AAR/フレイヤの末裔 AAR/フレイヤの末裔/盟主ギュリド(前編)
私は風に吹き晒される樹に九日九夜我が身を吊るし 槍で自身を傷付け、オーディンに、即ち私自身に捧げた。 天に伸びるその樹が何処に根付くものか誰も知らなかった。
誰も食事や飲物を恵む事をしなかったので、私は下を覗き込んだ。 私はその時にルーン文字を理解してそれを叫び、下へ落ちたのだ。
――「オーディンの箴言」137・138連目
それはホーセンスの地下牢の中でも最も奥まった場所へ続く道。ギュリドの胸は高鳴っていた。スクルドを伴って行く足取りも軽い。
その奥に、愛しい人が待っているから。
最奥の獄に着くと、ギュリドはその名前を呼ぶ。目には恍惚が浮かんでいる。普段表情らしい表情を見せる事すら殆どない彼女がこの場所でだけ見せるその熱っぽい貌は、造形の美しさとも相俟って異様さが際立つ。それを見る都度、美形とはある種の異形でもあると、スクルドに思わせるのだった。
俯いていた囚人が顔を上げる。それは確かにヘルギだった。前盟主・インガの弟であり、ギュリドの叔父である。しかし、無数の女達を魅了し、陰謀にさえ巻き込ませたその美貌は無残にこけ衰えている。桎梏に繋がれ、盟主の裁断を待つ憔悴が、ヘルギから誘惑者としての精彩を失わせている様だった。 元々の美男ぶりを知るものからすれば、それは余計に惨めに映るのに、ギュリドにとっては全く何の害いもない様だった。
「ノルウェーを、譲る……、盟主座も、お前のものだ……だから……」
懸命に呟くヘルギに何ら応じる事なく、スクルドは牢の扉を開く。ギュリドはふわふわと、夢遊する様な足取りでヘルギの傍につく。
ギュリドの白い指が、愛しげにヘルギの顔に触れる。ヘルギは触れられるがまま、縋る様に問う。
何度目の問答だろう。ここに来る度に繰り返されるヘルギの命乞いに、スクルドは憐憫を通り越して呆れを覚えていた。
インガは『シフの呪い』と戦いながら民会と争い、自分の意思を貫いて誇り高く死んだのだ。だのに、ヘルギにはその潔さが全く感じられなかった。「死を恐れず」というノルドの美徳が、この姦夫には備わっていない様に思えた。 溜息一つ。スクルドは用件を開始する。
ヘルギの表情が一転明るくなる。ほつれた顎鬚をギュリドになぶらせるまま、スクルドに向ける視線が期待に輝いている。
一転、ヘルギの顔が引きつる。スクルドの冷たい声音はどう聞いても、希望を見出せる質のものではないからだ。
「言うまでもない事ですが、
「しかし、ヘルギ様程の貴人であれば、相応の額を用意していただかねばなりません。お分かり下さいませ」
ヘルギの奥歯がガチガチと鳴り始める。それでも、何とか説得を試みようという生き汚さがまだこの男にはあった。
「ま、待て! ヴォルガスト中をひっくり返せば、まだどこかに……!」
「……はい、そう思いまして、こちらからも視察団を送って探させましたが……」
「解った……! フィンランドも、ポメラニアも要らん! 王冠を捧げる!!」
「一罪一罰。盟主猊下はヘルギ様から既にノルウェー王位を剥奪しておられます。これ以上はギュリド様の専横を家臣に思わせましょう」
「そ、それを恐れるなら
顔を覗き込んで、撫で回し続けているギュリドを見上げ、ヘルギは目一杯の哀訴を試みる事にした様だった。スクルドにはそれが余りに痛々しく、思わず目を背けてしまう。
痛々しかった。まだ、自分の言葉がギュリドに通じているのだと、何らかの意思疎通が彼女と可能なのだと、この女盟主の倫理が常人のそれと同様のものだと、そう信じて憐れを請うヘルギ王が、スクルドには余りにも居た堪れなかった。
ギュリドの顔が近づいて来る。ギュリドの異様に澄んだ瞳を見上げながら、ヘルギは深海を覗き込む様な錯覚に陥る。 ギュリドの眼差しは深淵そのものだった。
