なり、イングランド軍がせまるパリから逃げ出してイタリアへ亡命した。
女王はローマで教皇に訴え、黒王を破門させたが、黒王はそんなことはおかまいなしにフランス王国の攻略を継続した。
1386年にはフランス王国の十数の城がイングランド軍によって開城させられ、王国は崩壊した。
アダルナゼの王国は滅亡し、エドワード国王はふたたびイングランド-フランス王国の両王位を戴冠した。
ローマ教皇はフランス王国の崩壊をうけて、苦々しい思いをかみしめながら黒王を赦免した。
1388年、エドワード黒王は57歳になっていた。 彼は自分の死期が近いことをさとり、ややシニカルになっていた。 しかし彼の精神は衰えておらず、断続的におこるフランク貴族たちの反乱をすべて無慈悲に打ち砕いた。
1391年、エドワード黒王は60歳で亡くなった。
エドワード黒王、死去。享年60。
エドワード黒王の死後、イングランドとフランスの王位はかれの孫であるエドワード5世が継承した*1。
フランク貴族たちはこのあたらしい王に対する敵意を隠しておらず、反乱の機運をみなぎらせており、また地下ではヴァロア家の復位の陰謀がふたたび進行していた。
プランタジネット家によるフランス王位の支配は予断を許さぬ状況にある。
(おわり)