AAR/王朝序曲

皇帝シャルル1世の治世・前編

ローマ皇帝

中世のヨーロッパにおいて皇帝とはローマ皇帝のみを指す。 紀元前27年にアントニウスを滅ぼし内戦を終結させたオクタウィアヌスは、帝国の最高権力を掌握した後も共和政体を直接否定する事はせず公職を一身に独占する事で事実上の君主として統治する道を選んだ。 これは後継者たちにも受け継がれ、その既成事実を積み重ねることによって帝政が成立したのである。 したがって、血統はその前提条件ではない。 たしかにローマ帝国やその継承国家たるビザンティン帝国にも王朝は存在したがそれは結果であって、元老院・市民・軍隊が適格者を推戴するというのが大原則であった。 神聖ローマ帝国もかつては選挙制をとっていたが、有資格者は事実上王族・大貴族に限定されており、また帝位には教皇による加冠が必要な点で古代ローマの共和制の伝統とは全く無縁なものである。 カペー朝フランス王国から発展して成立したローマ帝国もまた、古代ローマ帝国や神聖ローマ帝国とは異なる体制をとっていた。 その体制を築き上げた皇帝こそが、後世「聖帝」と讃えられたシャルル1世である。

いとも敬虔なる皇帝

1233年3月2日 皇后バルバラが男女の双子を出産。 長男はルイ、長女はブルゴーニュと名付けられた。 シャルルは色ごとには関心が薄く子作りも君主としての義務ととらえていた。 信心深く、性欲だけでなく権力欲とも無縁なシャルルの関心は現世の帝国ではなく天国にある。 帝国の運営は顧問団に一任されており、特に大臣エドゥアール(エルサレム王)が事実上の宰相となっていた。 しかしエドゥアールは元来が調整型の政治家であり首班として顧問団を統率するタイプではない。 従って現実には顧問たちによる集団指導体制である。

1232年5月9日 カスティーリャ王ボソン1世が45歳で崩御。 同名の長男が王位を継承した。 イベリア半島統一を掲げる帝国はこれを好機としボソン2世に宣戦を布告。 1年後の1233年5月6日にはこれを降しカラトラヴァ伯領を帝国領とした。 この戦争は顧問団が発案し、主に元帥スタニスラフの主導下で行われたものである。 むろん最終的には皇帝が裁可したのであるが、シャルル自身が意思決定に直接関わったわけではない。 6月1日にはボソン2世からコルドバ公領を簒奪したが、これも顧問団の主導で行われている。

帝国の顧問団は確かに優秀でありイベリア半島の制圧は着々と進行している。 しかし都市国家ならともかく、これだけの規模の帝国を集団指導体制で治めていくのは無理がある。 そもそもローマ帝国を名乗ってはいるがその実態はフランス封建社会が拡大したものに過ぎない。 国軍も官僚機構も存在しないこの時代に独立的な封建諸侯を統率していくためには強力な権威と指導力をもった君主の存在が不可欠である。 現に諸侯たちはシャルルを「いとも敬虔なる皇帝」と呼び軽んじ始めていた。

1233年6月15日 エルサレム王エドゥアールが47歳で逝去。長女サラジーヌがエルサレム王位を継承した。 兄の死から1年。名補佐役は後を追うようにこの世を去った。 後任の大臣に選ばれたマシュー・ド・ノルマンディーはサマセット伯の三男で征服王ウィリアムの七代目の子孫にあたる。

