希臘源氏2代目義親は即位時まだ3歳と幼少であったため、政務は義親の母親エイレーネに委ねられた。 この時期のハルキディキ伯の政策にはエイレーネの影響が大きいとされる。 コムネノス家に属する彼女は、直接の君主にあたるテッサロニカ公などのアンゲロス一族を元来好ましく思っていなかった。 それに加えて、1198年当時の彼女は、継続していた内乱において甥であるアレクシオスを支持しないテッサロニカ公に対する反発を強めていた。 一説には先代義経のテッサロニカ公位に対する権利主張も、裏でアレクシオス一派に働きかけていた彼女の功績によるところが大きいという。 本来、義経とエイレーネとの婚姻は、ギリシャにおいて身寄りのない日本人領主とビザンツ帝国内の有力家門とを結びつけることによって、義経の立場を強くしてやろうというテッサロニカ公アレクシオスの好意から出たことであったが、これが裏目に出たといえよう。
さらにエイレーネは、テッサロニカ公領内における支持を拡大すべく、テッサリカ女伯アタナシアと義親との婚約を取り付けた。 これによって、両者の間の子供、すなわち源氏の一族がハルキディキ及びテッサリカを統べることが確定する。 その後、アタナシアが成人する前に死去する予想外の事態が発生したものの、その妹シモニスと義親が結婚することで、この計画は保持されることになった。
こうして、エイレーネのテッサロニカ公位簒奪計画は着々と進められていった。 もっとも、彼女がこの野望、あるいは異国からやってきた源氏という一族の反映にどれだけ執着していたかは、今となっては疑問である。 というのも、ビザンツ帝国の内乱がトレビゾント公アレクシオスの勝利で終わった後、彼女は新皇帝アレクシオスと再婚し、コンスタンティノープルへと去っていってしまったからだ。
このため、実際にテッサロニカ公に対する反乱を指導するのは、成人した義親自身に任されることになった。