主の受肉より1356年と5月と19日。第199代教皇シンマクス2世が薨去された。59歳であった。
彼は教皇庁開闢以来の悪教皇と生前より言われ、その生きざまに見るべき美点は一つとしてなかった。
ポーランド王家ピアスト家の出身の第200代教皇、ゲラシウス3世が即位した
この教皇が即位している間、カトリック教会の権威はうなぎのぼりであった。
王は新教皇選出を聞くとすぐさまP献金(PはPopeの略称)を行い、教皇との良好な関係を構築した。
1358年9月3日、王の義理の兄、神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ5世は帝位をヴィッテン家のレイナウドに禅譲するよう帝国議会において要求された。
王は義兄に帝位を争うのであれば義兄の側に立って参戦する旨を伝えたが、ルードヴィヒ5世は内乱で民衆の疲弊することを好まず退位された。
新皇帝レウナルド。王とは険悪であった
劣化親父である
1359年、王の甥にしてスウェーデン王位継承者のオーゼル伯クリストファが成人された。
クリストファは母アウネス42歳の時の子である。
程なくしてクリストファはご成婚されたが、その相手ゴーゼヴァイスの素性に王国は騒然となった。
ミスティックで陰謀の値が高い。母親の面影でも求めてるのだろうか
ゴーゼヴァイスはクリストファより22歳年上で、素性は明らかでなく、しかも三人もの経産婦であったのである。 王は驚かれ、クリストファを宮廷に呼びつけた。
将来王冠を継ぐ者が氏素性も判らぬ、しかも22歳も年上で子が三人もいる女と結婚するとは何のつもりか。
恐れながら陛下、臣の父、オトも12歳年上のアウネスと結婚され、私を儲けました。臣もその先例に倣い、赦しを戴きたく存じます。
汝の母は王族、スウェーデン王位請求者であり、ノルウェーの王位も継承できる立場にある。故に汝の父は歳の差を鑑みても結婚したのだ。
翻って見て、ゴーゼヴァイスは身分卑しく、仮に継げたとしても伯爵領のみではないか。
そもそも、汝の母の年齢を考えれば、汝が生まれたことが奇蹟なのだ。余は二度目を期待しない。
しかし臣は、愛する女性の助けと支え無しには、臣の望むように重責を担い、王太子としての義務を果たすことが出来ません。
陛下の思し召される事は臣も承知であります。ですが、臣に他の者を選ぶ気はありません。
王はクリストファの信念の硬いことを知り、これ以上クリストファにのたまわれなかった。
北方戦争 | |||
年月日:1355年1月7日-1362年9月18日 | |||
結果:デンマーク王冠の回復、デンマークの大国化 | |||
デンマーク陣営 | 反デンマーク同盟 | ||
デンマーク王国 | 16000 | ノルウェー王国 | 14000 |
スウェーデン王国 | 12000 | チュートン騎士団 | 16000 |
- | ノヴゴロド王国 | 5000 | |
- | トロペツ公国 | 2800 | |
- | ハンザ同盟 | 13000 | |
ヴァルデマ4世 | ハッランド伯クヌーズ | ||
エストラント公オト | ベルヘイミル司教アルフ | ||
スリースヴィ公ヴァルデマ5世 | チュートン騎士団長ディートリヒ | ||
ノヴゴロド王フョードル三世公正王 | |||
コリ | ハンザ同盟総裁ルートベルト | ||
アケ | ブレーキンゲ伯オーゼン |
1355年から1362年までの一連の戦争を北方戦争と呼ぶ。 この間ヴァルデマ再興王は多くの方面に戦争を仕掛け、そして勝利した。 だが、複数の国と一度に戦争状態になったことはほとんどなかった。 王は各国の情勢を巧みに判断し、一国のみと敵対するようにして最終的に全ての敵を倒した。 この戦争の結果、デンマークはその国土をすべて回復し、また多くの資金を得た。
第一次スコーネ戦争1355/1/7~8/15
1月7日、王はハッランドを奪還する旨の詔を発し諸侯に軍を招集させた。
2月13日、デンマーク軍は船を多用しハッランドに大軍を揚陸し、
3月22日、未だ集結できていなかったノルウェー軍をレナの戦いで各個撃破した。
8月13日、オスローの戦いで撃滅、和平を結んだ。
