父はローマ皇帝シャルル、母は上ロレーヌ女公バルバラ 皇后アンナベラはスコットランド王女である。 ルイ2世は偉大な父と息子に挟まれた地味な皇帝とみなされる事が多い。 即位時点で57歳と高齢で、その治世が短かった事が印象を薄くしている要因であろう。 しかしその短い治世でも帝国は大きく拡大している。 それは優秀な顧問団の活躍によるところが大きいが、彼らをうまく使いこなす事も皇帝の資質である。 なお、ルイ2世の呼称はローマ皇帝として2人目のルイだからであって、フランス王としてはルイ8世になる。
皇帝ルイ2世 歴代最高齢での即位 典型的なカペーの能力値
1290年10月19日 ルイは慣例に従い次弟アントワーヌをイングランド王に、末弟ゴーティエをカスティーリャ王に封じた。 また母の遺領である上ロレーヌ公領はブルボン公家のジャン・カペーに与えられた。
イングランド王アントワーヌ 典型的なカペーの能力値
カスティーリャ王ゴーティエ 典型的なカペーの能力値
次弟アントワーヌがイングランド王になったことでイングランド諸侯は皇帝の陪臣となり、コーンウォール公でもあった家令アランはイングランド宮廷に移っていった。 後任の家令にはアランの実弟であるデュラッチオン公リワウが任命され、また高齢の宮廷司祭長フレデリックも退任して新たにアカイア大司教ロウボーが宮廷司祭長となった。
ルイ2世治世初期のの顧問団
大臣ヴィディン公エラールはイングランド王アントワーヌの私生児で皇帝ルイ2世の甥である。 元帥テッサロニキ公エイリフは前元帥ラグナールの長男である。 家令デュラッチオン公リワルは前家令コーンウォール公アランの実弟である。 密偵長カルシアノン公レオンは先帝シャルルの後妻コルネリアの親族である。 宮廷司祭長アカイア大司教ロウボーは教皇ドヌス3世(オットー)の弟子筋にあたる。
全員が公爵級で、かつ宮廷司祭長を除けば縁故による登用が目立つが、それよりも目を引くのは彼らが帯びる称号である。 彼ら全員が先帝シャルルが聖戦や十字軍で獲得した征服地の支配者なのである。 これはある意味必然ともいえた。 かつてフランス王国時代には門地を問わず優秀な人材を招聘し顧問とし、功ある者には男爵領を授け王家の子飼いとしてきた。 しかし13世紀半ばを過ぎる頃にはヨーロッパ世界は開拓されつくし、新たな城市を築く余地がなくなっていたのである。 カペー朝が聖戦を繰り返すのは宗教的情熱もあるが、一族や功臣に与える土地を確保する事も重要な目的なのだ。
顧問団を主導したのは大臣エラール。 聖帝シャルルに養育された、カペー朝始まって以来の天才である。 その天才が私生児であることは歴史の皮肉としかいいようがない。
大臣ヴィディン公エラール 諸侯になって姓が変わっているが先帝シャルルの孫である。
皇后アンナベラはスコットランド王女である。 先王シモンには男子がおらず、順当に推移すればアンナベラが女王になっているはずであった。 しかし最晩年に再婚した後妻が男児マリスを出産。その2ヶ月後にシモンは崩御しその赤子が王位を継承した。 当然、カペー家としては納得できない。 しかし先帝シャルルの関心は異教徒討伐に向けられておりブリテン島は眼中になかった為、マリス王は20年に渡って王位を維持することが出来ていたのである。 しかしアンナベラが帝国皇后となった今、マリスの王位は風前の灯であった。
スコットランド王国 帝国に目をつけられたのが運の尽きである
1291年2月21日 帝国は皇后アンナベラの王位を主張しスコットランドに宣戦を布告。 イングランド王アントワーヌを総大将とする北伐軍を派遣した。 実際のところ、当の皇帝夫妻はこの戦争に乗り気では無かったのだが、帝国の拡大を己の使命を考える大臣エラールが宮廷の論議を主導して強引に開戦したという事情がある。
1292年6月10日 マリス王は降伏し継承戦争は終結した。 アンナベラはスコットランド王位につき、次世代の帝国への併合がほぼ確定した。
