1219年12月31日 皇帝ルイは最初の勅令『帝国統治令』を発布した。 これは皇帝の長男が帝国を継承し、次男以下は諸王として皇帝を支える事を定めたものである。 従来の親王領制度が拡大されたもので、公が王に変わっただけともいえる。 内容はカロリング朝のルイ敬虔帝が817年に発布した帝国計画令によく似ているが、決定的な違いがある。 カロリング朝のそれは分割相続の慣習を前提としており、王権は事実上帝権から独立していた。 結果的に分裂後の諸王国は別々の歴史を歩み始め今のフランス、ドイツ、イタリアがある。 しかしカペー朝のもとでは王は皇帝の封臣であるとされ、帝国の政治的一体性がより強調されている。 そもそも長子相続制を採用するカペー朝では次男以下の受封は生得権ではないのである。
1220年1月1日 皇帝ルイは次弟エドゥアールをエルサレム王に、三弟ウスターシュをポルトガル王に、末弟ロタールをレオン王に封じた。
エルサレム王エドゥアール ルイ6世の次男 有能な人格者でルイのよき補佐役
ポルトガル王ウスターシュ ルイ6世の三男 よく見るとイケメン
レオン王ロタール ルイ6世の四男 未成年を王にするのは不安だが…
この制度は代々続けられていく事になるが、言うまでもなく与えられる王国の数には限界がある。 以後歴代の皇帝は子弟に与える王号を確保するための侵略戦争に明け暮れることになるのである。
またルイは、これまでフランス王が兼任してきた公爵位のうち、直轄領を含まないものを家臣に委譲した。 即ちトゥールーズ伯レーモンをトゥールーズ公に、オーヴェルニュ伯ジルベールをオーヴェルニュ公にそれぞれ昇格させている。
ルイの戴冠によりキリスト教世界には3人のローマ皇帝が並立する事になった。 ビザンティン皇帝ダニエルはルイを西の正帝とし、旧来の神聖ローマ皇帝を西の副帝とする詔勅を発したが、これは東の皇帝を正統とするギリシャの伝統的世界観に則った一方的な宣言にすぎず、何ら法的な意味を持つものではない。 神聖ローマ皇帝フランツはルイの戴冠を黙殺し、これまで通りフランス王として遇し続けた。 もっとも外交的礼儀という点では西ローマ帝国も決して褒められたものではない。 ルイが再興した帝国は歴史学的には西ローマ帝国と呼ばれるが、東のビザンティン帝国同様、自称はあくまでもローマ帝国である。 カペー家の諸帝は自らを唯一正統なローマ皇帝とし、東ローマ皇帝をギリシャ皇帝、神聖ローマ皇帝をドイツ皇帝と呼んだ。 三人の皇帝が互いに正統性を主張し、軍事的外交的に対立を続けるこの時代を後世の史家は三皇帝時代と呼ぶ。
フランス軍がラヴェンナとボローニャの領有権をめぐり神聖ローマ帝国と交戦状態にあった1218年。 フランス領ヘントにヴァイキングが来寇し略奪の限りをつくすという出来事があった。 通常なら近隣諸州の兵で容易く撃退できたのだが、兵という兵はドイツとの戦争に投入されており鎮圧が遅れた事が被害を拡大させた。 ヴァイキングの襲撃は西フランク王国時代とくらべて激減していたが、それでも数年に一度はやって来る。 ルイは沿岸警備の強化を諸侯に命じる一方で密偵長に命じ襲撃者の特定を進めていた。 その結果わかったことは、襲撃者がいつも同じであるという事実だった。
1220年4月20日 大臣エルメネヒルドはカペー家がオンゲルマンランドの請求権をもつ事を証明する古文書を発見した。 オンゲルマンランドはノルド教が支配する土地であり、ヴァイキングの最後の生き残りであった。
ノルド最後の砦オンゲルマンランド
勇猛果敢な略奪者といっても所詮は個人の武勇に頼る蛮族である。 訓練された帝国常備軍の敵ではない。