その深淵に魂を呑まれて、言葉を為す事もできないまま開かれたヘルギの唇に、ギュリドの唇が重ねられる。 スクルドは目を瞑り、小さな声で祈った。
ギュリドが歓びに満ちてこの獄を去るまで、ヘルギは結局それ以上何を言う事もできなかった。
この年の
成人以降、ギュリドという女盟主の評価は急激に変化する。 美貌の母・インガに瓜二つに育った彼女は、寡黙というよりは自閉的なその人格から、「美しいだけ」の盟主に育ったものだと考えられていた。しかし、実際に彼女が政務を開始すると、スクルドの施した政務教育を完璧に吸収していた事が理解される様になった。 各首長や神官達から上げられる直轄地の報告からその地の経済状況を正確に把握し、無言のまま採決を下し続ける彼女の経済的な判断力は摂政・トステのそれをゆうに上回り、宮廷の仕事量は大幅に増えたのである。
結婚式と皇配・ウルフ。短気で思った事を直ぐに口に出す癖はあったが、優しく公正な人物でもあったという。
宮廷の審査によって結婚相手に選ばれたのは、ほぼ同時期に成人した西ゴートランド大族長・ウルフである。ギュリドとは対照的に多弁な人物であった彼の、そのコミュニケーション能力の高さが求められての事である。 野心的なスウェーデン系フローニである彼はギュリドを一方的に嫌っていた様であるが、皇配という地位を目当てにこれを受ける。ギュリドは彼に対して何ら感想を持つ事もなく、まるで関心を見せないまま、黙々と族長達から受け取った貢物を、部隊の補給に宛てるよう指示した。この貢物が、内乱の明暗を分けた。
軍団長・ベルシ。
この内乱の最中、常に帝軍を率いていたのはアルトナ市首長・ベルシである。摂政・トステの死後には元帥職にもついている彼は、ユート氏族の勇猛と、残酷な気性、そして十代の頃にヴァリヤーグ親衛隊に所属していた事で身に付けた「近代的」な兵法の使い手で知られていた。いまや反乱軍側についているゴルムとは異なり、奇策を好む彼が次に取った一手は、彼の人物性が露になったものであったと言えるだろう。
北上して来たトリュッヴェの軍を避けて軍を動かしたベルシであるが、それは単なる撤退では無かった。 ベルシは数の優位に任せて決戦を求める反乱軍を東方向に避け、次に南下、追ってきたのを確認すると今度は南西へ、そして北上し、エストニアを一周してオーゼル島へ渡った。……一体なぜこの様なルートを取ったのか。それには理由がある。
エストニアに蔓延していた発疹チフスを利用し、自軍が被ったのと同じ疫病による損耗を、敵軍にも強いたのである。当然、自軍の消耗も多大であったが、盟主の結婚によって得られた貢物によって補給と増員が再開され、長期的に見れば敵よりも有利な状況だったのだ。 この行軍は敵味方双方にとって地獄の様相を呈したが、ベルシは上がる悲鳴を意に介すること一切無く、全ての兵隊に病禍の晴れるまでエストニア中を歩かせ続けた。そして、オーゼル島からダゴ島に全軍を上陸させ、敵が未だ数的優位を頼っているのを良しと見て、上陸際を迎撃する作戦に出たのである。
こうして行われたのが、「ダゴ島の戦い」である。予めリガ湾側に並べた
1017年5月。ホラーネはヨムス・ヴァイキングに降伏。オストランデをユート氏族のハーラルに明け渡す事を宣言した。これによってこのハーラルは、同じ土地を支配したハーラル美髪王に続く「ハーラル2世」、或いは「剥奪者ハーラル」として知られる様になる。
ハーラル2世はスカンジナヴィア帝国の使者に二つ返事で臣従する事を認め、ホラーネの叛乱軍は最早組織としての体裁を保つ事もできなくなっていた。
そしてその翌月……
両叛乱軍は降伏。首謀者である族長達全員が逮捕され、7年半に及んだ内乱「ヴァニル戦争」は終結したのである。
逮捕者達はそれぞれ第一称号を剥奪されて、それによって帝国の勢力図は再整理されている。 先ず、叛乱側だった大族長4名の第一称号は以下の様に移された。