スコットランド女王アンナベラ 本人は王位を望んでいなかったと伝わる
1291年5月16日 神聖ローマ皇帝カスパーが戦死。29歳の若さであった。 帝国では1284年に廃帝ジークフリート2世が復位し第三次ツェーリンゲン王朝が誕生したが、廃位された第二次ザーリアー王朝のカール3世もボヘミア王として依然強勢を誇っており、その基盤は脆弱であった。 1286年にジークフリートが崩御すると帝位奪還を目指すボヘミア王カールを支持する諸侯たちが反乱を起こし、ドイツは恒例の内乱状態に陥る。 若きカスパーは自ら反乱鎮圧の陣頭に立ち命を落としたのである。 帝位は11歳の長男ブルノが継承したが、神聖ローマ帝国では帝位を全うした幼帝は殆どいない。
1291年8月16日 ホラント公レオポルトを擁立する反乱が発生。瞬く間に勢力を拡大した。 レオポルトは第一次ツェーリンゲン王朝最後の皇帝レオポルトの孫にあたる。
いつもの風景
1292年8月13日 幼帝ブルノが事故死。12歳であった。 謀殺されたともいわれるが真偽は明らかではない。 妹のヒルデガルトが帝位を継承。 ドイツ史上初の女帝である。
神聖ローマ帝国女帝ヒルデガルト ツェーリンゲン家は最大の危機を迎えた
第三次ツェーリンゲン王朝の瓦解は不可避であると、誰もが思った。 しかし事態は意外な結末を迎えることになる。
女帝の誕生に勝利を確信し油断したのか、前線に立ったボヘミア王カールが野戦で敗北し捕虜になるという失態を犯してしまう。 女帝の摂政ケルンテン公アダムはカールの王位を剥奪した上で処刑した。 旗頭を失った反乱軍はあっけなく空中分解したのである。
廃帝の最後
北部ではホラント公を擁する反乱軍が健在だったが、ボヘミア王を下した女帝側は態勢を立て直し、後にこれを鎮圧している。
カールの処刑はドイツのみならずヨーロッパ全体に衝撃を与えた。 廃位された君主が公然と処刑されるケースは13世紀の西ヨーロッパでは極めて稀である。 ましてや、神聖ローマ皇帝なのである。 ルイも不快感を露わにし処刑を決断した摂政アダムへの非難を公然と口にしていた。 そこに持ち込まれた縁談である。
「皇太子殿下の婚約相手にはケルンテン公女ウテ様が相応しいと考えます」
大臣エラールの上奏にルイは嫌悪感を示した。
「ケルンテン公は10年前にはカールに仕えていた男だ。旧主を弑逆した大罪人の娘など貰えるか」
「ケルンテン公は国と幼主を守るために決断したのです。実際、ドイツの内乱は速やかに収束しました」
ルイは皇太子フィリップと女帝ヒルデガルトの縁談を進めるつもりであった。 実際、女帝側もこの縁談に興味を示しており、女系結婚ではなく、通常の男系結婚を前提とした婚約に了承を得ていた。 あとは手続きを進めるだけになっていたのだ。 しかしこの計画はエラールが握りつぶしてしまう。
「女帝との婚約は先帝の遺詔に反します。地上に皇帝はただ一人。ドイツは滅ぼさねばなりません」
「孫が2つの帝国を継承すればよいではないか」
「それが実現するのは何十年も先の話です。それまで帝国はドイツに手を出せなくなります」
「ではなぜケルンテンなのだ?妃候補は他にいくらでもいよう」
「バイエルンと本土を結ぶ為にはケルンテンの確保が不可欠だからです。これは先々代ルイ1世以来の外交方針の踏襲であって、私情の入る余地などありません」
先帝の遺詔を持ちだされてはルイも反論できない。 聖帝シャルルの威光は死後も健在であり、後継者たちの言動を縛り続けていたのである。
1293年10月12日 皇太子フィリップとケルンテン公女ウテの婚約が成立した。
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実プレイでは一旦ヒルデガルトと婚約したあと、婚約破棄してこっちに変えました
1263年11月9日 ブルグント王シャルルが48歳で逝去。長女ジュリエンヌが王位を継承した。