1221年1月28日 オンゲルマンランドは帝国に併合された。 聖なる森は焼かれ祭壇は破壊され、ゴジや巫女たちは火刑に処された。 現地は司教領となり急速なキリスト教化が進められていく事になる。 キリストは勝利し、古きノルドの神々は滅び去ったのである。
1221年3月2日 大臣ナヴァラ公エルメネヒルドが死去。63歳であった。 傲慢で敵の多い男だったが、彼こそがルイ父子の覇業を支えた最大の功臣だったであろう。 後任の大臣にはグラナダ公ラモン・ベレンガーが選ばれた。
1221年8月5日 イングランド王位を要求するノーザンバーランド公オズルフが挙兵。 ルイはイングランド諸侯に鎮圧を命じた。 乱は1年あまりで鎮圧され公は所領を剥奪された。
1222年3月31日 ついに来るべき日がやって来た。 神聖ローマ帝国の廃帝ホラント公レオポルトが帝位奪還を目指し挙兵したのである。 以後数年にわたりドイツは内乱に明け暮れることになる。
廃帝レオポルトの乱 ドイツの内乱はお家芸と化している
1215年、大ハーンより西方の攻略を命じられたフレグは大遠征軍を率いてハンガリーに侵攻。 迎え撃つハンガリー王カルマーンは敗死し、ハンガリー諸都市はモンゴル軍の略奪・虐殺によって壊滅した。 1218年5月17日には王都ベストが陥落しハンガリー王国は地上から消滅した。
フレグはハンガリーを征服しフレグ=ウルスを建設した
チンギス・カンの孫フレグ はっきりいって無能
ハンガリー消滅の報はキリスト教世界を震撼させた。 モンゴルの急速な拡大とその蛮行は既にヨーロッパに伝わっており、隣国のドイツやポーランドは押し寄せる難民たちへの対応で混乱状態に陥っている。 本来カトリック世界の盟主としてモンゴルを迎え撃つべき神聖ローマ帝国は内乱状態にありその責務を果たせる状況にはない。
「降伏を拒んだ都市は鼠一匹残さず皆殺しにされたと聞いております」
ハンガリーの惨状を伝え聞いた教皇マルティヌス2世は決断した。
1220年11月11日 教皇はハンガリー十字軍を布告した。
第四回十字軍
「ドイツ皇帝、ポーランド王、クロアチア王は既に参戦を表明しました」
大臣ラモン・ベレンガーの報告に皇帝は大きく頷く。
「帝国も総力をもってモンゴルを迎え撃つ。元帥、卿に総指揮権を委ねる。この戦いに全キリスト教世界の命運がかかっていると思え」
「一命に代えましても」
皇帝ルイは帝国全土に動員令を発した。 フランス、イングランド、スペイン、イタリア、エルサレムなど帝国各地から集められた20万の軍勢は総大将たる元帥スタニスラフに率いられハンガリーに到達した。
1223年1月 ハンガリーに到着した帝国軍は先着したポーランド王の敗北を知らされた。 フレグの親衛隊は10万を超える規模で、機動力と持久力に秀でている。 これだけの数を擁しながらもどのような長駆にも耐えるという。
一方帝国20万の軍勢は招集された地域ごとに軍団をなしており、それぞれ現地出身の将軍に率いられていた。 バラバラに行軍していたら各個撃破されるであろう。 元帥スタニスラフは全軍を自己の指揮下に置き、一度の会戦で雌雄を決する決意を示した。
「指揮権を渡せと云われるのか!?これは私が招集した軍団ですぞ!」
バルセロナ公ティボーの不満に他の将軍たちも同調する。 帝国軍を名乗ってはいても所詮は封建社会の軍隊である。その実態は封建領主たちの家の子郎党を集めたものに過ぎない。 国軍だの軍規だのという概念はないし体系化された指揮系統もない。 そもそも帝国常備軍からして皇帝の私兵なのである。 それに帝国元帥といっても所詮は男爵家の当主でしかないスタニスラフの指揮下に入ることは誇り高き門閥貴族たちには許しがい事であった。