コポリェ戦争デンマークVSノヴゴロド王国 1356/6/12~2/12
1356年6月12日、ノヴゴロド王国の所領であるコポリェを正当なるエストラント公位の下に取り返すべく、
王は発軍した。15000を引き連れノヴゴロド王国中に広がるもなかなか敵は見えなかった。
1月5日、南方で蠢動する3500の敵をトロペツにて破った。
チェルニゴフ公爵が2800を引き連れてやってきたが、此方への攻撃を躊躇し、攻撃に移ることは無かった。
そのうちにノーテボリを陥落せしめ、ノヴゴロド王とその家族を束縛。あっけなく終戦を迎えた。
この戦争の最中、エストラント公オトは戦場で傷を負った上、病に倒れ途中から軍の指揮が取れなくなってしまった。
王は今まで戦場で王に尽くしてきた兄弟に御厩長官の称号を賜り、回復を願った。
後に公の容体が回復すると、王は大いに喜こばれた。
フィヤトロンデラント戦争 1356~58
デンマークがハッランドを獲得したのち、スウェーデンも呼応してスウェーデン王冠内のノルウェー王領を回収すべく北方戦争に参加した。
初めはスウェーデン側が優勢であったが、
サクスホルムにてスウェーデン軍8000がノルウェー軍6000に敗れるという大敗を喫して流れは変わってしまった。
スウェーデンはノルウェーに賠償金を払っての大敗であった。
スンニ派の反乱 1357/11/1~2/1
1357年11月1日、サラセン人が暴動を起こし、エルサレム駐留常備軍が壊滅した。
1358年2月1日、王自ら一万の兵を持って出向き鎮圧された。
アルゴットの乱 1358~59
1358年、スウェーデンでアルゴットを首魁とした農民反乱が発生した。
スウェーデン軍300とデンマーク軍170の兵力は農民軍の前に蹴散らされた
王は新設した常備軍170を援軍として送ったが、思いの外農民軍が強く壊滅して帰ってきた。
8月2日、スウェーデン軍が農民軍を殲滅した。
チュートン戦争デンマークVSチュートン騎士団 1358 いくつかの土地をデンマークが獲得 4/21~9/18
海運を利用した各個撃破はデンマーク軍の最も得意とした戦法である。
北方、南方双方の敵も救援に間に合わず、デンマーク軍の完勝に終わった。
1358年4月21日、王はチュートン騎士団の保有するイルムラント、サムラントの二伯領はかつてクリストファ2世が騎士団に抵当に入れた土地であり、 自身にその継承権があると主張し、チュートン騎士団に戦線を布告した デンマーク軍と騎士団軍はほぼ同数であったが、騎士団側は傭兵を雇い兵力を増強した。 これに対しデンマーク側は船団を利用しその兵力のほとんどをすぐさま集め、 全く防戦準備を整えてなかった騎士団をウェフラウの戦いで各個撃破した。
1359年10月17日、スリースヴィ公ヴァルデマ5世は戦場での傷がもとで薨去した。
かつては野心家だったが、いつしかその心は足るを知り、統治に不足なく王との関係も円満であった。
所領は三人の息子に分配されたが、唯一公爵位を継がなかった次男ヴァルデマは王より御猟総官の称号を賜った。
密偵頭を務めていたことと関係があるのかもしれない。
ハンザ戦争 1360/9/18~1/6
デンマーク17000VSハンザ同盟4000+ブルガリア傭兵団9000
神聖ローマ帝国はルードヴィヒ5世の退位後混乱が収まらず、ポラメニア地方諸侯の独立を許してしまった。そしてその独立諸侯の中にはハンザ同盟も存在していた。
1360年9月18日、王はハンザ同盟の所属艦船を出港禁止・抑留させ、同盟都市との間に戦端が開かれた。
ブルガリア傭兵団(ボゴミル派)を雇い万全を期したハンザ同盟軍であったが、王の前には無力であった。
ボゴミリストを雇う者は福音に値しないという神の御意志であろう
11月25日、クルメイデクにて軍団は壊滅、ハンザ同盟総裁ルートベルトは戦死した。 12月30日、デンマーク王国軍はリューベクに入城。 王はリューベクの町で大きな空樽三つを置き、この中を金と財宝で満たすよう命じた。このとき王は730グルデンに相当する大金を手に入れたとされる。 (画像) 翌年1月6日にはシュトラールズント条約が締結され、ハンザ同盟はデンマーク領内のすべての権利を失った。