エドゥアールの葬儀を終えた夜、カンタベリー大司教フレデリックが高齢を理由に宮廷司祭長の辞任を申し出た。 シャルルは慰留したがフレデリックの決意は固い。

「そちほどの徳と学識を備え持った司祭は二人とおらぬ。信仰の導き手を失った朕はどうすればよいのか?」

「私のもとに優秀な弟子がおります。年は若いが私の如き愚僧など及びもつかぬ学識と揺るぎない信仰心をもっております」

「その若者の名は?」

「オットー・ザーリアー。ドイツの名門ザーリアー家の末流で今年で18になります」

数日後、オットー・ザーリアーはフレデリックの後任候補としてシャルルに拝謁した。

宮廷司祭長オットー

オットーは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の7代目の子孫である。 ザーリアー家はドイツの旧王家で今もドイツ最大の諸侯だがオットーは傍流で、聖職に入る前はブラバント公に仕えていた。 疫病で妻を亡くし悲嘆に暮れた彼は修道院に入るが、その学識と毛並みのよさが評判になりフレデリックの目に止まった。 しかし現時点では司祭の叙階すら受けていない。

「朕は天国に行きたい。そちはその方法をご存じか?」

初対面のシャルルから発せられたこの問いに、オットーは躊躇なく答えた。

「神に与えられた役割を果たすことです」

「ほう」

「人は皆、神から役割を与えられております。僧は民の魂のために祈り、戦士は民を守るために戦い、農民は民が生きる糧を生み出すために働くのです」

「では皇帝の役割とは何か?」

「神の敵を打ち滅ぼし、異教徒の軛に囚われた哀れな民を正しい信仰に復帰せしめる事です」

「聖戦を遂行せよということか」

「ダニエル書では終末の時が来るまでに四つの世界帝国が興亡すると預言されております。最後の世界帝国たるローマ帝国は審判の日に備え一人でも多くの民を正統信仰に導く責任がありましょう」

「しかしローマ皇帝はギリシャとドイツにもいる。三人の皇帝が鼎立する現状をそちはどう見る?」

「ロムルス・アウグストゥルスの廃位によってローマ皇帝の正統はギリシャ移りました。されどギリシャの皇帝は正統信仰から逸脱しております。なればこそ、神はフランク人たるカペー家に帝位を授けられたのです」

「ではギリシャの皇帝は僭称者という事になるな。だがドイツは?彼らはカトリックだ」

「ドイツの帝位は貴族たちの政争の具と成り果てており皇帝の責任を果たせる状況にはありますまい。東洋の言葉にもこうあります。天に二日なく地に二帝なし、と。神意は陛下にあります。なれば、それに従うのが皇帝の責務でありましょう」

1233年7月10日 オットーは宮廷司祭長に任命された。 以後、死がふたりを分かつまで二人三脚で帝国の拡大に邁進していくことになる。

1233年12月20日 オットーはアッシジの司祭に叙任された。

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宮廷司祭長オットー 神権的皇帝権の理論的支柱となった若き俊才

アイルランドとウェールズ

1234年10月1日 帝国はブロワ伯イーモンのマンスターに対する請求権を行使。 イングランド諸侯を動員し南アイルランドへの侵攻を開始した。 イーモンはルイ6世の最後の妻タールフラの弟にあたり、姉の縁故で伯位を授けられただけの無害な老人である。 しかし彼は南アイルランドを支配するブリアン家の出自であり、その存在自体が政治的価値を持っていた。 イーモンの姉タールフラはルイ6世と死別した後ほどなくして病死したが、王との間に一子ロタールをもうけており、今はレオン王となっている。

1234年11月23日 そのレオン王ロタールが28歳で逝去。長男ニコラが王位を継承した。 しかしそのニコラも翌年8歳で夭折。 妹のシャルロッテが女王として即位する事になる。

1235年6月22日 マンスター王イーモン(ブロワ伯イーモンとは別人)は降伏。 ブロワ伯がマンスター公となり、その所領は帝国に属する事になった。

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マンスター獲得後のブリテン島とアイルランド 

この時点でブリテン島とアイルランドには帝国・スコットランド・ナヴァラの三勢力が鼎立していた。 ナヴァラ王国は元々はパンプローナに興ったバスク人の王国で、イベリア半島に盤踞したヒメノ王家の源流にあたる。 しかし1197年にイベリア半島の領土を喪失し実質的にはウェールズ王国になっていた。