しかし元帥スタニスラフは妥協しない。
「私は皇帝陛下より全軍の指揮権を委ねられている。その命令に従えぬというのなら後日反逆罪に問われることになろう。その覚悟はおありか!?」
貴族たちに動揺が走る。
「し、しかし食料の調達もままならぬ未知の土地で20万もの大軍を行軍させるなどとは…兵らに死ねと命ずるようなものですそ」
「そうだ。死ね。我らはキリスト教世界を守るために死ぬのだ。だがそれは無駄死ではないぞ。モンゴルの異教徒どもを道連れにして死ぬのだ」
元帥スタニスラフは行軍を強行。 後世「死の行軍」と呼ばれることになるこの強行軍は多くの死者や脱落者を生み、デブレセンでフレグの親衛隊と遭遇した時にはその兵は14万にまで激減していた。 しかしそれでも数の上ではフレグの軍隊を上回っている。 元帥スタニスラフの戦術は単純である。数の優位を活かした重騎士団の突撃でモンゴル軽騎兵を粉砕する。 1人が1人を倒せば全員死んでもなお味方が4万人も残るではないか!
「この決戦にキリスト教世界の命運がかかっている!命を惜しむな、全軍突撃せよ!」
「神の御心のままに!」
13万7千の帝国軍と10万4千のモンゴル軍が激突したこの会戦が世界史の流れを変えた。
デブレセンの戦い 後世第二のトゥール・ポワティエと称される歴史的戦い
勝利!
決戦は帝国軍の勝利に終わった。 死傷者は帝国軍4万に対しモンゴル軍は6万。実に10万人もの将兵が戦場に倒れたのである。
元帥スタニスラフは兵が休む間も与えず、敗走するモンゴル兵の追撃を命じた。
「一兵たりとも生かして返すな!蛮族どもは皆殺しにするのだ!」
チャナドで、ニトラで、ブホで、帝国は敗走するモンゴル軍を掃討していった。 そして1223年10月19日にはネティルピクセでモンゴルの最後の残党を殲滅。文字通り一人残らず皆殺しにしてみせた。 キリスト教世界は救われたのである。
1224年2月24日 教皇マルティヌス2世は十字軍の勝利を宣言。 ローマ皇帝ルイは解放者としてハンガリー王国を与えられた。
ハンガリー王国獲得
同年12月5日 ルイはハンガリー十字軍における戦功に報い、元帥スタニスラフをノーザンバーランド公に叙した。
元帥ノーザンバーランド公スタニスラフ 後世「モンゴル人殺し」の異名で呼ばれることになる
1222年に始まった廃帝レオポルトの乱は3年目を迎えたが未だ終わる様子もなく、ドイツは分断への道を突き進みつつあった。
1225年2月10日 皇帝フランツが崩御。長男のジークフリートが帝位を継承した。 新帝ジークフリート2世はわずか5歳である。
幼帝ジークフリート2世
反乱の首謀者レオポルトはかつて4歳で帝位を追われており、かつての自分に重ねあわせ幼帝に同情を抱いていたのかもしれない。 しかし個人的感傷で一度始めた戦いが終わるわけではない。
1225年のドイツ これで何度目の内乱なのか…
当初は優勢であった皇帝側も幼帝の即位によって内部分裂して守勢に立たされている。 事態がこのまま推移すればレオポルトは勝利し、帝位を奪還出来たのかもしれない。 しかし神は彼を見捨てた。
1226年8月27日 廃帝レオポルトは肺炎で急逝。24歳の若さだった。 旗頭を失った反乱軍は四散し内乱はあっけなく収束した。 新帝ジークフリート2世は最大の危機を脱したのである。
1224年3月11日 皇太子シャルルと上ロレーヌ公女バルバラの婚約が成立した。
長男の嫁は近隣の女相続人から選ぶ
1224年3月16日 長女イザベルとアールパード家のハンガリー王子ベルトクの婚約が成立した。 婿養子婚である。
