私は特にチェスが好みだが 九つの特技を身に付けている 私に解らぬルーン文字は殆どなく 読書と工芸もよく行い スキーの滑り方も知っている 射撃と航海の術にも長け 詩作とハープの演奏も心得ている
――『オークニー諸島人のサガ』のうち『男の特技』。
書斎の静寂に、二つの声が響く。一つは若い女のもの、もう一つは更に若い、いや幼い少女の声だ。 ルーン文字の資料を改めていたカルルはその二人……インガとアストリドを笑顔で迎え入れた。
「猊下ほどでは御座いません。石碑の建立も大事ですが、少し御休みになられては如何ですか」
カルルの書斎には全欧州から集められた知識が整理・収蔵されている。 インガは聳え立つ書架の幾つかに帯出物を返納しながら、次の教育に必要となるであろう資料を抜き出していく。
「そうもいかんよ。わしに残されている時間はそう長くないだろうから、できるだけの事を済ませておかねばならん」
「特に石碑については、もう腕の良い職人も随分限られて来てしまっている。伝統技術の後継者問題は深刻だ」
「寿命の心配をなさるなら余計に無茶をなさらないで下さい。先日は騎兵の訓練にまで御参加されたと聞いています」
「ああ、トステに誘われてな。何でも攫って来た南方の馬を軍団に取り込む実験だとか言っておった。馬の数を増やすには時間がかかるだろうがな」
カルルは手綱を握る様なジェスチャーをして身体を上下に揺らし、楽しそうに乗馬の感想を始める。
「しかし南方の馬はやはりすごいな、背も高いし脚も軽い。氷原や沼地には向かんだろうが、平原での機動力は疾風の様だ」
「そして何より良く跳ねる。時々宙を舞う様になってな! あれだけ身体を揺すぶられると、却って寿命が延びる気がしたわい」
インガは溜息を吐きながら「そう仰るなら」と諦め顔だ。 すると、インガの抜き出した本を眺めていたアストリドが、カルルに呼び掛けた。
インガに訂正を促され、たどたどしくも従うアストリドを微笑ましく思いながら、カルルは応じる。 アストリドは壁を為す膨大な蔵書を眺め、訊ねる。
インガが苦笑を深める。幼さ故か、或いは"豪胆王"と呼ばれたリューリクの血がそうさせたのか、
「良い良い。盟主座の歴史も丁度10年、言うなればアストリドと『同い年』であろう」
謝罪するインガを制止して、カルルはアストリドの質問に答える。
「その通りだよ。40年程かかったし、ここ数年は更に勢いがついて本が増えているから、追い付けていない分も多少あるがね」
カルルは目を細めて肯く。その通り、その通りに違いなかった。始まりは、リンダの口付けを享けたあの日。
あの聡明な妻に相応しい男になる為に、愛した女の名誉を自らによって高める為に、カルルは分野を問わずあらゆる能力を高めようと努めた。
勿論、カルルの中にも民を思う心があって、それも強い動機だったが、自分の覇道と求道の原点を思う時、そこには常にこの恋心があった。
その恋が、戴冠の時には「実質の王配」と嘲られたカルルを、
「わたしもいっぱい勉強をして、立派にホルムガルドを治めてみせます!」
「ああ、きっとそうなるだろう。何と言っても、アストリドの御先祖は最も偉大な
そう言うと、アストリドもどこか誇らしげだ。インガの教育の賜物か、彼女の中には既に氏族の自負が育っているのが窺えた。
「アストリド、余り御邪魔をしないのよ。猊下は御忙しいのだから」
インガは資料を選び終えたらしく、アストリドに退室を促す。アストリドはそれに従って、インガと共に礼をする。
「御邪魔致しました、猊下。改めて、御自愛なさって下さいませね」
「ここはお前達に解放されている。必要なものがある時にはいつでも来なさい」
退去する二人を見ながら、カルルはふと、時の流れを思う。
欧州中から蒐集される文書の理解と整理。40年、覇業の傍らとはいえ、そこに注がれた労力は決して軽微なものではない。 その営為の積み重ねが有って、スカンディアは帝国として統一され、ノルドは新たな信仰と体制を得た。 反動を起こす者達は今もあるが、カルルの存在がノルド世界を強くしたのは紛れも無い事実だ。 しかし、カルルは自らの非才を笑わずにはいられなかった。
(俺と、フレイの存在は……きっとお前の誕生の『前触れ』でしかない)
カルルは膨大な未整理の資料が並べられた書架の前に立つ。その内の幾つかを手に取る。 それは、欧州中から集められた膨大な資料の翻訳物。或いは注釈書。或いは全く新しい詩文。或いはノルドの未来についての無数の考察だった。 それらを見る度に、カルルは思い知らずにはいられない。
何れも同じ筆跡で書かれた、無数の文書が、スカンディアに生まれた一人の天才の存在を示していた。
フローニのインガ。 インガ・フレイドティール。 スカンジナヴィア帝国第一継承候補者・フレイの次女、インガ。
(たとえ、どんな手段を用いても、誰に恨まれようとも、だ……!!)