1294年9月9日 スコットランド女王アンナベラが54歳で崩御。 長男フィリップが王位を継承した。
スコットランド王フィリップ 後のローマ皇帝フィリップ
1294年10月18日 ルイは平民出身のベアトリクスを再婚した。 ベアトリクスとの間には次男アライン、三男オジエが誕生しており、後にフィリップによって王位を授けられている。
1295年1月30日 ルイの三女ステファニーとドイツ王アルノルトの三男ジークフリートが結婚した。 婿養子婚である。 ルイはジークフリートをニュルンベルク伯に叙し封建主従関係を結んだ。 ニュルンベルク伯はバイエルン公の封臣であったのだが、ルイは(というか、大臣エラールは)これを強引に皇帝の直臣とし、更には破門・封土剥奪を行っている。 そこまでして娘婿の為の領地を確保する理由は1つしかない。 ドイツ王国の帝国編入である。
1293年11月21日
帝国はビザンティン皇帝アナトリオスに聖戦を布告。 目的はニケーア地方の解放である。
ニケーア地方 ニカイアとも。意味はニケ(勝利)の街
ビザンティンは周辺諸国に侵食され縮小していたが、それでもなお数万の兵力を動員するだけの力は残っている。 帝国は近衛軍(常備軍)をもってこれにあたり、アミソスで会戦を行った。
アミソスの戦い
1294年11月30日 ビザンティン帝国は降伏。 ニケーアは帝国に併合された。
ニケーア征服
1294年12月18日 ルイは後妻ベアトリクスの兄アラインをニケーア公に封じた。 妹が美人であるという意外に何のとりえもない男である。
尚、この戦争の最中、アッバース朝がゾロアスター・ペルシャに侵攻を開始している。 世にいう20年戦争の始まりである。
ドイツ王国の前身は東フランク王国である。 911年に東フランクにおけるカロリング朝が断絶してからはフランク族の手を離れ、以降は単に王国とよばれるようになった。 オットー1世の戴冠後、王国の帝国の関係は曖昧になるが、やがて神聖ローマ帝国を構成する三王国(ドイツ王国、イタリア王国、ブルグント王国)の1つとして位置づけられるようになった。 しかし1296年現在、イタリアとブルグントはパリを首都とする西ローマ帝国(自称はローマ帝国)の領土である。
1296年12月3日 ドイツ王アルノルトが60歳で逝去。事故死である。 王位は長男ウルリヒが継承した。
「アルノルト王が不慮の事故で亡くなりました」
密偵長レオンの報告を受けたルイの表情は暗い。 真相は分かりきっているのだが、帝国の拡大は先帝シャルルの遺志であり、皇帝ルイも否定する事は出来ない。
「これも神意か」
「御意」
「よきにはからえ」
ルイは父親同様に敬虔なキリスト教徒である。 しかし帝国の領土を広げるために罪のないキリスト教徒を暗殺する事が神の為になるとはとても思えなかった。 しかしその信念を貫き先帝の政策を改めるだけの意志の強さを、彼は持ちあわせてはいない。 ルイの治世は顧問団によって統治されており、彼らが優秀で帝国に忠実である限りはそれでまったく問題が無かったのである。
1296年12月20日 帝国はニュルンベルク伯ジークフリートのドイツ王位を主張し、神聖ローマ帝国に宣戦を布告した。
ドイツ王国の支配領域 神聖ローマ帝国の大半を領有している
かつてフランスは神聖ローマ帝国に動員可能兵力の限界まで投入して、更には同盟国の力をも借りてようやく勝利することが出来た。 しかし今や両国の国力差は歴然としており、封臣の一部を動員するだけで事足りる程度の相手である。 帝国は封臣であるイングランド王、ブルグント王、ポーランド王、ハンガリー王に動員令を発し、四方からドイツを蹂躙していった。 しかしやはり最後の決め手は近衛軍である。
キルヒロートの戦い この戦いで神聖ローマ帝国の没落は決定的となった。
1297年12月3日 女帝ヒルデガルトは降伏し、ドイツ継承戦争は終結した。
戦争開始から1年も経っていない
