歳の若さで崩御すると、6歳の若さで登極した(スカンジナヴィアではインガが盟主座に就く2年前、フレイの治世中である)。正教教育の帝王学によって正義と勇気を備えた青年に育った彼は、親政を開始すると積極的に外征を行い、次々にムスリム勢力をアナトリア半島から駆逐する。そして、ナジブ朝とアッバース朝の慢性的な紛争によって巡礼も難しい状態の中東情勢を憂い、彼は同じ「キリスト教徒」であるローマ教皇に、聖地・イェルサレムの奪還を依頼したのである。
ここまで自軍によってムスリムとの戦いに勝利を重ねて来たロマノス2世が、南進を選ばずに
西欧世界に轟いたこの呼集に、カソリック諸侯は信仰のみではなく、「乳と蜜流れる地」と呼ばれる肥沃の場所を我が物にする野心を煽られて兵を送った。 十字軍の熱気は時を追う毎に増し、最終的には23勢力による大多国籍軍となったという。具体的な十字軍諸侯は……
ケント王・ヤコブ・へースティング(後にヤコブ証聖王) アルギアラ伯・タラー・デ・ドゥンダルク ブリソニア王・エンフィダイ・モルガン(エンフィダイ禿頭王) ウイッチェ公・エドウルフ・オヴ・ウェセックス(エドウルフ2世) ブレフネ女伯・モール・ア・ブルーイン・ブレフネ ヴェニス市長公・セヴェリーノ・トラドニコ コーンウォール伯・グレモール・ゲネック アンコーナ女公・ベレンゲール・ディ・モンフェラット(ベレンゲール呪女公) マーシア女公・エグウィン・オヴ・バルキング トスカーナ公・アーシャンボウ・レジーナ オーストリア公・ヴァツラフ・モイミル チロル公・アダルベロ・フォン・ケンプテン イタリア王・オトン・ディ・ラヴェンナ(オトン3世) ジェノア総督・セッチミオ・ヴィンティミリア モデナ公・アルノー・スッポーニディ ランカスター公・エドバルド・ハンティングドン ノーサンブリア王・サイネルフ・オヴ・ノーサンブリア ウェセックス王・エゼルリック・オヴ・ウェセックス(エゼルリック2世)
以上18名が記録されている(参戦順)。 フランク諸侯は殆どがノルドへの警戒の為に参戦を見送った様で、ブリテン島とイタリア半島の勢力が主である。
これに当然、呼び掛けを行った教皇軍が加わり、そして……
聖ヨハネ騎士団、チュートン騎士団、カラトラバ騎士団、サンチアゴ騎士団……後に幾度もノルド達とも矛を交える「騎士修道会」達も立ち上がったのである。 彼らは何れも教会を守護する戦士として訓練を積んだ数千人規模の戦力を有しており、十字軍の主力となって戦った。
迎え撃つのはスンニ派ナジブ朝アラブのカリフ・フッサインである。
臆病且つ内気な人物だが、12歳で即位し、長期の統治によって中東の安定を試みたが……。
フッサインは次から次へと進軍してくるキリスト教徒から聖地を守る為、周辺イスラム国に援軍を要請。応じたのは……
サッファール朝ペルシャの
以上3名であった(参戦順)。
勢力数でいえば十字軍諸侯が圧倒的だが、イスラム連合軍の構成国は何れも動員力1万~2万超の強国である。 2大啓典宗教同士の全面戦争は、その勝利がどちらのものとなってもおかしくない状況で開幕した。
話を北欧に戻そう。
聖戦によってスカンジナヴィア帝国はブローンスヴィ*1を獲得。コス氏族のオッドなるノルドを大族長として封じている。
この地はカソリックにとってはカール大帝がレオ教皇と帝位戴冠を約束した場所であり、その後に設置された司教座は「パデルボルン大聖堂」として壮麗を誇っていた。
しかし、この地を特別視するのは
「この地なら、汝らにも聴こえよう! 父祖の勝利と敗北の、両方があったこの場所ならば!!」
「
そうして宣言されたのが「古き神々の怒り」である。無口なギュリドはただ座して臣民を睥睨し、代わって皇配・ウルフによって叫ばれた抽象的な言葉だったが、それが何を意味するものかを全てのノルドが理解し、宗教的熱狂を共有していた。
「
「
「汝は
この時、歓呼するノルド戦士達は皆同じ思いで、ギュリドを「フレイヤの再来」と看做し、彼女を「