カルルが自ら碑文を指示したアンラウフ王のルーン石碑。
カルルは、父・アンラウフが手中に収めた領土に胡坐をかいて盟主となった人物ではない。 彼はその地位に相応しい人物であろうと、「リンダの口付け」以来、精力的な努力を続けて来た。
「フローニ家のサガ」によれば、戴冠当時のカルルは短気な上に碌に文字も読めない盆暗であったと言う。
しかし、盟主カルルに送られた無数の賞賛は、彼をルーンの達人と呼び、勇敢で強い責任感を持った長と認め、理想の
ある時は戦士達に混ざって武力を磨き、またある時は戦術の訓練の為に兵士のミニチュアを自作し、はたまたある時は哲学者を呼んで教えを請うた事もあったという。
果ては鳥の飛ぶ姿をヒントに「海だけでなく空をも征服できまいか」と自作の飛行機械を作って、その飛行実験で部下に大怪我を負わせたり、 謎めいた賢者に与えられた「秘密の書物」の解読の為に数週間も書斎に篭った、という記録も残されている。
そのうちのどれ程が実話なのかは解らないが、盟主の座に就いた老後にも騎兵の訓練に参加して痣だらけになったりと、その修練癖は生涯止まなかったという。
ヴァイキングは
本稿の読者には改めて言うまでもない事とは承知だが、10世紀後半の欧州は疑い様も無く「中世」期、それも中世初期が終わり、盛期へ移ろうかという時代である。そして、この「中世」という時代区分の始まりは、多分に「ローマ的」な史観に基づいている。
崩壊した西ローマの領域を得たゲルマン人達が、キリスト教という価値観の共有によって、今日「中世的」と呼ばれる新秩序を築いて行く過程を仮に「中世化」と呼ぶならば、その起源を「移動しなかった北方ゲルマン人」に持つ「中世の始まりに参加しなかった者達」であり、ローマ的・キリスト教的な文化も文明も持たず、キリスト教的に言えば「暗黒の」古代観を継承した蛮族・ノルド人にとっては、カルルの行った「
盟主座の制定と共に提案された帝国体制は帝権の大幅な強化を意味していた。皇帝の動員命令に対して提供すべき兵力数の上昇だけでなく、族長同士の私闘の禁止と、何よりも異教・異端の所領を無条件に剥奪する事を可能とする法律が盛り込まれていたのだ。 つまり、キリスト教世界と同様の、しかしフィルキリズムによる「信仰の普遍化」を推し進める、非常に強力で具体的な「弾圧法」であった。
これに対しては国内のキリスト教徒よりも、「反盟主座」のノルド信仰者の反発が強く、動きも早かった。 長期に亘る統治、帝国化の完遂、そしてガヌエンタの発掘と言った偉業によって、カルル帝の神格化は多くのノルドに受け入れられていたが、「盟主座」の当否については「否」の姿勢の者が国内には少なくなかったのである。 970年に起こった「ヴァーンの乱」はそうして起こった宗教的内乱で、反盟主座ノルド2千人がヴァーンなる老人の扇動でシェラン島に集い、蜂起した事件である。
「
「人である限り如何なる人も神意を騙るは赦されぬ事! インリングさえ
「仮にフローニが半神の系譜であろうとあってはならぬ! トールが怒りを以て雷を降らせる前に、その奢りを改めるのだ!!」
「考えるのだ、賢きヴァーン。我が氏族の祖・フレイヤが
「ただ神々を見上げるだけの時代は、我が盟約によって終わったのだ。今や、汝らは我を通して神々を知る事ができる」
「我はノルドの迎える長き冬を終わらせよう。我が盟約が汝らを暖めるねぐらとなろう。賢きヴァーンよ、我と神々の盟に加わるのだ」
「まやかすな! 祖父は我らに言い伝えたぞ、あのフレイヤは魔術を使う狂女だとな!!」
「……ヴァーンよ、では、お前の人々を勇敢に戦わせよ。せめて、
この乱は数ヶ月の内に鎮圧され、捕えられたヴァーンは後に犠牲祭でトネリコの樹に吊るされるまで、舌を抜かれて獄に繋がれたという。 加えて、同時期にスウェーデンのアスビョルン王がカルルの命で殺害されている。
