神聖ローマ皇帝アダルベルト。ボソン家最初の神聖ローマ皇帝(ローマ皇帝ルドウィクス3世=ルイ盲目王を数える場合は約400年ぶりの復権と言える)。ブルグンドとアラゴンの王としてイベリア半島のイスラム教徒と戦い、また、サンチョ・ド・トゥールーズを奉じてアキテーヌ王国からトゥールーズを奪い取った。68歳で帝位に就いたが、約2年の在位の後に死去した。
神聖ローマ皇帝ハインリヒVI世。「授福帝」と称された。ノイエンブルク朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒV世とプロヴァンス公ルプレヒトの孫である。アダルベルトの死後の家督争いに勝利して帝位に就いた時点で既に56歳であったが、イベリア半島へのジハードの撃退、セビリアの獲得、ハンガリーへの十字軍の派遣など数々の戦果を挙げ、ボソン朝の礎を築いた。
神聖ローマ皇帝ロタール。アダルベルトの異母弟。兄の帝位継承に伴ってアラゴン王位を譲られ、帝国内でも第一の実力者となっていたが、ハインリヒVI世との家督争いに敗れ相続はならなかった。ハインリヒVI世の死後、68歳で帝位を継ぐと、亡き妻アンナの王国を再興し、息子ヘッソをデンマーク王に娘イダをポーランド女王に据え、両国を帝国の版図に加えた。
ポーランド女王アンナ。ロタールの最初の妻。父はルーシとルテニアの王、母方祖父はデンマークとポーランドの王であった。ルーシの王宮で育ったが、アラゴンに嫁入りして暫くが経ったころ、モンゴルの襲来により母国は滅んでしまった。神聖ローマ帝国の助力を得てポーランド女王に即位。子女はそれぞれポーランド女王、デンマーク王となった。
神聖ローマ皇帝アマネウス。アダルベルトの次男。幼少より優れた人物と評され、父からは次代の皇帝と期待されていたが、父の死後、帝位はハインリヒVIに渡った。軍事的にも高い能力を持ち、主にイベリア半島を転戦。帝位の後継者とも目されたが、アラゴン王であったロタールに敗れた。ロタールの死後、念願の帝位を獲得したが、僅か11ヶ月の治世でこの世を去った。
神聖ローマ皇帝ディートマールI世。「紳士帝」と称された。戦争でトスカーナを獲得し、イベリア半島への勢力拡大も継続した。黄金のオルドの再侵入の前には敗れたものの、優しく、かつ勇敢で公正な性格は臣下に深く愛され、彼以降の帝位の世襲化を認めさせた。また、100年来のレコンキスタを完成させ、イベリア半島にキリスト教徒による支配をもたらした。
冷酷帝ゲルラッハ。ディートマールI世の長子である。世襲制に移行して初めて即位した神聖ローマ皇帝。十字軍に呼応し、ハンガリーを獲得したほか、世襲制への反感から勃発した帝国全土を巻き込んだ叛乱を短期間のうちに鎮圧に成功した。僅か5年の治世の後に41歳で病に倒れこの世を去った。十字軍に際し、自らの軍略を優先し、多くのキリスト教徒を見殺しにしたことなどから冷酷帝と呼ばれるようになった。
ハンガリー王ボゾンワルト。ゲルラッハ帝の異母弟。十字軍により獲得したハンガリーを拝し、王位についた。軍略に優れ、帝国軍を率いて転戦した。妻はイングランド王の叔母に当たるジョアン・オブ・イングランド。名前の由来としては、前半のBosonは一族の始祖ボソから取られ、また後半のvaldは「権力」を意味する。
エルマンゴ・ド・コマンジュ。トゥールーズ出身の軍人。紳士帝ディートマールの娘イルメレに婿入りする形で皇帝の廷臣となった。若き日から天才と呼ばれ、20歳の若さで帝国の総指揮官を任された。それから長きに渡り帝国軍を支えた。ディートマール大帝の幼少時より教育係を勤め、ディートマールが未成年のまま帝位に即位すると摂政をも務めた。その後も、神聖ローマ帝国のイベリア、フランス、イングランドへの勢力の拡大に尽力した。
