二代皇帝Sharafは即位後すぐに国号をアルマクディスと改め、アナトリア王位とアンダルシア王位をそれぞれ弟たちに与えた...とされている。
彼はその資料の少なさから
「無能な統治者であった。」とされることが多いが、実際はそうでもなかったようである。
事実、1188年にはイスラムの聖都、メッカやメディナを含む紅海沿岸のアラビア半島西岸をセルジューク朝から奪い、併合することに成功している。
彼についてわかっていることでただ一つ確かなことは、彼が1180年代半ばのどこかの段階で、内乱鎮圧のために軍を率いている最中に、何者かにより左足を失ったということである。
治世末期の1212年に勃発したアラビア戦争に出征する際に、落馬し、足のない彼はうまく着地することができずに亡くなった...と言われている。
(アラビア戦争)
あとを継いだ次女(とされている)のNazyもハンセン病を患っており余命いくばくもなく、わずか5か月で没した。アラビア戦争は継続中であり、後継帝は10台前半のJohnny D帝、帝国はこの難局を乗り越えることができるのか。
(後継者Johnny Dは跡継ぎになることはないと思っていたので思いっきりふざけてJohnny D(デップ)と名付けたらまさかの即位してしまいました。ちなみにNazyの継母はシチリア女王で、異母妹にシチリア王位継承権を持つ子がいて、ジョニーDはその子と婚約しています(叔母甥婚))
この時代については、Johnny D帝の代に起きる大事件の影響で多くの資料が失われており、伺い知ることが難しい。ただ、この時代からJohnny D帝の治世前期に共通してみられる特徴として、諸侯の反乱が多いことが挙げられる。 また、Johnny D帝による改革の前なので分割相続制であり、Johnny D帝には直轄領が2伯領しか残されていなかった。