これによってシグルド2世が再びスウェーデン王冠を継承した。
高齢ではあるが、嘗ても名君として知られたシグルド2世は、自らも「スウェーデン人」を自称し、土着化の進んだ彼らの文化の保存を宣言した。アスビョルンは扇動に当たっては優れたカリスマを誇ったが、統治者としては残酷苛烈な人格で知られ、正統性に於いても器量に於いても、強く勇敢で気前の良いシグルド2世には及ばないと考えられていた。スウェーデン人はフローニでありながら「ムンソの長子」でもあるシグルド2世の帰還を喜び、服属戦争以前の形に戻った事を「ウプサラはカルルでもアスビョルンでもなく、シグルドを選んだ」と言って祝った。 以降、シグルドはフローニ本家と積極的な交流を行い、スウェーデンと大スカンジナヴィアの接近を促し、戦いによらない再統一の礎を築こうと務める。
カルルは犠牲祭でヴァーンやアスビョルンといった叛逆者の為にも祈り、しかし「盟約せざるノルド」の末路が如何なるものかを強調する事も忘れなかった。 これが抑止力となったのか、カルル存命の内に起こった「反盟主」の内乱はこれきりだった様である。
そして972年の11月、ついに帝国内の族長の過半数が新帝国法に賛成。 こうして、ノルド世界の「中世化」が始まったのである。
974年、3月。帝国内安定に注力し、兵力を温存していたカルルの下に、ブリテン島から使者が訪れた。
カルルの義弟・トティルの援軍要請であった。「第二次・大異教軍」をきっかけに、ブリテンに幾らかの版図を拡げていたトティルは、サセックス女伯・サガの軍を中心としたキリスト教国連合軍の逆襲を受け、再びカルルを頼って来たのである。 しかし……
「我が義弟、大鴉旗の継承者、ヨルヴィクの残酷王・トティルよ。確かに我は嘗て、汝の言うがまま、我が戦士達に海を渡らせた」
「だが、汝はそれに報いたか。我が戦士達の流した血が育んだ草花の一つでもスカンディアに返したか」
「ヴィットシャークのトティルよ、我は『全てのノルドの盟主』である。血に報いぬ義弟に与える兵は、最早無いのだ」
カルルは、今度は一兵たりと援軍を出さなかったのである。 この返信を、トティルは大笑で受け取ったという。
「我が義兄にして盟主なる"鉄心の"カルルよ! 誤魔化す事はない、俺は知っているぞ義兄殿!!」
「確かに兵は出せまい! スカンディアのあらゆる戦火が消えるのを待たねばなるまい!! 貴方の抱えるものは、それ程のものだ!」
「その少女に全てを与えたいのだろう!? スウェーデンの若造を殺さずにはいられないくらいに!」
カルルには兵を動かさない理由があった。
皇太子フレイの次女であり、「ステンボックのリンダ、スヴァヴァルソンのギュリドを合わせた才覚、そしてフレイヤの美貌を備える」と謳われた皇女・インガである。 この頃、フレイには三人の娘がおり(長女は前稿で登場した初代ガヌエンタ神官・リンダである)、何れも皇太子妃・ギュリドによって教育され、非凡な才能を発揮して賞賛されていたが、このインガの神聖視と、カルルによる寵愛は格別のものであったと考えられている。
彼女は伝説によれば成人までにノルド語、英語、フランク語、サーミ語、スラヴ語、ラテン語、ギリシャ語の七つの言語を理解する天才を発揮して母・ギュリドの執務を助け、その興味と知識は詩と政治、そして軍事にすら及んでいたという。この時期に残された多くの文献では「賢いヴァニル」とは彼女を意味する
カルルとフレイは、彼女を玉座に就かせるべく、新たな相続法を布く準備を進めており、その確立には
「楽ではないなあ、
「だが言っておくぞ義兄殿! 貴方はまだキリスト教徒と、ブリタニエの重要性を侮っている!」
「このブリタニエで何が起ころうとしているのか、それを理解した時には既に手遅れかも知れない事を忘れるなよ? ハハハハハハ!!」