ともかく、カリフ・ナジブによる「ジハードの時代の到来」、教皇・ボニファス7世による「十字軍宣言」、そして盟主・ギュリドによる「古き神々の怒り」。 三人の宗教指導者による三つの宣言により、中世という時代は空前絶後の宗教戦争時代に突入したのである。
更なる外征を望む声は帝国中から上がっていた。しかし、実際にギュリドがそれを宣言するには少々の時間を置く事になる。 それというのも……
「ヴァニル戦争」で帝国中が戦場となった事で悪化した治安の影響か、次々と暴動が発生し、帝軍はその対処に追われていたのである。 ブリュンシュヴィック聖戦の終わった1025年の冬から丸9年の間に発生した暴動は記録されただけで8回*3。それは単に農民の一揆であったり、ノルド文化を拒む地元民や盟約を受け入れないカソリックの決起であったりしたが、統一された運動では無く、西はドイツ、東はロシアでも起こった為、虱潰しに鎮圧していく以外に方法が無く、帝国は足踏みを強いられる事となった。
とはいえ、その間に暴動と鎮圧以外に何の出来事も無かったわけでもない。
ギュリドは王権の拡大をノルウェー民会に認めさせ、1031年にノルウェー王冠の長子相続制を確立。フローニ内のギュラ氏族からは「アンラウフ氏族の王位独占である!」という声が上がり、自身もギュラ氏族である皇配・ウルフも反対票を投じて、一時は夫婦間の不仲が囁かれたが、反乱などの大事には到らなかった様である。
そして、1034年の初頭にノルド世界初の天文台を建築した。彼女は空いた時間をこの天文台で星を見ながら過ごす事が多く、天体について熱心に研究していたという。しかし、その副産物はともかくとして、その肝心の研究成果については残念ながら殆ど何も残されていない(理由については次回以降に述べよう)。
国内の他の人物については……
中フランクで流行した結核がオランダに到達。ギュリドの妹であるゲルレ大族長・アルフリドは疫禍の拡大を防ぐ為全力を尽くして対処する最中に自らも感染、25歳で命を落とした。その才能の豊かさから「賢明なるアルフリド」と呼ばれた彼女の余りに若い死を、臣民達は大いに嘆いた。大族長位は幼い長男・シグビョルンに継承された。 アルフリドの遺言通り、疫病の拡大を防ぐ為に遺体はホーセンスに送られる事無く直ぐに火葬されたが、報せを聞いたギュリドはこれに両目を見開くと、無言で使者を幾度も打擲して怒り、家臣達の目があるのも構わず火の間で大声を上げて、高熱を出して倒れるまで泣いたという。両親を幼い内に亡くし、直接の肉親と言えるのが妹しかいなかったギュリドにとって、これは半身を喪失したに等しい苦痛だったのではないだろうか。
リトアニア女王・ハフリドは順調に周辺部族の平定を進め、リトアニアの
ヘルギの死の後、その長男・フレイ2世に継承されたポメラニアとフィンランドだが、フレイ2世は1031年にユート氏族のイングヴァルなる人物によって暗殺されている。 フレイ2世が長子相続制を確立した為、フィンランドは当時8歳の長女・ビョルグに継承されたが、ポメラニアは選挙相続に留まっており、幼い女王を退けてヘルギの三男・ホルズガルに継承された。しかし、そのホルズガルは戴冠してから僅か半年で疫病に倒れ、今度はヘルギの次男・シグルドに継承される事となった。
1034年時点のポメラニア王・シグルド。ヘルギの数多い妾腹の子の一人だが、類稀な交渉力でポメラニアの族長達を上手くまとめた。
1034年時点のフィンランド女王・ビョルグ。先天的な脊柱湾曲で「せむしのビョルグ」と呼ばれていたが、敬虔かつ慈悲深い性格で家臣に慕われた。
そして、1034年の秋がやって来る。
これは飽くまで伝説であるが……
ギュリドが家臣達に伴われて狩り遊びに出ていた時の事、大鴉を見かけたギュリドは、突然そちらへ駆け出したという。するとその先で、簡素な旅装に、つば広帽子を被った一人の老人が現れた。訝しむ家臣達だったが、その老人の一瞥が放った奇異な威圧感に圧倒されてしまい、その老人がギュリドに直接声を掛ける事を許してしまう。いやに熱心な眼差しを向けるギュリドに、老人は角杯一杯の蜂蜜酒を要求した。ギュリドがそれを与えさせると、老人はしゃがれ声で、盟主に対して傲慢にも鷹揚に、こう続けたという。