ハンガリー王位を得たルイは旧アールパード王家を優遇しエステルゴムやトランシルヴァニアの公に封じていたが、肝心の王位は自らの手に留めていた。 いずれ誰かに与えるにしても、アールパード一門を納得させカペー皇室の利益にもかなう人選をしなくてはならない。 ベルトクは傍流とはいえアールパード王家の一族であるし、何よりもパリの宮廷に滞在していたことが決定的であった。 カペー家の皇女と婿養子婚させた上で王位を与えればよいのである。
1225年5月19日 成人したベルトクは皇女イザベルと女系結婚。 同日、皇帝ルイは娘婿ベルトクをハンガリー王に封じた。
ハンガリー王ベルトク 皇帝ルイの婿養子
1224年11月22日 皇妹ソレーヌとシチリア王太子アルナールが結婚した。 これもまた婿養子婚である。
アルナールはシチリアの王位継承者だが父王ステファンとは折り合いが悪く、今はパリの宮廷に滞在していた。 おとなしく待っていれば王位を継承できる立場である。 しかしパリの宮廷はそんな彼を放っておくほど甘くはなかった。
「父上は殿下を廃嫡し弟君を後継者にするおつもりでは?」
密偵長テカの悪魔の囁きがアルナールの危機感を煽る。
「皇帝陛下には殿下の友情に応える用意がございます。あとは殿下の決断次第ですぞ」
アルナールの王位奪取を支援しようというのである。 もちろん無償ではなく条件がある。 カペー家の婿養子になる事と、シチリア王国の帝国への臣従である。 廃嫡への恐怖がアルナールの判断を狂わせた。
1226年11月27日 ルイはアルナールをサッスオロ男爵に叙し封建主従関係を締結。 同日、シチリア王国に宣戦を布告した。
帝国常備軍とイタリア諸侯軍は半島を南下し、シエナでシチリア軍を粉砕する。
シエナの戦い
南イタリアの諸都市は次々と陥落していき、抵抗する術を失ったステファン王は退位を表明した。
シチリア獲得
1229年5月13日 シチリア王に即位したアルナールはローマ帝国への忠誠を表明。 南イタリアは帝国に編入された。
シチリアの愚王アルナール カペー家の婿養子
こうしてローマ帝国は再興からわずか10年でハンガリーとシチリアを手に入れたのである。
1224年6月6日 ポルトガル王ウスターシュは弟ロタールのレオン王位を要求し宣戦を布告。 イベリアは一時騒然となる。 帝国は王権法により封臣同士の戦争を禁じているが、イベリアは帝国の慣習的領域ではないため適用外なのである。 皇帝ルイは弟たちの争いに激怒したがどうすることも出来ずただ傍観する他なかった。 結局、この争いは5年も続いた挙句痛み分けに終わる。
1229年11月3日 ポルトガル王ウスターシュがサンティアゴの領有権を主張しガリシア王ボソンに宣戦布告。
1229年2月2日 レオン王ロタールがトレドの領有権を主張しトレド女公アルドンサに宣戦布告。
1230年7月18日 大臣ラモン・ベレンガーが死去。 後任の大臣に選ばれたのはエルサレム王エドゥアールである。 エドゥアールはルイの次弟で優れた外交手腕をもち、やんちゃな下の弟たちとは違い穏健で落ち着いた人格者として知られていた。
1230年7月20日 皇后ブルンヒルデが53歳で薨去。 皇太子シャルルが上ブルゴーニュ公を継承した。
上ブルゴーニュ公シャルル 後の皇帝シャルル1世
ルイは再婚した。 相手はイタリアの下級貴族出身のアンナである。
後妻アンナ 地中海顔は失敗作だと言わざる負えない
1230年10月26日 大臣エドゥアールはルイがコルーニャ伯領の正統な領有権を有することを証明する古文書を発見。 ルイはガリシア王ボソンに宣戦を布告した。
ガリシアごとき小国は我が帝国の敵ではない