その1年後、975年の4月にトティルはケントを喪失。 そして同年の5月末……
大族長達による選挙制相続法を成立させたのである。
この相続法は「優れたノルドによる支配」を理念とし、皇子・皇女だけでなく、各王冠の支配領域と看做される地(つまり、現時点で帝国から分離しているスウェーデンを含む)に封じられる如何なる王も大族長も潜在的な継承候補者であるとされ、特に野心に満ちた大族長達には歓喜を以て受け入れられた。 カルルは自分の持つ全王号と盟主座の継承候補者に長男・フレイを指名。カルルの絶大な人気から、一部の野心的な大族長以外の票はフレイに集中し、この代では実質の長子相続として機能した。
しかし、フローニ氏族内ではこれを「氏族を畏れぬ悪法」として憤慨を隠さぬ者が多かったという(当のインガすら新相続法に苦言を残している)。特に、分割相続によって我が子(カルルとシフの間には二女と一男がいたと考えられている)に版図を望んでいたシフ皇后とカルルの不仲は決定的なものとなり、終生修復できなかったとされ、リンダ前妃を想い続けるカルルによって我が子の将来の財産まで奪われたシフの悲劇を歌う詩人もいた。 カルルは偉大な皇帝であり盟主ではあったかも知れないが、ある意味では非常にエゴイスティックで、良い夫でも父でも無かったかも知れない。
新相続法の制定から暫く、カルルはトステ率いる略奪部隊をフランクに送って資金を集め、直轄領内(つまりデンマーク)の施設拡充を進めた。帝都・ホーセンスの砦は近代的な城塞に生まれ変わり、
そこで、カルルが次に目を付けたのが、スラヴ化したホルムガルドである。
カルルの伯母・リンダの夫は、嘗てロシア最強を誇った
カルルは東方に常備軍4000名のみを差し向けた。ロシア奥地への進軍には時間が掛かったが、分裂と抗争の絶えないホルムガルドにはそれに抗う兵力は無く、侵略は容易なものだったといわれている。 そして980年11月中旬、ホルムガルドは降伏を宣言。
カルルはその名義人……つまり、ホルムガルド大族長である人物に驚愕する。
ニュガルドの玉座についていたのは、僅か8歳の少女だったのである。 カルルが宣戦を布告した彼女の父・ステュルカルは終戦間近で戦死。若干27歳であり、子は彼女・アストリドしかいなかったのだという。 使者の弁では、アストリドは少女でありながら族長として強い責任感を持ち、毅然として、大族長位を差し出す代わりに氏族の安堵を求めたとの事だった。
「エーシルとヴァニルから離れるとも、幼きリューリクの末裔の心身から、強きノルドの魂が離れる事はなかったという事か」
カルルはアストリドをユランに呼び寄せ、インガにノルドとしての教育を施させる事を命じ、姉妹の様に宮廷で養育した。 ホルムガルドの大族長位はカルルが預かり、彼女の成人と共に改めて封じる事とされ、こうして、ロシアに於ける、リューリクによるノルド信仰の再生と強化が企図されたのである。
ホルムガルドを獲得したカルルは、東方に送った部隊をそのまま使い、モルドバ人に征服されていたウラジミールとモスクワを収奪しようと戦わせていた。 そんな折に、ブリテン島のトティルから再びの援軍要請があった。しかし、そこに記されていた事実は、これまでで最も深刻な事態だった。
マーシアの寛大公・ブルグレッドの子孫であるオスムンド2世によってブリテン島中部の大部分が平定され、「
所で、この「イングランド」という国名は、デーン人……というより、ユラン人にとって、非常に癪に障るものだった事も追記しておかねばならないだろう。
イングランドの民族がアングロ・サクソン人である事、そして彼らの起源が4~5世紀頃にブリテン島へ渡ったゲルマン諸部族である事はよく知られている。特に「サクソン」は「ザクセン」としてフランク王国の支配下に於いても公爵領に名を残している事は御存知だろう。では、「アングル」の起源はどこか?