「
「馬の頭から馬の脚で西に一晩駆ければ汝は黄金を得る。釣り針を釣り針へ西に掛ければ汝は一国を得るだろう」
「ヴァニルの眷属よ、嘗ての我が民に我が名を思い出させよ」
謎掛けめいた事を言うと、その老人は一陣の突風と共に姿を消した。その片目は、つば広帽子で隠されて最後まで窺う事ができなかった。
ギュリドはすぐさま
そうして、二つ目の問いがギュリドに宣戦を決断させたのだという。
「フローニ家のサガ」によればアンラウフ王にも「オーディンの黄金」を発掘する伝説がある。この伝説はそれを"再利用"して作られた演出であったかも知れないが、中世初期~中期においてその様な例は珍しくない。
ともかく重用なのは、ギュリドが神の要請を受けて勅を出した、という無上の正当性であった。
1034年10月中旬。
「
「ネヘレニアの見守る、我らが海を、
「これは退けられた大鴉旗の
「そしてこれは、
「イングランドよりアングル人を駆逐せよ! 最後の一人まで、最後の最後の一人まで!!」
「或いは誉れある死を! 我らと奴らの血でブリテンの草花を育ませよ!!」
ゼーゲベルクの寺院で開かれた大民会では、ギュリドはただ黙して座り、ウルフが信仰の情熱に満ちた言葉で勅を伝えたという。 そしてこの宣言によって、大聖戦が始まり、ブリテン島は再び地獄に変わったのである。
標的となったのは"肥満王"オスムンド2世のイングランドである。
オスムンド2世とイングランド王国。美食を愛し、怠惰な人物であったというが、その卓越した外交手腕から「黄金の舌を持つ」とも言われた名君。 戦術家としても知られ、チェスの名手でもあったという。しかし、宣戦を受けた時には病に臥せっており、その能力を完全には発揮できなかった。
当時のイングランド王国の動員力は約5500名、同盟者であるアストゥリアス王・ディエゴ3世は1027年に老死してしまっていたが、これはアルバ王国と並んでブリテン島の勢力では最大規模だった。その事もあって、戦いの最初の一年間、イングランド軍は功を逸ってバラバラに上陸したノルド族長の軍を次々と迎撃し、苦戦する様子すら無かった。
また、その12月に十字軍の成功、つまりキリスト教徒によるイェルサレム奪還が果たされていた。その領有権については、戦功著しいチュートン騎士団に守護を任せる事とされ、この事もあって、一時は萎れていたカソリック全体が「異教徒恐れるに足らず!」の意気で盛り返しを見せるかに見えた。しかし……
翌年、10月。漸く動員と編成を終えたスカンジナヴィア帝国軍の本体がリンカンに上陸、首府・ゲインスボローの包囲を開始した。
その数、約17000名。率いるのは西フリースランド族長、名将・ゴルムを輩出したスロヴェンスキー氏族のグリムである。
ゲインスボローは翌年3月までに陥落するが、オスムンドはこれに対して周辺諸侯に援軍を要請すると共に、聖ヨハネ騎士団を召喚。 そして、自ら指揮を執ってリンカン奪還戦を挑んだ。
しかし、オスムンドの軍・約4000名のみが突出してしまった上に、リンカンの地理上、渡河戦闘は避けられず*4、後詰の騎士団達が到着する前に壊走。援軍・約9000名は報せを受けて転進する事態になる。
加えて、イェルサレム領を喪失したナジブ朝の当代カリフ・フッサインは、十字軍と同規模の多国籍同盟による「新たなるジハード」をムスリム諸侯に提案。
それに呼応して
そうして、カソリックの未来に再び濃い暗雲がかかる中で、本格的なブリテン島での攻防戦が幕を開けた。この戦いもまた、十字軍に劣らず多勢力同士の衝突となる。
最終的に参戦した
