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のどやかに新しい季節が ギエム・デ・ペイチュ(アキテーヌ公ギヨーム九世)詩・曲/天沢退二郎訳
Ab la douzor del temps novel Fueillon li bosc, e li auzel Chanton chascus en lor lati, Segon lo vers del novel chan: Adonc esta ben q'on s'aizi De zo dont hom a plus talan. De lai don plus m'es bon e bel No-m ve messatger ni sagel, Don mon cors non dorm ni non ri Ni no m'en auz traire enan, Tro que eu sapcha ben de la fi, S'el es aissi com eu deman. | のどやかに新しい季節がめぐってきて 森はみどりにもえ 小鳥たちは それぞれに自分の言葉で あたらしい歌の節々を謳っている さあ わたしたちも 何より欲しいものを 求めてでかけなければ! わたしの喜びのすべてが在る彼処から 使いの者も来ないし手紙も届かない それでわたしの心は眠らず笑わず 一歩も足は前に進めない わたしの願っているとおりに 仲直りができたと分かるまでは |
原詩は http://www.trobar.org/troubadours/coms_de_peiteu/guilhen_de_peiteu_10.php より、(全五節が英訳付きで掲載。ここで引用したのは二節まで) 和訳はフランス中世文学集1 信仰と愛と (白水社 1990) より引用した。
ギヨーム九世は史上最初の
時を暫く遡る。
レーモン四世がパリにて軟禁された際、何事も無ければベルトランが摂政となり統治するはずであった。 嫡男であり、唯一の男子。他の候補など居ようはずもない。
ところが、領主の不在に乗じて、トゥールーズ司教ラオルフが策謀を始めた。
ベルトランの出生の不確かさ――彼の母は近親婚を理由として離縁されていた――を言い立てて攻撃すると共に、 今まで放任し、むしろ自身も傾倒していた節すらあったオクシタニアのカタリ派の状況を喧伝し、 「異端の保護者」トゥールーズ伯家の権勢を引きずり降ろそうと図ったのである。
父伯の軟禁による不在、教会との険悪な関係、更には混乱に乗じた強大な隣国アキテーヌ公による侵攻。
ベルトランの統治は、これらの難事を抱えつつ始まった。
最大の問題は教会との険悪な関係である。破門でもされようものなら、 父伯やギヨーム九世*1のように無視して平然としていることは状況が許さない。
やむなく、ベルトランは司教ラオルフとの和解を余儀なくされる。
・新たなトゥールーズ司教座聖堂の建立及び寄進 ・名目上の摂政権をラオルフに委任すること ・トゥールーズ伯は支配下の司教の叙任権を行使しないこと ・カタリ派の公の場での禁止
これらが和解の条件であった。
この譲歩は後に過大であったとして火種となるが、この時点では兎にも角にも和解を成し遂げて戦の準備を整えることが何よりの急務であった。
伝 ギヨーム九世肖像画
ギヨーム九世の二番目の妻フィリパは、レーモン四世の兄、ギヨーム四世の娘でありベルトランの従姉妹である。 ギヨーム九世の主張する所ではギヨーム四世死後のトゥールーズ伯領はフィリパが継ぐべきであり、レーモン四世は簒奪者であるとのことであった。 *2
如何に言葉を飾っても、これまで殆ど主張することが無かった以上は、 この戦争が単なる火事場泥棒であることを明白にしていたものの、それ故に交渉による妥結は難しい。
敵が力に訴えて来た以上はこちらも力を以て対抗するしかないと見て、ベルトランは急ぎ兵を募ることにし、 ラオルフが適切な―もっとも守銭奴で有名な彼の求める額は推して知るべしであったが―報酬さえ支払うなら和睦の仲介の労を取ろうと申し出るのを退けている。
しかしながら、集まった兵力は高々3000人程度でしか無く、5000人を優に越す総兵力を使えるギヨーム九世に対するにはいかにも心細かった。
ここでベルトランはその戦略家としての卓見を示した。アキテーヌ軍は数の上では多いが、それ故の弱点があった。 トゥールーズ伯領に比べて遥かに広大な面積を支配している分兵力が分散しており、集結するのに時間を要したのである。
ここに目をつけたベルトランは、アキテーヌ軍の行軍経路を予測して先回りし、分散している所を各個撃破してゆくことにする。
言うは易いが、首尾よく予測が当たったとしても、それを撃破するためにはそこに辿り着く必要があり、 兵に強行軍を強いることとなる。村々を略奪する時間もろくにない。 これでは、並の指揮官ならば兵の反抗にあい、到底成し遂げられなかったことだろう。
戦争の最初期、鮮やかな戦術の冴えにより、自軍の犠牲がほぼ皆無と言っていい程の圧勝を幾度も繰り返したことで、 「自分に従えば必ず勝てる」との信頼を得たことが当時の常識を外れた強行軍を成し遂げた理由であった。
こうして国力に勝るアキテーヌ公を破ったことにより、ベルトランは父譲りの、いや父にも尚勝る軍才を示した。
2回発生、tough soldierから最終的にbrilliant strategistに。