・フィンランド大族長位:アフ・ハイコネン氏族のホラーネ(タヴァステフス族長) → アフ・アスコ氏族のスーニ(フィンランド族長) ・エストニア大族長位:フローニ氏族のトリュッヴェ(ナルヴァ族長) → ヴィットシャーク氏族のローンヴァルド(レヴァル族長) ・ホルムガルド大族長位:フローニ氏族のトロンド(ラドガ族長) → トョルフィ氏族のヘルギ2世(トルジョーク族長) ・クールラント大族長位:クニュットリング氏族のスヴァンヒルド(クールラント族長) → クニュットリング氏族のストゥルラ(リガ族長)
ホルムガルド大族長として逮捕されたトロンドはアストリドの息子である。アストリドはインガの娘と争う事に最後まで心を痛め、1012年に病に倒れていた。
また、前々帝・フレイによってエストニアに命脈を保った"
族長位レベルの整理については細かくは割愛するが、この再整理でブレッキンゲとブルガンダホルム以外のスコーネ領がギュリドの直轄地に加わり、他は
そして、この内乱で最も問題視された人物……ギュリドの叔父であるヘルギ王からは、ノルウェー王位が剥奪されている。これによって大幅に増えた直臣数は帝国民会のキャパシティを超えており、これを調整する為に新たにリトアニア王位が設けられ、リトアニア大族長・ハフリドに与えられた。
前稿でも紹介したリトアニア大族長・ハフリド。後には「フレイの剣」の異名で恐れられる女戦士であり、ギュリドのまたいとこである。
これら所領の整理が済むと、彼らの殆どは身代金と引き換えに釈放されている。
戦費によって破綻していた帝国経済はこれを元手にある程度息を吹き返し、前盟主・インガを讃えるルーン石碑の建立もこの資金によって行われた。
しかしこの時、ヘルギ王は自身の階級に見合う身代金の準備が不可能であった事を理由に拘留が継続された。
だが、この拘留はギュリドの意思によるものであるという説もある。ギュリドの初恋はヘルギであり、彼を手放す事を惜しんだ、という話である*2。事実、身代金を要求せずに釈放する事も彼女にはできた筈で、同氏族であり王である彼を釈放すれば、それによって臣民の信望は高められた筈なのである。しかし、未だ2つの王位を持ち、悪心を持ったままのヘルギを釈放する事はリスキーだった、と考える事もでき、これを「悪趣味な物語」だと断じる者も少なくない。 それが如何なる理由によるにしても、ヘルギ王は釈放されなかった。そしてヘルギ王が拘留されたまま迎えられた、その年の冬……
ギュリドは終戦を記念し、帝国の安泰を祈る為に、
トネリコの枝に最初に首を括られたのは、ヘーデ氏族のマエル。叛乱軍に与したスコーネ族長・ゼームンドの妹である。彼女は首に縄を掛けられる際に一番近くの衛兵を突き飛ばして懸命に逃れようとしたが、敢え無く捕らえられてオーディンに捧げられたという。 次に、バーベンベルク家のコンスタンツェ。彼女はオレンボー伯・クリストファの従妹であったというが、いつ頃捕らえられたのかは良く解っていない。彼女は聖書の言葉を呟きながら異教の儀式に掛かる最期を迎えた。 そして……
三人目は、ヘルギ王であったという。
「ギュリド、止せ! 止すんだ!! 我々は同じ血を引く家族だぞ!? こんな、こんな馬鹿げた事は止すんだ!」
ヘルギの命乞いをいつも通りの呆けた様な眼差しで見下ろしながら、ギュリドは執行を命じたという。
最後に吊るされたゲロルフ家のアルフヒルドは、この、家族であろうと構わずに生贄に捧げる蛮族達の所業を恐れ、神の憐れみよあれと祈りながら捧げられたという。
犠牲祭は熱狂に包まれ、高らかな
「ヴァニル戦争」を制した事で、ギュリドはその性別と若さに反した多大な忠誠を獲得する事に成功していたのである。
それから暫くは経済の建て直しの為に例の如く東フランクに略奪軍を出すくらいで、スカンジナヴィア帝国に大きな動きは無い。 そこで、この頃の近隣国の様子を紹介しておこう。