1237年5月10日 シャルルはナヴァラ王アンドレアスの弟ブラスコをグラントンベリー男爵に叙した。 ブラスコはランカスター女公ボンヌの娘婿であり、その子ヴァルランは女系ながらカペーの姓を受け継いでいる。 シャルルの意図は明らかだった。

1237年6月29日 帝国はナヴァラ王国に宣戦布告。ナヴァラ継承戦争が勃発した。 先のマンスター継承戦争と同様、帝国側の主力はイングランド諸侯の軍勢である。

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レイヤダーの戦い

1238年10月30日 ナヴァラ王アンドレアスは降伏し、ブラスコが王位を継承した。 こうしてウェールズも帝国の版図に加わったのである。

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ナヴァラ王ブラスコ 帝国の操り人形になるハズだったのだが… 

またナヴァラ王国領だったアイルランド東部ミース地方も帝国に加わった。 同日、シャルルはアイルランド国の創設を宣言。自らその上王に即位した。

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アイルランド国創設

この一連の戦役を主導した事で、帝国におけるシャルルの指導権が確立された。 しかし新たにナヴァラ王となったブラスコの存在が後に大きな火種となる。

世代交代

1238年3月8日 密偵長テカが75歳で死去。 ヌビア王家の流れをくむこの黒人は「黒い悪魔」と呼ばれ貴族たちの怨嗟の的となっていた。 テカは強力な密偵網を構築していたがそれは近代的な諜報機関などではなく、主の死とともに分裂する私的ネットワークにすぎない。 巨大な帝国を謀略から守るためにはテカの密偵網を再構築できる能力をもった人材が不可欠であった。 後任の密偵長にはブローニュ伯シモンが暫定的に任じられたが、その地位は僅か3ヶ月で明け渡すことになる。

1238年6月10日 ヴェローナ公の密偵長を務めていたレオナール・デアルチェがパリに招聘された。 密偵長に任命されたレオナールはテカが築き上げた密偵網を短期間で掌握し、その後継者としての実力を証明して見せた。 彼は5年後にはサン・メアン男爵に叙任されることになる。

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密偵長レオナール テカの後継者として辣腕を振るうフランク系イタリア人

1238年12月11日 大臣マシューが51歳で死去。 後任の大臣にはモンフォール・ラムリ男爵ラウルが任命された。 ラウルはフィリップ1世の摂政・大臣を務めた名臣ラウルの6代目の子孫にあたる。

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大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウル デモー家からの入閣は150年ぶり

大臣は顧問団の首班であり事実上の帝国宰相である事は先に述べた。 しかしシャルル治世において宰相の役目を果たしたのは宮廷司祭長オットーであり、ラウルの仕事はもっぱら外交部門に限定されていた。

一方世代交代の波は海外でも進行している。

1237年10月11日 神聖ローマ皇帝ジークフリート2世が成人し親政を開始。

1238年6月15日 かつてハンガリーを征服しヨーロッパを恐怖させたフレグが53歳で死去。子のチュルゲテイがハン位を継承した。 領地を失って久しいウルスの将来はこの若者に託されることになった。

1239年1月28日 ファーティマ朝の《カリフ》ラフィク1世が73歳で死去。長男のラフィク2世が《カリフ》を継承した。

しかしこの段階では世界情勢に大きな変化はみられない。 シャルルも当面はイタリアとスペインの掌握に取り組んでいく事になる。

イタリア戦役

最初の標的はピサである。 ピサ共和国は地中海交易を独占する商業大国であったが軍事的には大した脅威ではない。

1239年12月15日 シャルルはルッカ伯コンスタンティオがもつピサ州への請求権を行使。 僅か3ヶ月後にはこれを征服した。

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ピサ伯領を獲得

首都を失った共和国はなおも存続するがそれは既に形骸といってよい。

1240年2月18日 大臣ラウルは参内し、カペー家がアプルティウムの正統な統治権を有する事を証明する古文書を提出した。 前大臣マシューの代に獲得していたスポレート州の請求権と併せ、スポレート公領の一円的支配権を奪取する条件が整ったことになる。

