これはまだ王と貴族の立場が対等であった頃の時代。 ヨーロッパはイングランドの地に理想に燃える1人の若者がいました。 彼の名はジョン。 新しき息吹の台頭により歴史も大きく動き出します。
遥か西の島国に英雄あり。その名はJohn!
といっても、ジョンはスタート地点から恵まれていました。彼は王の息子だったのです。
父王ヘンリー2世。プランタジネット朝の開祖。
ジョンは王の5男、いや、私生児の兄も含めれば6男でした。 いくら王子といえども、6男ともなれば死ぬまで部屋住みの悪く言えば飼い殺しに終わると普通は思うことでしょう。 しかしながら、現時点で王の男子はジョンともう1人を残して皆亡くなっているのです。それが故に、ジョンの立場は非常に高かったのです。
ところで、ジョンの王位継承順位は2位です。ジョンの上には父王の他にもう1人いました。 それがこの男です。
兄リチャード。獅子の心を持つイングランド随一の武人。
どちらかといえば部屋で静かに読書をすることを好むとても知的なジョンとは対照に、兄は生来活発で外で動くことを好みました。 まさに、正反対の特徴を持った兄弟だったのです。ジョンには越えなければならない壁でした。
当時のイングランドは父王ヘンリーの婚姻政策が大当たりし、大陸の南仏をも治める絶頂期にありました。
南仏の宗主権を主張する身勝手なならず者国家フランスとは大きく対立していました。 このような緊迫した情勢の中で、ジョンは自国のさらなる繁栄のために父王に良く仕えたのです。
さて西暦1187年初め。ジョンは結婚しました。相手はグロスターの女領主イザベラ。イングランド国内におけるプランタジネット家の影響力の強化を図るヘンリー2世王の思惑による、完全なる政略結婚でした。
ジョンの嫁グロスター公イザベラ。史実でも最初の妻である。
このときジョンはコンウォールを始めとする5つの伯爵位を兼ねており、この婚姻により次代には国内随一の大領主が誕生することとなりました。 これは非常に喜ばしいことです。賢明で英知あふれるジョンの力が強くなれば、イングランドはより一層発展することでしょうから。 しかし、ことはそう理想通りには進まないものです。
ヘンリー2世は年を重ねるにつれて猜疑心が強くなっていきました。 かつては野心あふれる英邁な君主も、年を取ってみれば自らの地位の安泰にのみ力を注ぐ、器の小さいつまらない男に成り下がってしまったのです。 そのせいでしょうか、ジョンは王の直臣からランカスター公の配下に新たに配されることになったのです。
ランカスター公ウイリアム。新興貴族Vieuxpont家出身。
王の息子が配下貴族の下につくなど前代未聞です。 近頃急速に力をつけてきた息子を如何に王が恐れたかがわかる出来事です。
思えば、個性あふれる(有能という意味)息子を冷遇したこのとき、ヘンリー2世はすでに正気ではなかったのかもしれません。
アンダルシアに対する十字軍が発令され、カトリック世界が教皇猊下の元に結束しようというこの時期にヘンリー2世は世の流れとは逆行する行動に出ます。
それが対立教皇グレゴリウス8世の擁立でした。 ヘンリー2世にはカトリック世界の覇者になろうという野心でもあるのでしょうか?そのために自分の意のままになる人物を教皇に擁立したのでしょうか? しかし、彼の大望は誰からも理解されることはありませんでした。 それどころか多くの者を敵に回すこととなりました。
コンウォールの宮廷に逼塞していたジョンのもとに父王からの書状が届いたのはそんな情勢の中のことでした。
「余につくか否か」
そう・・・
反ヘンリー2世派の貴族が王に反旗を翻したのでした。
ジョンに決断の時が迫っていました。