第二次スコーネ戦争
デンマーク16000VSスウェーデン14000・ノルウェー12000
2月15日、王は「未回収のデンマーク王冠」最後の土地、ブレーキンゲを奪還すべく、兵を起こした。
今や完全に斜陽のノルウェー王マグヌス七世に応戦できる能力などなく、この戦いも半年でけりがつくだろうと思われていた。
だが、スウェーデン女王アウネスはノルウェー側に立って参戦した。
王は未だ両国は迎撃準備が整っておらず、今のデンマークの国力であればノルウェー・スウェーデンを敵に回しても勝てるだろうと踏み、詔をされた。
エストラント公ならびにエスターラントの伯の軍勢はセーデルマンラントに上陸し、各地で召集されつつあるスウェーデン軍を各個撃破しつつ西に進軍せよ。
スコーネ大司教揮下のブレーキンゲ進駐軍は進軍を中止し、早急に余の指揮する本隊に合流せよ。
本隊はランリキに上陸し、ノルウェー軍を各個撃破しつつ東に進軍しエストラント公らの軍と合流する。
スウェーデン・ノルウェーともにまったく兵力の集中はなっておらず指揮官すらいない状態で、迅速な兵力の集結に成功したデンマーク軍は終始優位に戦いを続けた。
ステーイボリの戦い、レードゥセの戦い、カルマルスロットの戦い、すべて鎧袖一触であった。
これら各個撃破から幸運にも逃れたスウェーデン軍は徒党を組みエスターゴトラントに布陣したが、
6月3日、デンマーク軍は持てる総力をしてこれを攻撃した。北のセーデルマンラントに居たノルウェー軍は怖気付き北に逃亡した。
撃破後、王は戦力の大半をエストラント公に預けノルウェー方面の敵の掃射を命じ、自身は残党を狩りつつ南下しブレーキンゲを制圧することとした。
王はヨンショーピングで残党を討伐したのち、ブレーキンゲを包囲した。
9月1日、ノルウェー軍6000が上陸し、王の軍勢を逆包囲し攻勢に出てきたのであった。
だが、王は二倍の戦力差を辛抱強く耐え、すでにカテガット海峡を超えていたエストラント公軍も引き返し逆上陸を仕掛け、ノルウェー王の野望を挫いた。
これにより今やデンマークの勝利は揺るぎないものとなり(戦勝点37→76)、
王はプレマモルクにその存在が確認できたノルウェー最後の大規模編成軍を撃破することで早期の決着を目指すこととした。
12月の2日に始まり1月の12日まで行われたスキョアの戦いによってノルウェー・スウェーデン両王国は全ての戦力を失い、
デンマーク固有の領土たるブレーキンゲが確かにデンマークの所領である事を認めるに至った。
かくして1362年1月12日、長きにわたるデンマーク王冠の欠損は修復され、デンマークのすべての土地が王の下に帰した。
王はこの事に大いに満足され、恩赦を行うとともに夏に祭を、来年の冬には宴を執り行うことを決めた。
&ref(): File not found: "マグヌス死す.jpg" at page "AAR/デンマーク年代記/巻四 ヴァルデマ再興王 1355~1364"; 7月21日、アイスランドに引き籠もっていたノルウェー王マグヌス4世がベッドで変死体となって発見された。 幾多の戦争に敗北していたこの王を慕うものは少なく、暗殺者の詮索も行われずに簡易な葬儀が行われた。 従姉弟にあたるスウェーデン女王アウネスがノルウェー王位を引き継いだ。
1363年7月、王は突如意味の通らない言葉をのたまわれたり、何もない所にマグヌス王や、禿伯、その他多くの亡霊が見えるとのたまわれる様になった。
8月27日に王を支えたイベリンの伯爵、スオミ人のコリが卒去すると嘆き深く悲しまれ、
死期が近い事を悟った王は10月27日に大学建立の詔をされた。
日が沈む時刻が早まるにつれ、王の大御心はますます悪化し
12月7日には体調を崩された。
ティムールは13万ものイベント兵を持つ。
新年4日には東の果てからティムールという精強な戦士が現れたこと、
その者は足に障害があるということをベッドの上で廷臣から聞き、
「まるで伝説の『骨なしイヴァル』のようだな」とのたまわれたが、
闘病むなしく2月1日、主の御元に御帰天された。
王子イーレクは未だ年若く、王位は王兄、エストラント公オトが継承された。