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スポレートとアプルティウム

両州は神聖ローマ帝国に属するが、彼の国は今、恒例の内乱状態にある。 親政を開始したジークフリート2世は帝権の回復を試み王権法を改正するなど諸侯の既得権を侵害する政策を進めており、これに反発した大諸侯たちが一斉蜂起したのである。

1241年2月5日 ローマ帝国は神聖ローマ帝国に宣戦布告。 帝国全土から動員した30万の大軍をもってドイツ各地を蹂躙した。

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ユーリッヒの戦い

国力に大きな開きがある上に慢性的な内乱状態にあるドイツには、最初から勝機などなかった。

1242年9月8日 ジークフリート2世は降伏し、スポレート公領は帝国に組み込まれた。

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スポレート獲得

1242年10月1日 シャルルは宮廷司祭長オットーをスポレート大司教に叙任した。 司祭に叙階されてまだ10年も経っていない、異例のスピード出世である。

帝国教会制

オットーを大司教にしたのには個人的信頼関係もあるが、それ以上に政策的な理由によるところが大きい。 帝国はローマを称してはいるが実態は分権的な封建諸侯の寄せ集めである。 その中にあって集権的帝国を作りげていくためにはどうすればよいのか? 教会組織を統治機構に組み込めばよいのである。 これかかつてドイツのザクセン朝が推進した帝国教会政策の模倣であったが、シャルルのそれはより積極的な意義を持つ。 シャルルは新たに征服した土地に必ず1つは司教領・大司教領を創設していった。 カペー家のローマ帝国はまさしくキリスト教帝国であり、その頂点にあって叙任権を握る皇帝は俗人でありながら聖職者としての属性をも併せ持つ神権的皇帝であった。 しかしこれが教皇庁との間に大きな軋轢を生むことになる。

カスティーリャ征服

1243年11月26日 シャルルはカスティーリャ王ボソン2世に宣戦を布告した。 アラゴン公サヴァリーのもつソリア伯領への請求権を行使したのである。

1244年11月4日 ボソンは降伏しソリア伯領はアラゴン公の手に渡った。 そしてこれによって、カスティーリャ王国はその領域の過半を喪失したのである。

1244年12月3日 シャルルはカスティーリャ王位を宣言。同時にカスティーリャ公位も剥奪し、前王ボソンをバリャドリド及びサマランカの伯の地位に追いやった。

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スペイン最後の独立王国が消滅した

1244年12月9日 レオン女王シャルロッテはサマランカ伯領の領有権を主張してボソンに宣戦布告。 ボソンに対抗する術などあるわけもなく、サマランカはレオン王国に組み込まれた。 130年前アンリ2世が夢見たスペイン統一は目前にせまっている。

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スペイン統一まであと1州

世界情勢の激変

1242年9月13日 ジョチ・ウルスはペルシャを征服。セルジューク朝は滅亡した。

バトゥがペルシャ遠征に乗り出したのは1241年10月であり、その征服に要した期間は1年に満たない。 セルジューク朝は17万の動員力をもつ世界第三位の大国であったが、モンゴル軽騎兵の破壊力は凄まじく旧来の秩序は一瞬にして崩れ去った。 すでにグルジアやアルメニアもその支配下に入っており、国土を分断されたビザンティン帝国は苦境に立たされている。

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1242年のジョチ・ウルス

1242年11月17日 エジプトでも政変があり《カリフ》ラフィク2世は廃位された。 新たに即位したのはかつてファーティマ朝を打倒したムンチェレン王朝の始祖ヤッシルの四男ハンマードである。 25年前に再興を果たしたファーティマ朝は再びムンチェレン朝にその地位を逐われたのである。

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ムンチェレン王朝《カリフ》ハンマード シーア派の指導者

中東の二大勢力が相次いで崩壊したことでイスラム世界は無秩序の時代に突入するが、それは新たな秩序形成に向けた動きの始まりでもあった。 真っ先に動いたのはアッバース家、則ちスンニ派の《カリフ》である。 トルコの軛から開放された《カリフ》バヒル2世は近隣の首長・土侯を従属させ、メソポタミアに地域的覇権を確立する。