西フランクでは反乱が収まっていたが、1016年の中頃にギーグ2世が心労によって身罷った事でその長男・カルロマン4世が戴冠していた。 このカルロマン4世、愚鈍と呼ばれたギュリドを遥かに"下回る"愚鈍ぶりで、国内の安定は望むべくもない状態であったという。
東フランク。"大女王"マリアは1006年に不審死し(恐らくは暗殺だが、首謀者は不明)、その息子のヘリベルトが王位に就いている。 彼の治世は長くは続かず、1022年に彼も母同様に不審死し、娘のオステルヒルトが僅か5歳で戴冠する事になる。
中フランクのクロターレ不徳王は意外にも諸侯の支持の獲得に成功していたという。 バイエルンや東フランクの内乱鎮圧に援軍を送るなどしてフランク諸国との繋がりを強める方針を採っている。
中欧~東欧。まだまだ部族集団の割拠状態が続いている上にスカンジナヴィア帝国の飛び地も多く、混沌としている。 これまでは比較的安定しているかに見えたリャコヴィッチ朝ルテニア王国だったが、前王の息子二人の間で深刻な継承争いが勃発して版図が分裂してしまっている。そしてアールパード朝出身のエレクなる人物の侵略を受け、キエフ公爵号は完全に国外に流出、慢性的な係争状態にある。
ブリテン島。マーシア朝イングランド、ウェセックス朝ウェセックス、ノーサンブリア朝ノーサンブリア、モルガン朝アルバ及びブリソニアが割拠し、拮抗状態にある。 国力ではモルガン朝同盟が一つ抜けて強いが、イングランド王とウェセックス王はどちらもアストゥリアス国王・ディエゴ3世を同盟者に持ち、睨み合いが続いていた。
ついでにこの頃の各国の動員力ランキングを確認してみよう。資料は1020年末頃の評価である。
一位は文句無しのマケドニア朝ビザンツ帝国。何と言っても大ローマ(の東方領土)を直接継承する最大の正教国家である。 二位はフローニ朝スカンジナヴィア帝国。ユラン半島から始まったフローニの覇業が、1世紀半という短さでノルド世界をこの高みまで押し上げた。大躍進である。 三位はトゥールーン朝エジプト王国。シナイ半島からトリポリタニアまでを支配するイスラム世界最大の先進国で、その繁栄はカリフ国をも凌ぐ。 四位はナジブ朝アラビア帝国。スンニ派カリフ国。完全な状態であればビザンツと拮抗し得た筈なのだが、国内では絶えずアッバース朝との争いが続いている。 五位はラーシュトラクータ朝テランガナ王国。インド亜大陸の中央部を支配するジャイナ教の大国である。 六位はラヴェンナ朝イタリア王国。西欧世界で唯一のベスト10入りである。慣習領土と実効領土がほぼ完全に一致する数少ない国家でもある。 七位はウマイヤ朝モーリタニア王国。反乱によってヒスパニア領の大部分はクタミ朝のものとなっているが、流石の名門である。 八位はアラビア帝国内アッバース朝派勢力。朝内に蔓延った頽廃によってナジブ朝にカリフ位を奪われたが、その奪還を求めて絶え間ない反抗運動を続けている。 九位はアグラブ朝アフリカ王国。慣習領土の約半分をトゥールーン朝に飲み込まれていて尚この順位。この時代、イスラム国である事は先進国であるという事だった。 十位はアールパード朝カルパチア帝国。帝国を名乗ってはいるが、クマニア領を反乱で喪失し、その版図はハンガリー王国領のみである。
このランキングから解る事がある。1020年時点で既にスカンジナヴィア帝国は西欧世界に対して圧倒的な戦力を有し、列強の目白押す地中海~アフリカ世界から距離もある事で、覇権国家としての国力獲得の為に殆ど何の拘束もない状態にあった、という事である。
1020年9月、ギュリドの妹であるゲルレ大族長・アルフリドが成人。物静かな人物だが思う事には素直で、公正にして敬虔な人物に育っていたという。 ギュリドとの仲も良好で、帝位への請求権こそ持つものの、その天才を乱用して簒奪を窺う様な事はせず、ゲルレに善政を布いたという。