ドイツ王位に就いたニュルンベルク伯ジークフリートは皇帝ルイ2世に臣下の礼を捧げた。 300年以上に渡って神聖ローマ帝国の中心で在り続けたドイツはパリの帝国に併合され、神聖ローマ皇帝は3つの王国全てを消失する事態に陥った。
ドイツ王ジークフリート ルイ2世の婿養子である
中堅国に転落した神聖ローマ帝国
なお、ドイツ王ジークフリートは翌年アルトマルク伯領の慣習的宗主権を掲げて神聖ローマ帝国に侵攻し、これを奪取している。 ドイツの帝権は崩壊過程に入っていた。
1298年4月9日 テンプル騎士団が帝国に臣従した。
聖戦での活躍に期待する
1298年6月1日 ルイ2世の弟であるイングランド王アントワーヌが逝去。54歳であった。 王位は次男のエヴラールが継承した。
エヴラールは次男であるが、兄エラールは私生児であり継承権が無かったため、嫡男として育てられていた。 その兄エラールはカペー朝始まって以来の天才であり、今は伯父である皇帝ルイ2世の大臣として宮廷を采配する立場にある。
1298年7月7日 帝国はビオンビーノ州の慣習的領有権を主張し、ピサ共和国に宣戦を布告した。
ピサはすでに2州を領有するのみの小国だが海上交易で莫大な富を蓄積しており、数万の傭兵部隊を持ってイタリアの帝国領に侵入してきた。 帝国軍の先陣をきったシチリア王の軍勢もあっけなく撃退されたが、元帥エイリフ率いる近衛軍が投入されると形勢は逆転。 1年半に及ぶ抵抗も虚しく全面降伏に追い込まれた。
1299年12月22日 ピサ統領バルダッサッレは降伏し、ビオンビーノ州は帝国に併合された。
ピサ降伏
同日、ルイはピサ公領を簒奪した。ピサはサルディニア島に僅かな領土を残すのみの弱小勢力に転落した。
1299年12月28日 ルイはピサに共和制を敷き、ベルガーン家のウィドゥキントを総督に任命した。 ウィドウキントはザクセンの小貴族の出自であるが、ツェーリンゲン家と姻戚関係にあり近年急速に台頭してきた一族である。
ギリシャにドイツにイタリアにと帝国は戦争を続け、駆り出される封臣たちには不満が募っている。 しかし帝国の拡大を己の使命と考える大臣エラールは兵の休む間も与えず次の征服を計画していた。 次の標的はポメラニアである。 プロイセンのポメラニア公国は神聖ローマ帝国から独立しており、100年前の1200年から旧ボヘミア王プシェミスル家によって統治されていた。 現在の君主ズビネクは幼少であり、公位継承権を持つサヴォイア女公ルドミラの挑戦を受けていたのである。
ポメラニア公ズビネク 母方の遺伝で黒人化している
1300年4月28日 帝国は女公ルドミラの公位を主張しポメラニア公国に宣戦を布告。 しかしこの開戦がエラールの最後の仕事となった。
1300年5月1日 大臣ヴィディン公エラールが急逝。39歳の若さである。
大臣の死 あと40年は大臣を続けて欲しかった
その死があまりに突然だったため暗殺の噂も流れたが、真相は今で言う過労死であったらしい。 私生児であったが故に王位を継げなかった彼は、帝国に奉仕する事に自己の人生の意味を見出そうとしていた。 その強引なやり方に不満を抱くものは多かったし、皇帝ルイ2世も必ずしも快くは思っていなかったという。 しかし短期間にドイツを併合し神聖ローマ帝国を無力化した業績は誰もが認めざるを得ないであろう。
後任の大臣にはルイ2世の末弟であるカスティーリャ王ゴーティエが任命された。
1300年6月28日 宮廷司祭長アカイア大司教ロウボーが62歳で死去。後任にはプラト司祭サヴァリーが任命された。
1300年8月10日 元帥テッサロニキ公エイリフが43歳で死去。後任にはトレビゾント公ロベールが任命された。
1300年8月15日 家令デュラッチオン公リワルが65歳で死去。後任にはリトアニア人のウィルジルダスが任命された。
