盟友オットーをドヌス3世として教皇位に就けた皇帝シャルルは聖座の保護者として絶大な権力を手にすることになった。 しかし権力は目的達成の為の手段でしかない。
1238年にシャルルの手でナヴァラ王に即位したブラスコは、同年中に前王の所領を没収しウェールズと東アイルランドの支配権を完全に掌握した。 その後、ナヴァラ本土を治めるナヴァラ公に宣戦布告しそれを臣従させ、ナヴァラ=ウェールズ二重王国とも呼ぶべき大封を築く。 シャルルは激怒したが、封臣同士の争いを防ぐことが出来るのは帝国の慣習的領域内部に限られていたためどうすることも出来なかった。 しかし今は違う。
1250年のある日。 この日、顧問会議の場で皇帝シャルルは顧問団と高位聖職者たちの前で驚くべき発言をした。
「帝国の秩序を乱すナヴァラ王ブラスコは破門に値すると思うが、どうであろうか?」
皇帝の発言に誰もが驚愕し、そして同席した教皇ドヌスに注目する。
>「ごもっとも。神に与えられた崇高な使命を放棄し同族相争うブラスコの悪魔の如き所業は到底看過することは出来ませぬ」
教皇は皇帝の決定に全面的に同意した。 初めから示し合わせていたのだ。
1250年7月2日 教皇ドヌスはナヴァラ王ブラスコに破門を伝達した。
理不尽である
「そんな馬鹿な。俺になんの落ち度があるんだ?」
困惑したブラスコは皇帝を介して教皇庁への申し開きを求めたが、返答の代わりにやって来たのは捕縛の兵士であった。
「そうか…ウェールズを征服したら俺は用無しって事か。悪魔め!」
1250年7月5日 捕縛を逃れたブラスコは暴君打倒を掲げ挙兵。 しかし反乱を予期していた帝国はすでに兵力をウェールズとナヴァラに展開済みであった。
1251年5月20日 反乱は鎮圧された。
狡兎死して走狗烹らる
ブラスコは全ての称号を剥奪され国外追放された。 これによりヒメノ家は全ての王位を失った事になる。 しかし粛清はこれで終わりではない。
1251年8月25日 教皇ドヌスはナヴァラ公ラモンを破門した。 ラモンはルイ6世と7世(皇帝ルイ1世)に仕えた大臣エルメネヒルドの孫である。 元は皇帝の直臣だが、ブラスコによって強引に臣従させられており、今度の件では一方的な被害者であった。 破門の理由は私生活の不品行ということだが、これが皇帝の言い掛かりである事は明白である。
1251年9月4日 ナヴァラ公ラモンは捕縛の手を逃れ挙兵。 しかしこれもあっけなく鎮圧されラモンは公爵位を剥奪された。
1252年8月20日 シャルルは長女ブルゴーニュの婿ゴーティエをナヴァラ王に封じた。 また、ウェールズ地方は現地の伯に公爵位を与える事でナヴァラ王国と分離させ、皇帝の直臣とした。
ナヴァラ王ゴーティエ シャルルの婿養子。実家のレオン伯家はブルターニュ公家の支流でカペー家の連枝である
この一連の騒動は娘婿に王位を与えるためにシャルルたちが仕組んだ謀略とする見方が通説になっているが、それだけが理由ではない。 ゴーティエが王位を得たのは結果であって、目的はあくまでも帝国の秩序維持にあった。 シャルルとドヌスは己の所業が正義であることを微塵も疑っていない。 キリスト教世界の拡大という崇高な使命を果たすためには帝国の秩序を保つことが不可欠であり、異分子は排除されなくてはならないのである。 それが結果的に多くの民の魂を救済する事になるのだ。
1250年2月17日 ザクセン公フリードリヒがドイツ王国の創設を宣言した。 フリードリヒは皇帝カール2世と同じザーリアー家一門であり、カールがツェーリンゲン家から帝位を奪還するまでは一門の当主の座にあった人物である。 それだけにカール2世に対しては強い対抗意識をもっていた。
ドイツ王フリードリヒ ドイツ最大の諸侯は有能で悪魔憑き
1250年12月26日 ビザンティン皇帝セバスティアノスが60歳で崩御した。 唯一の男子ミカエル8世が帝位を継承するが、その地位は半年ともたずドゥーカス朝は滅亡を迎えることになる。
正教を棄てムスリムになったセバスティアノスは帝位に就くや臣民にイスラム改宗を強要し、それに反発する総督たちの反乱が治世を通して慢性化していた。 それに加え、ドゥーカス家には奢侈に走る者も多くその退廃ぶりを糾弾する声も高まっていた。 その不満を背景として台頭したのがマケドニアの山岳民の出自とされるオボリド氏族でありその指導者エウフェミオスである。 すでにセバスティアノス治世末期にはエウフェミオス率いる反乱軍が官軍を圧倒しており、王朝転覆は不可避の情勢であったのだ。
1251年5月9日 エウフェミオスはローマ皇帝を宣言。 ミカエル8世は廃されドゥーカス朝は192年の歴史に幕を下ろした。 しかし新帝エウフェミオスもまたムスリムであり、ギリシャのイスラム化はオボリド朝の下で急速に進められていく事になる。
ビザンティン皇帝エウフェミオス オボリド朝の開祖