イングランド王ヴェルネル。ハンガリー王ボゾンワルドの長子で、父の死後はハンガリー、ギリシアの王位を兼ねた。当時から「悪魔憑き」と噂され、奇行の多い人物であったが、強い野心を持ち、従兄弟であったイングランド王マークへの攻撃を扇動してイングランド王位を獲得すると、ハンガリー王位を相続後はギリシア王にも就いた。ところが、教皇から破門を受けると、臣下であったコーンウォール公ジェフリーに裏切られて王位を追われ、バルト海北部沿岸へと逃れた。
ディートマール大帝。13歳で即位すると、フランス、イギリス、スペインを含む地域のほぼ全域を帝国の版図へと加えた。神聖ローマ帝国中興の祖とされ、「開祖」であるカール大帝と並び讃えられる。
タジャーディン。ファーティマ朝最盛期の最後を飾るカリフである。歴代のファーティマ朝の君主のなかでも武勇に於いては右に出る者はいないと評され、イラクからマグレブまでの版図を回復するとともにギリシア遠征を敢行し、コンスタンティノープルをも版図に加えた。ところが、この栄華は短命に終わり、彼の死後、帝国は分裂の道を歩んでゆくこととなる。
アンダルシア王ペラーヨ。ヒメノ家最後の王。ディートマール大帝の娘ロミルダの下に婿入りし、レコンキスタの結果、アンダルシア王に任じられた。母のマヨールからカスティーリャ、ガリシア、レオンの王位を相続し、更に自らポルトガルを攻略し王位を獲得したことで五王国の王位を兼ねる大勢力となった。神聖ローマ帝国の大叛乱に際しては総大将として決起したが、鎮圧され、囚われの身となったが、後に許されている。
ローマ教皇コンスタンティヌスII世。神聖ローマ帝国の配下としてイェルサレムへの十字軍を計画し、エリッヒ懺悔帝をイェルサレム王位につけることに成功、聖地をカトリックの手に取り戻した。世俗的な人物であったと伝えられ、前サルディーニャ公だった司教の復権に手を貸して、サルディーニャ島とコルシカ島を教皇の私領とした。
エリッヒ懺悔帝。幼少期より吃音症であったとされる。臆病な性格からも将来が心配されたが、皇帝の座に就くと十字軍を編成してイェルサレムに攻め込み、イェルサレム王位を獲得した。戴冠に際し、イェルサレムを長年無視してきたことを告白し、「懺悔帝」と呼ばれるようになった。
ビザンティン女帝プルチェリア。ビザンティン帝国初の女帝。皇帝ティモテオスの五女。神聖ローマ帝国の皇太子と結婚した。義父に当たる神聖ローマ皇帝エリッヒ懺悔帝の画策によりプルチェリアの女帝襲位と帝国の獲得が画策され、クロアチアとアナトリアなど複数の領地に分散していたビザンティン帝国の玉座に座ることとなった。
イェルサレム王フィリベルト。コンスタンティヌスII世の呼びかけによる十字軍に従軍し、戦後、イェルサレム王位を授かった。アマデウス帝が死去すると、一転して帝国に反旗を翻したが、双子の兄弟、カスパールによって征討され、カスパールの臣下として余生を過ごした。
神聖ローマ帝国元帥カスパール。十字軍の英雄であり、その後はその武勇を認められ、イタリア戦線やアッサーディ朝との戦い、北欧戦線など各地を転戦した。双子の兄、フィリベルトが蜂起すると、その征討に当たり、戦後、イェルサレム王を継いだが、フィリベルトを赦免し、罪には問わなかったという。
アキテーヌ王ジルベールII世。大叛乱の首謀者のひとりとして知られるジルベールI世の息子である。父が31歳の若さで蜂起軍鎮圧の戦陣に散ると、僅か10歳で王位を継いだ。成人後は有能な軍略家として帝国軍を率いた。双子の弟オズマンとともに狩猟を趣味にもち、たびたび野に出ては獣を追いかけたという。