その11月頃にギュリドの妊娠が明らかになる。翌年6月に生まれたのは双子で、兄はビルゲル、弟はシグルドと名付けられた。
1021年8月、ハンブルグの工夫達が
かと言ってギュリド本人は贅沢を好んだわけでもなく、皇帝らしからぬ粗食が常であったという。彼女の経済に対する興味はいわば数学的な興味であった様で、吝嗇家とは言わないまでも、浪費そのものに楽しみを見出す事はなかった様である。
そんな彼女に、宗教指導者として疑問を持つ者は多かった。確かに財産の拡大は
ともかく、彼女の働きによって、一時は壊滅的な状態にあった国内経済は復興期から発展期へ、ほんの数年で立て直されたのである。
1022年、東フランク王・ヘリベルトが23歳の若さで不審死。彼の母・マリア女王も不審死であった事から、王位を狙う何者かによる暗殺が疑われた。その黒幕として最も疑惑濃厚なのはクリームヒルト・カロリングと、その夫のボヘミア王・ザーヴィシュである。
ボヘミア王夫妻。ザーヴィシュ王はモイミル朝ボヘミア王の血を引く庶子で、代が変わった際にその請求権で王位を簒奪した野心家である。
クリームヒルトはヘリベルトの姉であり、隣国・ボヘミアに嫁いだ王妃である。これは自らが東フランク王位を継承し、いずれは息子に東フランクとボヘミアの二つの王冠を与えようと画策した、という説である。尤も、クリームヒルトは野心的とは言い難い控えめな人物であったので、その夫のザーヴィシュが真の黒幕だったのだろう。
犯人が何者であれ、ヘリベルトの死によって王位を継いだのは、その一人娘・オステルヒルトであった。当時5歳、余りにも若い戴冠であり、国内は王権縮小を求める内乱の真っ只中だった事もあって非常に危うい国勢にあったといえる。ノルド人達が、この隙を逃す筈が無かった。
ギュリドは、曾祖父・シグルド2世が行ったブリュンシュヴィック公領を求める聖戦を再宣言したのである。 これに東フランクの大臣達は大慌てで内乱を鎮圧し、各同盟者へ援軍を要請し、西フランク・中フランク・ボヘミア・バイエルン・アキテーヌの参戦を得た。
スカンジナヴィア軍がハンブルクに集結させた軍団・約1万8千名は、エルベ河を渡ってツェレでフランク軍・約9000名と激突する。
幼い女王を救う為、西フランク・中フランクの二王は
その後、スカンジナヴィア軍は北方の領土を占領していく。再編成されたフランク軍・約7500名とアウリッヒで戦いになるが、これも快勝。
完全に戦闘力を失ったフランク軍は、1025年11月に降伏。ブリュンシュヴィックはスカンジナヴィア帝国に割譲される事となった。 大きな損耗も無く、本土に上陸させる事もせずに得た余裕の勝利であった。
そしてこれによって、スカンジナヴィア帝国は「ゲルマン信仰の聖地」と看做される全ての場所をその版図に収めたのである。
盟主の軍勢に喫し続けている連敗は、カソリックの威信を大きく害わせていた。 これを誰よりも憂いたのはこの人物だった。
ローマ教皇・ボニファス7世である。 ボニファス7世は西フランク西部・クレルモンで行われた教会会議の折に、この様に演説した。
「キリスト者よ、貴き者、卑しき者、富める者、貧しき者、その全てはキリスト者を救うべく征くが良い」
「主は我らを導かれる。主の正義を示して戦い、戦い果てた者からは全ての罪が濯がれよう」
「地上で貧しさと苦痛に苛まれた者も、主の御国では富み、歓び、主の友となるだろう」
「征くべきは今。主の導きに従い、次の夏がくれば、それが出征の時と心得よ」
それは「中世盛期」の始まりを告げる言葉である。全てのカソリック者を熱狂させ、「
後に「十字軍宣言」と呼ばれる宣言であった。
人類史上最大の宗教戦争時代が、始まろうとしていた。