1243年12月14日 バヒル2世はメソポタミアのマリク(王)を宣言。数世紀にわたり喪失していた政治的主権を回復した。

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アッバース王朝《カリフ》バヒル2世 スンニ派の指導者

1244年7月30日 ドイツの内乱は反乱軍の勝利に終わった。 ジークフリート2世は廃位され、第二次ツェーリンゲン王朝はわずか23年でその幕を閉じた。 替わって帝位に就いたカール2世はザーリアー家の出身であり、ドイツにおいても131年ぶりに旧王朝が復活した事になる。

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神聖ローマ皇帝カール2世 ザーリアー王朝再興を果たすもその基盤は脆弱である

こうして短期間に世界情勢が激変したわけだが、その最大のものはビザンティン帝国の変化であったろう。

1245年5月17日 ビザンティン皇帝ダニエルが崩御。76歳であった。 後世、ダニエルの死は一つの時代の終わりとして語られる。 一つの時代とは、アルカディウス帝以来連綿と続いてきた東ローマ皇帝の歴史そのものを指す。 勿論、ダニエルの死によってビザンティンが滅亡したわけではない。しかし、それはとてもローマ皇帝とよべたものではなかった。 新帝セバスティアノスはイスラム教徒だったのである。

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ビザンティン皇帝セバスティアノス ムスリム皇帝の出現がビザンティン帝国を破滅へと導いていく

アプリア聖戦

「背教者セバスティアノスの簒奪をもってギリシャの帝権は失われました」

ダニエルの死とイスラム教徒の即位を受けて、パリの宮廷では聖戦を求める声が高まっていた。 その急先鋒はオットーである。 しかしいきなりコンスタンティノープルまで遠征するのは現実的ではない。

「イタリアにはビザンティンに属する土地が残っております。まずはそこを解放する事が上策でしょう」

大臣ラウルの意見にオットーも賛成し、ここにアプリア聖戦が決定された。

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アプリアはイタリア半島に残った最後のビザンティン帝国領である

1246年1月9日 帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告。 ハンガリー王ベルトク、シチリア王アルナール、エルサレム女王サラジーヌなど諸王の軍勢が動員され、イタリアとギリシャを蹂躙した。

1246年4月7日 アテネ属州総督ステファノスがセバスティアノス打倒を掲げて挙兵。 これをきっかけにビザンティンでは総督や将軍たちの反乱が相次ぐようになる。

危機感を抱いたセバスティアノス帝はかねてより戦争状態にあったクロアチアと白紙和平。 遠征軍を呼び戻しアプリア防衛と反乱鎮圧に向かわせた。 一方帝国は元帥スタニスラフ率いる近衛騎士団をクロアチアに上陸させ、この地でビザンティン遠征軍を迎え撃つ。

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トロギルの戦い この戦いでビザンティンの遠征軍は壊滅した

遠征軍を失ったセバスティアノスはアプリアの放棄を決断した。 もはやイタリアの領地に拘っていられる状況ではない。帝位を維持するためには全戦力を反乱軍に向ける必要に迫られていたのである。

1246年11月30日 セバスティアノスは降伏し、アプリアは帝国に組み込まれた。

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アプリア公領はシチリア王に与えられた

カトリック世界の危機

1247年7月28日 シャルルはアイルランド上王として北アイルランドのティロン伯とティアコネル伯に対して慣習的宗主権を主張。 実力で以って認めさせるべく兵を起こした。 独立伯が帝国に敵うはずもなく、2人の伯はその年の内に帝国に臣従。 ブリテン島とアイルランド島は帝国とスコットランドの二大勢力に収斂する事になった。