1230年11月2日 上ロレーヌ公ディートリヒは上ブルゴーニュ公の領有権を主張。 公シャルルに宣戦を布告した。 ディートリヒはシャルルの妻バルバラの父親である。
弟たちの抗争に続き、今度は息子とその義父の抗争である。 心労がルイの健康を蝕んでいった。
ロレーヌ・ブルゴーニュ戦争
この戦争は長期化し、終結するのはシャルルが皇位を継承した後になる。
1232年1月3日 ガリシア王ボソンは降伏。 コルーニャ伯領はルイの支配下に入った。
同日、ルイはガリシアの王にして公であると宣言。 王位と公位を剥奪されたボソンはカラトラヴァ伯に転落した。 翌月にはハダホス公ムーニョも帝国に臣従している。
戦後のイベリア カラトラヴァ伯ボソンはこの後カスティーリャ王位を継承している
1232年2月24日 バレンシア公ロウボーはラマンチャの領有権を主張しカスティーリャに宣戦布告。 カスティーリャは諸勢力の草刈り場になっていた。
1232年3月19日 家令ウンベールが87歳で死去した。 旧ブルゴーニュ公家の嫡流に生まれたウンベールはフィリップ2世の婿養子であり、ランカスター公としてイングランド諸侯に睨みをきかせる重鎮であった。 家令としての在職年数は実に61年もの長きに及ぶ。 後任の家令に選ばれたのはサンセポルクロ男爵ルノーであるが彼もまた52歳と高齢であり、次の世代の人材確保は急務といえる。
1232年3月27日 重臣の死で気弱になったルイに明るい知らせがもたらされた。 後妻アンナが男児ギシャールを産んだのである。
「兄上、男の子が生まれましたぞ!」
大臣エドゥアールの報告にルイは笑みを浮かべたが、体調が回復する事はなかった。
「モンゴルが新たな西征軍を派遣したとの報告も入っております。我々にはまだまだ兄上が必要なのです」
「それはシャルルの仕事だ。朕はもう疲れた。そろそろ休ませてくれぬか」
1232年4月16日 皇帝ルイ1世は崩御した。 享年57
「そろそろ休ませてくれ」
ローマ帝国を再興しモンゴルの脅威を取り除いた偉大な皇帝の、これが最後の言葉である。
ローマ帝国を再興したルイは偉大な皇帝として多くの物語の題材にされるなど後世の評価は極めて高い。 特にモンゴルを撃退しハンガリーを解放したことは重要で、もしこの戦いに破れていたら今の西洋文明は無かったであろう。 他にもイタリア半島の大部分を帝国に組み込むなど、軍事・外交面での功績は計り知れない。 ただルイ自身は最後まで己をフランス王と考えていたフシがあり、父王の政策を引き継いで皇帝になってはみたが、 ローマ帝国それ自体にはあまり思い入れはなかったと云われている。 フランス王国からローマ帝国への転換は次のシャルル1世に引き継がれることになった。
絶妙のタイミングで十字軍が発動しましたね。 お陰で一度の戦争でイルハンを退場させることができました。 おまけにハンガリーまでゲット出来たので言うことなしですね。十字軍は美味しすぎます。 あと、シチリアを獲得したやり方はこれを読んでる方なら誰もがご存知だと思いますが、皇帝になったら王国レベルで使えるので簡単に拡大できてしまいます。 まあ、このAARでは自重は一切しませんから、今後もこのやり方で拡大路線になるのかな?と思っております。 ただ、大きくなりすぎた為に綻びも出始めてるのが気になる所ですね。弟同士の抗争とか。 一族に王国を与えるのはリスクが大きいので、本来なら皇帝になったら王号は破壊するのがセオリーだと思いますが、そこはまあ、ロマン優先です。 次の目標は次章で明かします。 これからプレイするので少々時間がかかりますが気長にお待ちください。それでは!