1066年12月末、イングランド王にノルマンディー公ギヨームが即位した頃 ルシタニアのポルトでもある人物が権力者の座についた。 その名は、ポルトのペドロ(ペドロ・デ・ポルト)といった。
彼の出自は不明である。 いかなる記録にも彼の前半生は記されておらず、生まれも育ちも謎であった。 ある者は先のポルトカーレ公の庶子だと言い またある者は西ゴート王族の生き残りであるとも言った。
そのようないかにも胡散臭い人物が いかなる手段により、ヒメナ家のガリシア王よりポルト伯に叙され またポルトカーレの公となりおおせたのか、経緯は全くもって謎に包まれている
彼は自らをペドロ1世と称した…
このような謎の人物が突如自分たちの主君として振舞いだしたのであるから 由緒正しきポルトカーレ貴族が面白かろうはずもない。 ペドロ公に心からの忠誠を誓う者はいなかった、と断言して良い。 実際、名目上の封臣である他の伯とペドロ公では 領地や兵力のうえで目立った格差はなく、諸侯はいつでも主君を引き摺り下ろせたのである。
そんな中ペドロ公はカタルーニャ貴族ロセリョ伯の娘アルセンダと結婚した。 由緒ある貴族の娘との婚姻関係を結ぶことで自らの権威づけを図ったものであった。 また、この時ペドロ公は29歳であり、早く嫡子を得ることで 自らの家門による権力の維持を確実なものとする思惑もあったことだろう。
さてイベリア半島はまさにレコンキスタの渦中にあった。 一時はピレネー、カンタブリアの山中に追い詰められたキリスト教国も、 ここ数世紀の間のムスリム諸国の内紛と衰退に付け込んで南に勢力を伸ばした。 しかしムスリム諸国もこれに危機感を覚えて再び結束、強盛となり、 今や激しくしのぎを削る状況となっているのだ。
時あたかも1067年、バダホスを支配するアフタス朝よりエヴォラ一帯を支配する 首長が反乱を起こし自立、これを好機とみたガリシア王○○はベージャ地方への聖戦を宣言し ヒメナ王家に連なるイベリアの諸王がこれに続いた。
緒戦は反乱の混乱もあってアフタス朝が劣勢で… 一時キリスト教連合軍は リスボンを占領下に置いた。しかし反乱が鎮圧されたこと、 他のムスリム諸国が連帯して大軍を派遣したことにより形勢は逆転する。 ムスリム軍はベージャを超えてポルトカーレに侵入し、略奪を繰り返した。 まさにポルトカーレが最前線となり、激戦が…いや虐殺が繰り広げられたのだから ポルトカーレの民から戦略眼の無いヒメナ王家の諸王に怨嗟の声があがったのも無理からぬ話である。 結局、この聖戦はキリスト教国側に何の益もなく終わることとなる。
しかしこの状況をひとりほくそ笑みながら眺める人物がいた。 ペドロ公である。 彼は王からの兵力供出の要求に対しては最低限の義務を果たしつつ… 臣下である伯たちの兵力は積極的に戦線に投入した。 結果、伯らの城はたびたび落城の憂き目にあい、補修もままならぬ様相を呈することとなった。
こうして封臣が弱体化したとみるや、狡猾なるペドロ公は伯の称号と領地の返納を要求した。 伯たちは憤然として要求を拒否するも、抵抗しようにも金も兵力も奪われた後である。 結果、ペドロ公の軍はやすやすと伯の城壁を越え、抵抗する伯を捕縛した。 そして、「裏切り者」の伯から称号と領地を剥奪し、自らの手で管理することとした。 1074年、ペドロ公はコインブラ、ブラガンサ、カステロ・ブランコの諸邦を領する伯となり、 ポルトカーレ公領の全てを集権的に統治することとなる。 これらムスリムとの戦い、および伯からの権力剥奪の最中に嫡子ジョアンが産まれた。
領地の面積がおよそ4倍に増えたとなれば、税収も動員兵力もそれに比例して増加した。 このためペドロ公はより円滑に統治や外征を行えるようになった。 1078年にはバルセロナ公国によるアルバラシン攻略戦にも兵を出している。
この戦いでバルセロナ公国はアルバラシンを獲得したが、 戦闘によりレオン王○○が死ぬという不幸があった。 このため、レオン王国は分割相続され、王冠と領土の大半はカスティーリャ王に、 ムスリムとの国境にあたるサラマンカがガリシア王に渡った。
この相続によりカスティーリャ王国は強盛となり、レコンキスタに弾みがつくと思われた。 実際にムスリムの手にあったカラタユドが1079年キリスト教徒の手に奪還された。
しかし、カスティーリャ王とガリシア王の不和は、カスティーリャ王の破門という結果を導いた。 1080年、両国は戦争状態に入り、ナバラ王もガリシア王の側について戦いを演じた。 キリスト教国同士の戦いはムスリム諸国を喜ばせる展開となり、 この間バルセロナ公国が多くのムスリム諸国からの侵攻を受け、辛くも守るという状況が続く。 戦線は終始カスティーリャ王の軍が優勢であった。
戦いは4年にわたって続いたが、終わりは突然だった。 カスティーリャ王がナバラ王との戦いにおいて戦死したためである。 両軍は戦う理由を失い、終戦となった。 カスティーリャ王に男子はなく、12歳の女王が即位することとなる。
ペドロ公はこうした内輪同士の争いごとにはかかわらず、領地経営に専念していた。 裏ではいくつかの陰謀を練っていたようだが、いずれも失敗に終わったらしい。
続く