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残すはスコットランドのみ

1249年3月15日 皇太子ルイとヘブリディーズ諸島伯シモンの娘アンナベラの婚約が成立した。 シモンはスコットランド女王マーソックの従兄弟だが、マーソックは子供がいない上に高齢であることから将来の王位継承が確実視されている。 つまりアンナベラは未来のスコットランド女王であり、将来のスコットランド併合を見据えた婚約であった。

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順調に推移すれば孫の代にはブリテン島全域が帝国領になる

この縁談を纏め上げたのは大臣ラウルだが、元々カペー家は巧みな婚姻政策で所領を拡大してきた歴史がある。 古くは1066年に当時の摂政ラウルがフィリップ1世とアキテーヌ公女アイネスの婚約を成立させ、それがフランス王権の伸長に繋がった経緯がある。

こうして北の国境問題は当面安泰となったが、ここにきて新たな問題が浮上してきた。異端の跋扈である。

1248年8月10日 密偵長レオナールは驚くべき報告書を提出した。 マヨルカ公ジャンが異端のカタリ派に染まっており、領内の封臣・廷臣も主に倣って異端に走ったというのである。 マヨルカ公はフィリップ1世の弟ユーグに始まるノルマンディー公家の支流でカペー家の末流である。 しかし、末流とはいえ皇室の連枝が異端に染まるなどカトリックの長を以って任ずるシャルルにとって許しがたい事であった。 幸いにもジャンは説得に応じカトリックに復帰したが、シャルルの心中は穏やかではなかったろう。

1249年11月7日 神聖ローマ皇帝カール2世はデンマーク女王カトリーヌに対しホルシュタインを巡る聖戦を布告した。 デンマークは元々カトリック国だが、異端のワルドー派を信仰する女王カトリーヌの元で徹底的な宗教改革が行われ、今では国をあげてのワルドー派になっていた。

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デンマーク女王カトリーヌ デンマークを異端に染め上げた女王。その長寿もあって魔女と呼ばれ畏れられた
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デンマークではワルドー派が多数派を形成している

ビザンティン帝国はイスラム化しデンマークも異端に染まった。 キリスト教世界は危機に瀕している…これがシャルルとオットーの共通認識であった。 状況を打開するには十字軍の発動も必要だろう。 しかし十字軍を発動する権限は教皇にある。 いかに皇帝が強大であろうとそれだけは超えられない一線であった。 しかし今の堕落した教皇庁にはそれは期待できない… オットーは教皇マルケルスの無能に歯がゆさを感じていた。

皇帝と教皇

”そこで彼らが、「主よ、剣ならこのとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた”

6世紀の教皇ゲラシウス1世は「ルカによる福音書」に書かれたこの言葉が教皇と皇帝を意味すると捉え、有名な両剣論を唱えた。 則ち、教皇の宗教的権威と皇帝の世俗的権力はともに神に由来し、互いに補完しあう共立関係にあると説いたのだ。 もっとも権威と権力の分担は世界的に見てさほど珍しい事ではなく、日本の天皇と将軍、イスラム世界のカリフとスルタン、トンガのトゥイ・トンガとトゥイ・カノクポル、ハザールのカガンとベグなど多数の事例が見られる。 しかしこれらはいわゆる二重王権であり、権威者と権力者の間には明確な序列が存在していた。 徳川将軍は事実上の国王として日本に君臨したがその地位はどこまでいっても天皇の臣下にすぎない。 現実の力関係など問題ではない。 征夷大将軍は朝廷の官職であり、だからこそ大政奉還が理屈として成り立つのである。 しかし教皇と皇帝は理論上対等の関係にある。 中世ヨーロッパは教皇と皇帝という二つの中心をもった楕円構造をなしており、教会の存続には世俗的権力による保護が必要なように王権の存立にも宗教的・神的な権威が不可欠であった。 「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉もあるが、これは教皇庁の一方的見解であって当時のキリスト教世界全体の見解ではない。 皇帝は教皇の臣下ではないし、その逆でもないのである。 しかしカトリック世界が危機に瀕する今、皇帝と教皇による双頭体制は機能不全に陥りつつあった。

