――ウマイヤ朝イスラム帝国によってヒスパニアの殆どを消失した西ゴート王国でしたが、 アストゥリアスに拠ったペラーヨが718年、コバトンガの戦いにて初めての抵抗を見せ、
この戦勝を基として北西ヒスパニアに残存しているキリスト教ゴート人を糾合、 新たにアストゥリアス王国を建国します。 しかし、半島に残されたキリスト者の土地はあまりにも僅かなものでした。
一方ウマイヤ朝は貧しくも頑強な抵抗を見せる北西ヒスパニアは一先ず置き、 狙いをピレネー以北に切り替えて北上しますが、 732年のトゥール・ポワティエ間の戦いにて敗北、北上は中断されます。 そのうちウマイヤ朝はその不誠実な政治が祟り、内乱の末に750年に滅亡。 多くの部族、教徒からの徹底的な恨みを買っていたウマイヤの血縁は その殆どが殺されてしまいました。
これを絶好機と見たのが逼塞していたアストゥリアス王国です。 739年に王位についたアルフォンソ1世は19年の治世中 ガリシア地方、レオン地域を回復することに成功。国土を約4倍とし、 このまま一気に半島を回復できるのではないかと誰もが考えました。
しかしながら756年、あの殺戮をただ1人生き延びたウマイヤの若者 アブド・アッラフマーンがヒスパニアに侵攻、
異文化異宗教の民の反乱やアストゥリアス王国の急速な攻勢に怯える諸侯を糾合し、 後ウマイヤ朝と呼ばれる王権を確立します。 すでに老齢にあったアルフォンソ1世は我が事成らじ、と憂悶のうちに翌757年に世を去りました。
アブド・アッラフマーンはアストゥリアス王国の攻勢を抑えるべくこれを攻撃しますが、 アルフォンソ王を嗣いだフルエーラ王がこれを撃退に成功します。
それから10余年の時が流れ、フルエーラ王の後を継いだアウレリオ王の4年に満たない治世を過ぎ、
771年4月、その弟であるベルムードが王位に就くことになりました。