わずか3ヶ月で顧問団5人のうち4人が死亡するという異常事態に敬虔で迷信深いルイは震え上がった。 これは神の怒りではないのか? 怒りを鎮める為にはどうすればよいのか? 答えは一つしか無い。
1300年12月9日 ポメラニア公ズビネクは降伏し帝国に編入された。
そのわずか7日後。
1300年12月16日 帝国はビザンティンから独立していたキプロスに聖戦を布告した。 これはルイ2世が己の意思で起こした初めての戦争である。 このころヴェネツィアの商人が東方諸国で見聞した情報を記した博物誌が世にでておりパリの宮廷でも話題にのぼっていたが、聖戦に没入するルイは見向きもしなかったという。
キプロス島 ビザンティンから独立したムスリム首長の支配下にある
キプロス征服軍はエルサレム王、シチリア王、それにギリシャ諸侯の連合軍が中心となって遂行された。
ペレの戦い この時代にしては小規模な合戦である
1301年10月23日 キプロスは降伏し帝国に併合された。 同日、ルイはキプロス王国を創設したが、すでに失われて久しい王国であり法的な意味を持つものではなかった。(慣習的領土を持たない) またルイは家令ウィルジルダスをリマソール伯に叙任し征服地の統治を委ねた。
キプロス王国創設
1301年11月3日 教皇ユリウス2世が61歳で逝去。 ピウス2世がペテロの座を継承した。
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教皇ピウス2世 有能な教皇が2代続いた後だからか凡庸さが際立つ
1302年3月16日 ジョチ・ウルスの《大ハーン》ジャムガが58歳で崩御。末子チャナイがハン位を継承した。
1302年3月19日 帝国は北アフリカのカビィリア首長国に聖戦を布告した。 次代フィリップが本格的に進める事になるアフリカ征服戦争の第一歩である。
カビィリア首長国
1302年10月25日 カビィリアは降伏し帝国に併合された。 カビィリアはろくに抵抗も出来ないまま征服されており、これ以降アフリカは与し易いという認識を帝国に与える原因となっている。
アフリカ与し易し
カビィリアを征服したころから、ルイはこれまで以上に礼拝堂に篭もることが多くなっていた。 臣下との謁見も専らそこで行われ、更には顧問会議も礼拝堂で開かれるようになっていった。 もともとカペーの帝国は宗教色が強いのだが、ルイ2世晩年の帝国はその傾向をより一層強めていたといえる。
1303年4月16日 皇帝ルイ2世は崩御した。 享年70
老帝の時代は終わり、偉大なる征服帝フィリップの時代が始まる。
ルイ2世の治世は12年と短かったが、ドイツを併合し神聖ローマ帝国に死亡宣告をした事で後世名を残すことになった。 しかし大きな業績はそれくらいであり、しかも実際に帝国を取り仕切っていたのは甥の大臣エラールであった。 ではルイは凡庸な皇帝であったのかというと、それはまた違う。 有能で野心家の甥に全権を委ねるなどというのは並みの度量ではないし、何よりルイの治世下では反乱と呼べるものが一例もないのである。 確かにルイは、父シャルルと息子フィリップの2人の大帝に挟まれた地味な存在には違いない。 しかしそれはその治世の短さゆえに致し方のない事であって、近年ではフィリップの偉業を準備した堅実な名君として再評価の動きも起こっている。
このAARのカペー家は全般に長寿で、しかも意識して晩婚にしてますから1人1人の在位期間が比較的長いのですが、今回は例外的に短い在位となりました。 ローマ帝国はすでに圧倒的超大国になっていますので戦争で苦労する事もなく、必然的に描写も簡単になってしまいます。 というか、戦争に関しては書くことがありません。 このペースだとゲーム期間内に大半の地域は征服できちゃいそうです。 私は英語版もプレイしてますが、今のバージョンでこの拡大はかなり難しいでしょう。 英語版によるもっと地味で小規模なAARを書きたい誘惑に駆られることもありますが、今はこれを完結させることを再優先したいと思います。