神意の地上代行者

1248年10月30日 教皇マルケルスは帝国の叙任権を独占するシャルルに対して不快感を表明。 教皇庁との軋轢を嫌う大臣ラウルと家令ルノーは莫大な宝物を教皇に提供することで現状を容認させる道を選び、その場は事なきを得た。 しかしオットーはこの決定に不満を抱いた。 教会の長たる教皇が金で自説を曲げるなどあってはならないことだ。

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第164第ローマ教皇マルケルス 無学な彼は聖書を読むことすらできなかったと伝わる

「今の教皇庁の堕落ぶりは目に余るものがあります」

この日開催された拡大顧問会議の席で、オットーは不満をぶちまけた。 会議の席には皇族・帝国同輩(聖俗の大諸侯)も同席している。

「さよう。あのベネディクトゥス9世に比肩する無学で貪欲な愚物でしょうな」

密偵長レオナールの発言に議場が凍りつく。 ベネディクトゥス9世といえば放蕩の限りを尽くした悪名高い教皇である。 結果的に3人の教皇が互いに正統性を主張し相争う異常事態を招き、最後には神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世によって罷免された。 皆が沈黙を守る中、最初に声を上げたのはシャンパーニュ大司教ティボーである。 78歳のティボーは帝国宗教界の長老だ。

「使徒の座の墮落を正すのも神意をうけた皇帝の義務でありましょう。マルケルスを廃し、より相応しい人物を教皇位に擁立すべきですな」

「ならば高徳で学識もあるティボー猊下が一番適任でしょう」

「いや、わしはもう歳だしそんな柄ではない。使徒の座はもっと若くて長く務まる者がよい。陛下には意中の人がおられるのではないですかな?」

全員の目がシャルルに注がれる。

「では朕の考えを述べる。キリスト教世界を守るためには教皇庁の墮落を正し強力な指導力を発揮できる体制の構築が急務である。それが出来るのは宮廷司祭長オットーの他にはおるまい」

皇帝の発言に議場がざわめきたつ。 最も驚いたのはオットー本人で、年齢を理由に就任を固辞した。

「私は34歳でまだまだ若輩者です。教皇などとても務まりませぬ」

「朕は24歳で皇帝になったがそちの助けで何とか務まっておる。ともに協力してキリスト教世界を守っていこうではないか」

1249年8月6日 帝国はマルケルスの職務停止を宣言。スポレート大司教オットーを対立教皇に擁立しローマへの進軍を開始した。 マルケルスは傭兵部隊を雇い抵抗を試みるが元帥スタニスラフ率いる近衛騎士団によって完膚なきまでに粉砕された。

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ストゥリの戦い 寄せ集めの傭兵部隊など帝国軍の敵ではない

1249年12月12日 皇帝シャルルはオットーを伴いローマへの入城を果たす。 マルケルスは退位し、オットーが第165代教皇ドヌス3世として即位した。

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第165代教皇ドヌス3世 教皇即位後も宮廷司祭長に留まり帝国の宗教政策を主導する事になる

神権的帝政の完成

使徒の座に就いたドヌス3世はコンスタンティヌスの寄進状は偽書であるとしてその無効を宣言した。 教皇領は存続したがその世俗権は皇帝に属するものとされ、実質的には帝国の一部となった。 むろん、皇帝に従属したのは教皇の世俗統治権であって宗教的権限が皇帝に吸収されたわけではない。 しかし教皇庁を保護下に置くことはローマ皇帝に強大な権力をもたらす結果になった。 シャルル以降、歴代の皇帝は政敵や反逆者を破門する権限を、間接的ながら手に入れたのである。 そしてそれはカペー朝の最大の特長である神権的帝政が完成した事を意味する。

余談ながら退位した前教皇マルケルスは還俗し、のちにシャルルによってエドナム男爵領を授けられている。 敵を完全に滅ぼすことなく必ず代替の領地を与えるというカペーの伝統はここでも守られたのである。

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