盟主にしてスカンジナヴィア女帝・フローニ氏族のギュリド(ギュリド無策女帝) オーランド族長・インリング氏族のアンラウフ ヴェルマランド族長・ラーデ氏族のバルド フェレヤル族長・ホロルフィング氏族のエイステン ヤムタランド大族長・アフ・ヘルイェダレン氏族のケティルムンド2世 ゴートランド大族長・グーテ氏族のトステ("肥満なる"トステ) スカンジナヴィア皇配にして東ゴートランド大族長・フローニ氏族のウルフ ブルッへ族長・インリング氏族のインギャルド("フレイの剣"インギャルド) プルシア大族長・カウピング氏族のオッド ゲルレ大族長・フローニ氏族のシグビョルン(開戦時は僅か5歳。実際に参戦を表明したのは摂政のボルクム神官・シグルド) ポメラニア王・フローニ氏族のシグルド タヴァステフス族長・アフ・ハイコネン氏族のホラーネ ダル族長・ヨートスケ氏族のホラーネ 北方諸島王国大族長・ウィルクス氏族のガリンダス2世 ヘルヤダル族長・アフ・ヘルイェダレン氏族のブドゥリ トロンデラーグ女大族長・ラーデ氏族のビョルグ("高貴なる"ビョルグ) ヒャルトランド族長・ウィルクス氏族のクギス
対するブリテン島連合軍は最終的に以下11名が参戦した(参戦順)。
イングランド王・オスムンド・オヴ・マーシア(オスムンド2世肥満王) コーンウォール伯・グレモール・ゲネック(十字軍諸侯) ウェセックス王・エゼルリック・オヴ・ウェセックス(エゼルリック2世) ノーサンブリア王・サイネルフ・オヴ・ノーサンブリア(十字軍諸侯) ブレフネ女公・モール・ア・ブルーイン・ブレフネ(十字軍諸侯) アルバ王・シンガル・モルガン ブリソニア王・エンフィダイ・モルガン(エンフィダイ禿頭王、十字軍諸侯) ケント王・ヤコブ・へースティング(ヤコブ証聖王、十字軍諸侯) アライド*5王・カイハー・デ・ダンジヴェン(カイハー解放王) コンナータ*6伯・スネーグス・ア・ブルーイン・アイ デスムンへーン*7伯・フォーガルタッハ・エーガナクト・レースリン(フォーガルタッハ雷鳴伯)
その後、グリムはリンカンを放棄してノーフォークへ南進。転進した聖ヨハネ騎士団はリンカン奪還に向けて北進へ切り戻す……が、ケム河を渡った所で、驚異的な行軍速度で西進したグリムの軍に攻撃される*8。
圧倒的不利とはいえ流石の騎士団、このケンブリッジの戦いではスヴィドヨッド大族長ら3名の
この戦いもグリムお得意の「渡河を誘ってからの攻撃」という戦術が用いられ、大勝する。 その後はノーサンプトンの占領を進め、再びブリテン軍が9000人規模まで再編を進め、ノーフォークの解放に向かった所を、渡河を避ける為にサフォークから回って攻撃。1038年の6月頃にノルウィック~セットフォードで会戦となる。
今度は地理上の有利は無いものの、練度と員数差で終始圧倒し、快勝。追撃も抜かりなく、ブリテン軍は戦力の再編すら不可能な状態になる。 以降、グリムは合流を試みる敵軍を虱潰しに掃討しながら次々に占領を進め……
1040年の9月下旬、6年に亘る戦闘の末に全戦力を撃破し、遂にはオスムンド2世に全諸侯の所領剥奪を含めた条件で降伏を認めさせたのである(オスムンド2世本人はイングランド外に有していた領土であるポウィスに宮廷を移した)。
特筆すべきは、グリムはこの戦争の間に一度も本国からの援軍を受けておらず、諸族長達の合流はあれど、最初に与えられた約1万7千名の兵員で、都合3万5千人以上のキリスト教徒を殺戮したという事である。ネヘレニア戦争でトステがもぎ取った様な英雄的勝利こそ無いものの、敵地にあっても地理を冷静に分析して常に有利な状況を作り、それぞれの戦闘ではより多数の兵員で戦うという、ある意味では非ノルド的で効率的な戦闘を可能足らしめた軍才は今日も高い評価を得ている。
しかし、これはほんの始まりでしかなかった。
この
……さて、上記のグリム奮闘する大聖戦はブリテン島での出来事である。フランク諸国はこの戦いを沈黙で見守り、スカンジナヴィア本国には一兵足りとキリスト教徒が上陸する事はなかった。 平和そのものであったユランで、ギュリドは何をしていたのか。次回はそこから始めるとしよう。
1040年9月時点のギュリド。その政務能力の高さは天才的とさえ評され、最早彼女を愚鈍と呼ぶ者はいなかった事だろう。