オーストリア公爵エルンスト1世、30才。妻は同い年のアデルヘイト・ウェッティン、妻の父はボヘミア公領の北に位置するラジッツ伯。 夫婦の間には、既に、二男一女をもうけている。
能力は可もなく不可もなく、信仰心なし。華麗な策士、正直、勤勉、貞節、大食。なぜかスタート時は一瞬だけローマ皇帝の第一後継者だった。
バベンベルグ家が領有するエスターライヒ州は北をボヘミア公爵領(プレミスリド家)、西をバヴァリア公爵領(ノルドハイム家)、 南をケルンテン公爵領(ツェーリング家)に囲まれ、東にはハンガリー王国(アルバド家)が領土を拡げている。
祖父レオポルトがオーストリア辺境伯に封じられて以来、バベンベルグ家はドナウ川のほとりウィーンを本拠としている。 現在、公爵の地位にあるとはいえ、他の公爵領に比べれば、バベンベルグ家の領土はあまりに狭い。
「オスタリッチ(東の国)」と呼ばれるオーストリア公爵領エスターライヒは神聖ローマ帝国の最果ての地であった。
1068年7月
ボヘミア公爵の弟でオロモウク伯に封じられていたオタが、兄であるボヘミア公ヴラスティラヴ2世に対し叛旗を翻した。 オタには、アンコーナ公爵が与し遠くイタリアから援軍が駆けつけ、ヴラスティラブ2世は窮地に追い込まれたかに見えた。
1071年11月
エルンストはついに決断を下した。ボヘミア公領内の内戦に付け込み、慣習的領土権を有するズノーモを得るために ボヘミア公に対し、宣戦を布告した。 エルンストの秘策は、ケルンテン公の援軍であった。この年の3月、予てより婚約していたエルンストの長男 レオポルトとケルンテン公爵の次女ルイトガルトが結婚しており、同盟を締結していたのだ。 ケルンテン公爵はエルンストの求めに応じ参戦。ズノーモに殺到し、攻城戦を開始。
これに対し、ボヘミア公側には、バヴァリア公爵軍が参戦した。 これにより、バベンベルグ(オーストリア公)・ツェーリング(ケルンテン公)同盟軍対 プレスミリド(ボヘミア公)・ノルドハイム(バヴァリア公)同盟軍の戦いとなった。
そんな最中、何とバベンベルグ家の後継者である長男レオポルトの父エルンストに対する陰謀が発覚。
しかし、戦時において元帥であるレオポルトを投獄するわけにもいかず、エルンストは気付かぬふりを続けるほかなかった。
戦争は、ケルンテン公の援助を得たオーストリア公爵軍がバヴァリア公爵軍を退け、優位に進めていたが、 1074年4月、バヴァリア公爵領のさらに西、スワビア公爵(ラインフェルテン家)軍がボヘミア公側に付いて参戦した。 その兵力は2000を超え、この兵が殺到すれば、戦争の趨勢は逆転することは必至であった。
1074年4月。エルンストはボヘミア公に和睦を願い、3年半にわたった続いた戦争は両者痛み分けに終わった。
戦争終結後の1074年6月27日。エルンストは自身の暗殺を試みたレオポルトと話し合いを持った。
この親子2人の話合いで何が話し合われたのかは史書は伝えていない。 しかし、この後もレオポルトは投獄されず、オーストリア公爵の後継者のままであった。
エルンストはこの戦争の失敗の後、バネンベルグ家の力の弱さを思い知った。そこで、自家の力を強めるべく雌伏の時を迎える。
1074年7月。二男アダルベルトをボヘミア公爵家の次女リュドミラと婚約させ、早急に両家の関係を修復させる。 同じ頃、長女アデルヘイドをバヴァリア公爵家の家臣であるチロル伯爵の長男アルブレヒトと婚姻させている。
1075年3月。在野に賢を求めたエルネストはドイツ貴族アマデウス・フォン・メルクを宮廷に迎え、家令とした。
以後、エルンストはこの年若い家令に何事につけ相談することとなる。
1076年2月。レオポルトとルイゲルトとの間に長男が生まれ、待望の後継者であるエルンストが産まれた。
1076年3月。ルドウィンゲル家の武勲名高いベレンガルを兄弟の不和に付け込みウィーンの宮廷に迎え、元帥とした。 なお、ベレンガルの兄ルドヴィクはチューリンゲン伯爵であり、帝国家老であった。
新たな家令アマデウスと新たな元帥ベレンガルは、今後のオーストリア公爵家の柱石とするため アマデウスはエルンストの姪であるジュスティツィアと、ベレンガルは密偵頭の娘であるベネディクタ・フォン・ウィーンと 婚姻させた。
その頃、神聖ローマ帝国内では北イタリア諸侯の独立か相次ぎ、エルンストもオーストリア公軍を率い、その鎮圧に奔走していた。 そんな最中、元帥ベレンガルが敵方に囚われるということもあったが、すぐに身代金を支払い解放させた。
1080年5月27日。ボヘミア公爵はボヘミア王ヴラスティスラヴ1世を名乗る。 1080年9月。三男リュドゲールとスワビア公爵家の四女カルロッテと婚約。
1083年11月、ズノーモをめぐる戦争から9年。雌伏の時を過ごしたエルンストは再び立ち上がることを決意し、 オーストリア公爵家の慣習的領土であるシュタイアーマルクを請求するため、ケルンテン公爵に対し宣戦を布告した。 ケルンテン公爵家とは、先のズノーモをめぐる戦争では共闘したが、この頃には、すでに先主ヘルマン1世は亡くなり、 15才のクリームヒトが女公爵として当主となっており、自領の反乱さえも鎮圧できない状態であった。
戦争はスイス傭兵を雇い入れたバベンベルグ家軍が優位に進めていたが、戦争の最中の1085年9月1日 エルンストが闘病の末、49才で死亡した。
バベンベルグ家の未来は、エルンストの長男レオポルトへと引き継がれた。
~続く~
19年の治世でした。オーストリア公は周りが大諸侯ばかりなので、思ったより 動きづらかったです。果たして二代目レオポルトの時代に躍進はあるのでしょうか。 近日中にアップする予定です。