ユラン半島から緩やかにバルト海に突き出た小半島、「
「言っただろう? 手遅れになっても知らねえってな! 釣り針がでかすぎて口に入らねえよ! クッハハハハハ!!」
トティル王にはこれが愉快でならず、ホーセンスに送った使者に「必ず自分の大笑いの物真似をして見せる事」とまで命令していたという。 この挑発に乗らないノルド人など、この時代には考えられない事だろう。
981年4月、ウラジミールとモスクワの獲得に成功したカルルは大急ぎで大遠征軍を編成。帝国中から集めた
982年4月、サフォークに上陸。そこで占領に勤しんでいたアルバ王国軍1300名を蹴散らして内陸に入り、ケンブリッジでランカスター公爵軍3200名の撃滅を開始したノルド軍は、北方から出現した敵本隊を目撃する。
ヨルヴィクの占領を済ませて悠々と南下する敵本隊……その数、1万3千。 ここでも軍団長を務めていたトステは大慌てで退却を指示。本国で動員されている徴集兵と合流して再上陸……という「第二次・大異教軍」の再現を試みようとした。 しかし……
スカンジナヴィア軍がブリテン島を離れて再編成を試みている最中、982年11月に、一度はトステの軍団が解放したサフォークが再び占領され、トティルはヨルヴィクをイングランドに割譲する事となってしまう。 トティルに残された領地はサフォークのみとなり、ノルド勢力はブリテン島への足掛かりさえ喪失しようとしていた。
時間を少しだけ遡って、982年の3月。イスラム世界で大きな変化が起きていた。
アラビア帝国のカリフ、ナジブが「ジハードの時代の到来」を宣言したのである。
この"征服者"ナジブなる人物の来歴は謎に包まれている*4。
頽廃著しかったアッバース朝を打ち倒して一代にしてカリフ位に就いたナジブは、なんと
実際に戦端が開かれるのはまだ先の事になるが、カリフの号令によって全てのスンニ派スルタンの兵力を結集した宗教戦争の時代は、間違いなくこの宣言からが始まったのである。
本稿はフローニ家と北欧を中心に中世世界を紹介するもので、遥か南方であるアラビア半島の出来事は重要とは言い難い。 しかし、大宗教同士の全面戦争時代の火蓋を切って落とした、中世史最大の事件の首謀者として、無視する訳にはいかない人物であるだろう。
一方の北方では、実際に聖戦の戦端が開かれていた。
聖戦を宣言したのはスウェーデン王・シグルド2世、標的はイルミンスルの聖地・パーダーボルンを含める東フランクのブリュンシュヴィック公領であった。 つまり、ノルドによる聖戦の宣言が初めて行われたのである。
「我らが兄弟であったザクセンの氏族を滅ぼせし愚かなるカールの末裔に告ぐ」
「
「
「その後に骨の一欠けらでも残るよう、古き神々に祈るが良い!!」
983年2月末頃。東フランクは若干15歳の女王・マリアと、その摂政・オーグスティンの治世が始まったばかりの頃である。 それは前王オットーが西フランクの仕掛けたデジュリ戦争で戦死してからまだ1年程で、彼の有していた東フランクとブルゴーニュの二王冠がマリアとその妹・ヘンリーケに分割相続された直後でもある。戦傷と分裂で弱体化した東フランクの総兵力は9000程度まで落ち込んでいた。 一方のスウェーデンはアスビョルンの呼び寄せた軍団を使って各地へ積極的な拡張を行っており、エストニアの一部やプルシアなども版図に取り込んでいた。兵力は1万超を維持しており、「盟約」の下、これにやはりスカンジナヴィア軍1万が合流可能だった。
