1468年1月1日、ポーランドの農民クジャイワンは反乱を起こした。皇帝はこれを機にウェンドラント王冠内で未だ臣従しない三諸侯と、小アジアのスルタンサルトゥク2世に戦を宣した。
第九次欧州征伐 | |||
年月日:1468年1月1日-1468年10月23日 | |||
結果:帝国の勝利 | |||
帝国軍 | 反帝国軍 | ||
ノルド帝国 | 340000 | ポーランド農民反乱 | 30000 |
- | クアラマンリ・スルタン国 | 13000 | |
- | ウェンドラント内の三伯国 | 6000 | |
将軍 | |||
モルドヴァ王プリドビョルン | "スルタン"サルトゥク | ||
セルビア王ヴラスティミル | アルカン王子 | ||
ムケリ公ホルムイェル | アルプ=アルスラーン |
2月25日、ブレートラント王バヴォが獄中で没した。38歳であった。 王位は嫡子ルズヴィが継承した。
3月11日、アルプ=アルスラーンなる者が2万8千の兵を集め、帝国に宣戦した。
4月14日、クジャウィアンは降伏し、すぐさま捕えられ処刑された。
5月25日、フラヴィオポリスの会戦でアルスラーン軍1万9千を帝国軍4万が破った。
6月18日、ゲルマにて残るアルスラーン軍9千が撃滅され、アルプ=アルスラーンは捕えられ、処刑された。
10月23日、サルトゥク2世は降伏し、ファウスティノポリス一帯を帝国領に編入した。
ウェンドランド王冠内の諸侯は皆10月までに降伏し、すべて帝国領に編入されたが、詳しい日付は記録が残っていない。
11月30日、皇帝は宴を催した。
1469年4月23日、ドイツ人の皇帝カスパー2世は教皇から破門されており、皇帝の長年の策が実りノルド皇帝ヴァルデマが継承権第一位に躍り出た。
皇帝は破門者の退位を要求しカスパーに対し軍を興した。
この時の領土
5月23日から始まったミュッセンブルークの会戦は帝国軍3万4千とドイツ軍2万8千が衝突し、ドイツ皇帝カスパー2世が自ら率いる激戦であった。
6月25日、ミュッセンブルークの会戦は帝国軍の勝利に終わった。ドイツ軍は公爵の戦死が二名、捕虜が二名の大敗であった。
皇帝はすぐに和議を申し込むことをせず、継承権の一位に代わっていたカスパー2世の子を排除することにした。
子供は破門できないので、穏便な手段では排除できない。
8月10日、皇帝はカスパー王子の死後、カスパー2世に和議を申し込んだ。
カスパー2世は退位し、ヴァルデマ賢帝が神聖ローマ皇帝位を兼ねた。
これも中世の厳しい掟である
この頃の勢力図。右下に見えるのはHREと同時に宣戦布告したde jure claimの戦争
皇帝は神聖ローマ皇帝の後継者に第一子のメクレンブルク公オトを選び、諸臣にもオトを指名するよう詔した。
10月4日、メクレンブルク公オトが皇帝の下に参内し、臣従を誓った。
ずっと父親と仲が悪かったが、HREの後継者に指名されたため関係が改善されて臣従に至った。
皇帝はオトにシチリアとロンバルディアの王位を下賜した。
1470年4月12日、ヴァスプラカン総督タマチが皇帝に戦を宣した。 皇帝はこの機に未だ臣従しないブラバント公ディートポルドに大しても軍を興した。
1471年3月11日、スオミ教徒のオトラが宮廷に来て奏して曰さく、
今年の一月、ティムール、力を恃みに勢いを作りて、隣に睦びず、コルマカンは兵馬を持ち、
ブルタシーに陣し、我が王城を陥しいり、我が君臣を俘虜としてしまいました。
我が国は、遙かに皇帝の護念に頼りて、さらに求め集めて邦を成しております。
方に今、帝国に仕えし侍る臣を再び我が邦の主とすることを謹みて願います。
皇帝、詔して曰わく、
師を乞い救を請すことを、古昔に聞くことである。危を扶け絶えたるを継ぐことは、恒の典に著れる。
汝国に窮が来て、遠くより来りて表啓した。この志は奪い難いことであろう。
将軍に命じて、百道よりともに進むべし。雲の如くに会い雷の如くに動きて、ともに集らば其の悪しき輩を斬りて、彼の非情な苦しみを摘むことが出来るだろう。
有司はつぶさに備えを与えて、礼を以て発遣せよ。
7月7日、ブラバント公は臣従した。
12月15日、皇帝は宴を催した。
1473年4月3日、皇帝はルーム王位を"スルタン"サルトゥク2世より剥奪し、ガラティア伯ヘンリキに下賜した。
5月26日、皇帝はコンスタンティノポリスに行幸し、スオミ教徒オトラの救軍を遣わせんと諸々の軍器を備えた。 また、トリポリタニア属州とキリキア属州の回復の為バヌ=ハフス朝とアルメニア=キリキア公国に対してもまた軍を興した。
9月9日、皇帝は今までにまして慈しびの心を持たれるようになった。
9月13日、コルシカ総督スパルタコが率いる1万8千の軍がティムール軍1万6千を破った。
9月29日、皇帝は崩御された。 先々帝ヴァルデマ聖帝、先帝オト公正帝に続き三代続いて陣中で没した。 皇帝は知略に優れた戦いにより教皇領と神聖ローマ帝国領を版図にくわえ、帝国開闢以来の平和と繁栄をもたらした。 故に古の五賢帝になぞらえ"賢帝"と称せされた。
皇太子オトはメクレンブルクより来りてヴェストフォルに至り、葬儀を司った。 同日、帝国軍6千がバヌ=ハフス朝の軍4千を破った。