前キエフ大公ヤロスラフ1世は他の親族と戦ってキエフ大公位を勝ち取った後、死に際して子らに領土を分配し、 1060年以降、イズャスラフ、スヴャトスラフ、フセヴォロウドの三兄弟が他の親族を除け、独裁的にキエフ・ルーシを支配した。 特にイズャスラフ父子は政治の中心であるキエフと経済の中心のノブゴロドを領有しており、キエフ大公として君臨した。 このキエフ大公国には新しい危機が迫っていた。 11世紀よりポロヴィツ族(*ロシア語 西欧ではクマンと呼んだ)という遊牧民がカザフ草原で勢威を誇っていたペチェネグ族を追い払い、 キエフ・ルーシを脅かし始めたのだ。
キエフ・ルーシ内にも問題が残っていた。 三兄弟の独裁体制に他の親族が不満をくすぶらせていたのだ。 早逝した長男が引き継ぐはずだったノブゴロドを取り上げられた甥のロスティスラフが不満をもっており、 1064年突如黒海北岸のトムタラカニに侵略し、スヴァトスラフとの抗争が始まった。
また、他の公国が伝統的に遺子らに分配されてきたのに対して、かつてリューリク家とほぼ同格であったポロツク公国は、 キエフ・ルーシをキリスト教化したキエフ大公ウラジミル1世とポロツク公女の直系により公位が独占され、 バルト海交易で栄え半ば独立勢力として存在していた。 1065年ポロツク公フセスラフがプスコフに侵略し、イジャスラフとの抗争が始まった。
さらに1073年以降は今まで協力していた三兄弟もより権力を握るために互いに争い始めた。 リューリク家の者たちは権力闘争に他勢力の力を呼び、ノルマン人、ポロヴィツ人、ポーランド、ビザンツの各勢力を招き入れた。
このころのキエフ・ルーシでは長子相続制度ができておらず、所有者はすぐに入れ替わったため、 リューリク家は傭兵隊長の役割を果たすのみで、領地は事実上その土地の市民らが統治されていた。 そして有力者がキエフ大公についても、その死で再び領地は分散し、 次のキエフ大公を継ぐために他のリューリク家の者たちは相争い、一体性はすぐに損なわれた。
以後リューリク家同士での争いは、1236年モンゴルによるルーシ征服まで続くことになる。
ようするに小沢が消えた後、管と野田と鳩山が民主党で協力してたけど
結局権力争いはじめて、自民党と社民党も利権を狙ってますと。
どいつもこいつも自分の有利になることしか考えてなくて
韓国と中国とアメリカの力借りようと媚うって日本がぐちゃぐちゃになったってこと
ゲーム内だとリューリコヴィチ(リューリクの子らの意味)の領土がキエフ・ルーシに該当する。 ガリーチ公、リャザン公、ロストフ公が当時実権を握っていた三兄弟。 ノブゴロド公がガリーチ公の長子であり、三兄弟はそれぞれお互いの公号にclaimを持っている。 他の親族としてポロツク公と、クリミア半島のところにノブゴロド公、ロストフ公のclaimを持つロスティスラフがいる そしてこの全員が互いに同盟を結んでいるため誰かが口火を切ればあっという間に全土を巻き込む内乱になるようになっている。
なお王号のルーシ王は領域からモスクワ大公期のモスクワ・ルーシをさし、キエフ・ルーシとは異なると判断できる。 モンゴルの侵攻後、西欧ではモスクワを境に東と西のルーシを区別し始めて、 モスクワ以東のルーシのみをルーシと呼ぶようになり、 モスクワ以西のルーシはルティニアと呼ぶようになった。(語源はルーシ) このようにルーシの意味は徐々に変わっていったので、ルーシだけだと誤解を招くため、 近世以降では、キエフに政治の中心がおかれていた頃のルーシをキエフ・ルーシ、と表現していたため、この表現を使っていく。
キエフ・ルーシは絶えず内乱を繰り返していたため、ゲーム中では同盟という形でのみ再現されている、とおもう。