しかし、その動員を邪魔する様に、スカンジナヴィア領であるバルト海南岸のダンツィヒでカソリックが蜂起。5千人規模の大きな叛乱であり、カルルはそちらに兵力を割かずにはおけなくなる。 その間にブルゴーニュ軍の援軍が到着……とはいえ、この頃のブルゴーニュはデジュリ領土の半分もデファクトとしておらず、2・3千人程度の動員力しか無かったという。
練度差も有り、スウェーデンは難なく両軍を制圧。占領を進めていく。
983年8月。暴動の鎮圧も順調に進みつつあり、一先ずの安心を得つつあったスカンジナヴィアに、大きな溜息を吐かせる事態が起こる。
イングランドが東アングリアへの聖戦を宣言。トティル残酷王最後の版図であるサフォークにアングロ・サクソンが殺到しようとしていたのである。 老体を気力で保たせていたカルルが最後に放った勅令は、このアングロ・サクソンの迎撃、つまりトティルへの援軍であったという。
ホーセンス城。城下からは
「はい、『聖戦』及び国内カソリックの鎮圧は順調ですが、まだ少々の時間が必要でしょう。加えて、艦隊の編成、北海の渡航にも時間が掛かる」
「前回のブリタニエでの戦いから考えて敵兵力は合計1万5千を下らない筈。サフォークは半年も保たないでしょう」
フレイが率直に応える。絶体絶命の義弟を見過ごす訳にも行かずに勅令は発せられたものの、誰もが決戦を諦めていた。
ブリタニエを恐怖に陥れた大異教軍は最早見る影もなく、彼らを恐れた記憶を持つ者も時の流れと共に地上を去っていった。
そして、ラグナル・ロズブロークの子らは
「……時間。時間か……余りにも侭ならん。愛しい者は余りにも早く神に奪われ、死を望んでは余りにも長く生かされる」
カルルは目を瞑じた。この一事について示し合わせる為に、カルルとフレイは言葉を必要としない程、一致していた。
火の間に炭の割れる音が小さく響く。 人々が冬至祭を慶ぶのが聴こえる。
フレイは暫くそれに耳を澄ませていた。 とても静かだった。
足音がした。それが誰のものかはフレイには判らなかったが、誰のものであっても構わなかった。
フレイは
* * *
この抱擁が仮に今際の際に見る長い幻であっても 「この幻の為に生きて死んだ」と断言できる。
冬は終わりつつあった。
アンラウフ王から継承したスカンジナヴィアの帝国化という事業を完成させ、ノルドに「盟約」を与えた偉大なる皇帝にして盟主の魂は、
また、その後数週間で後を追う様にして、皇后シフも崩御している。この頃にスカンジナヴィアで流行り始めていた疫病が死因であったとされ、その報われぬ人生を与えられた皇妃の死も、多くの人々に嘆かれた。
時は10世紀末。欧州が「中世盛期」と呼ばれる時代に入る頃。 この人物がいなければ、間もなくヨーロッパ中を混沌と化させる宗教戦争はキリスト教とイスラム教で戦われる事となっただろう。 ノルドは、その絶望的な戦いの直前に古き神々を取り戻し、『聖戦』を戦う力を得たのである。
983年末頃のスカンジナヴィア帝国及びスウェーデン王国の版図(青)。ブリテン島にある紺色はアルバ王国のものである事に注意。
AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイに続く…………気配がする。 |