1252年12月28日 ジョチ・ウルスの《大ハーン》バトゥが70歳で崩御。 末子のジャムガが《大ハーン》として即位した。 モンゴル帝国の遠征軍を起源とするジョチ・ウルスはごく短期間で中東の秩序を覆し巨大遊牧国家を築き上げたが、その内実はバトゥ個人のカリスマに立脚した武装集団でしかない。 武装集団を恒常的な国家に脱皮させるには強い意志をもった指導者とそれを支えるスタッフを必要とするが、幼いジャムガにそれを求めるのはどだい無理な話だろう。
ジョチ・ウルス《大ハーン》ジャムガ 何故かトルコ顔
ローマ帝国は前身であるフランス王国と同じく君主と少数の顧問団に権力が集中する体制をとっている。 顧問の出自は当初は王領地の下級聖職者や城主層が中心であったが、フィリップ1世の治世からは門地にかかわらず能力本位で採用する方針がとられ、それは200年を経た今も徹底されている。 実力があれば黒人ですら抜擢され、功績が認められれば男爵に叙せられる反面その職は激務であり、またより優れた人材が君主の目にとまればたちまち職を解かれる不安定な地位であった。 1251年現在、5人の顧問のうち大臣、密偵長、宮廷司祭長はシャルル自身が任命しており歳もまだ若いが、元帥スタニスラフと家令ルノーは父帝時代からの老臣でその後継者選定が政治課題の1つになっていた。
1251年6月 この月、パリの宮廷に2人の若者が招聘された。 家令候補はコーンウォール女公デニエラの嫡子アランで、大貴族の世継ぎでありながらパリ大学で自由七科を修め18歳で学士号を取得した俊英である。 元帥候補はユングリング家のラグナールで、フレイの末裔を称する旧スウェーデン王家の末裔である。 どちらも世界に2人といない天才であり、いずれは顧問としてシャルルを支えていくことが期待された。
1253年1月31日 家令サンセポルクロ男爵ルノーが75歳で死去。 後任には若きアランが抜擢された。
家令アラン 画像は後年、コーンウォール公爵位を継承した後のものである
1254年1月5日 バイエルン公エーベルハルトが暗殺され、長女エルメンガルドが公位を継承した。 犯人は見つからなかったが、これによって得をするのが誰であるかは明確だった。 エーベルハルトの甥ジグハルトは公爵位の請求権を有しており、今まさにパリの宮廷に滞在している。 他国の請求権者と主従関係を結びその故国を簒奪するのはカペー家の常套手段である。
「バイエルンは帝国の生命線であります」
大臣ラウルはこう演説し、継承戦争の準備を進めるよう強く主張した。 ハンガリーの飛び地状態を解消する為には南ドイツを帝国に組み込む必要がある。 それが大臣の主張であり、家令アラン、密偵長レオナールも同意見である。 しかし宮廷司祭長オットー(教皇ドヌス3世)は違う考えを持っている。 より重要なのはギリシャの民がイスラム化することを食い止めることであり、その手段は十字軍をおいて他にない。
1254年3月3日 オットーは教皇ドヌス3世の名でマケドニア十字軍を布告した。
マケドニア十字軍布告
帝国は元帥スタニスラフを総大将とし総勢25万の大軍の派遣を決定。 元帥候補ラグナールも近衛軍の副将として従軍した。
ティガニの戦い ラグナールの初陣である
イスラム改宗とそれに伴う内乱で疲弊の極みにあったビザンティンは事実上崩壊状態にあり、帝国は大した抵抗を受けることもなくギリシャ各地を陥落させていった。
予想外のもろさ
1255年6月26日 ビデンティン帝国は降伏し、十字軍はカトリック勢力の勝利に終わった。 勲功第一位のシャルルは教皇よりマケドニア王位を授けられ、コンスタンティノープルは西ローマ帝国の領土に編入される事になった。
十字軍は美味しい
獲得した新領土
1255年7月4日 シャルルは新領土の封建を行った。 アカイア大司教にデブルモン家出身のエヴラール・デブルモン アテネ公にノルマンディー公家傍流のヴァルラン・カペー アドリアノープル公にドイツの下級貴族出身のディエトヴィン・フォン・ホーエンツォレルン テッサロニキ公に次期元帥候補のラグナール・ユングリング そしてトラキア公位は皇帝が兼務し、コンスタンティノープルは皇帝直轄領とされた。
聖職者のエヴラールと広義の皇族であるヴァルランの叙爵は旧来のカペーらしい人事といえるが、ディエトヴィンとラグナールの叙爵は貴族層に物議をかもした。 ホーエンツォレルン家はシュヴァーベン地方発祥の城主家系でディエドヴィンはその次男である。 受け継ぐ領地のない彼はその軍才を買われて諸国の宮廷を渡り歩いた後、ルイ1世治世末にパリに招聘されていた。 軍才だけでなく財務にも長けた彼は元帥も家令も務まるだけの能力を持っていたが、いずれの面でも常に二番手にあり終生入閣は叶わなかった。 此度の叙爵は十字軍での勲功もあるが、それよりむしろ長年の労に報いた、いわば永年勤続表彰のような意味合いであった。 ラグナールは将来の元帥であるが、カペー朝においては顧問の叙爵は原則として男爵までであり、ハンガリー十字軍の戦功によりノーサンバーランド公に叙された元帥スタニスラフが唯一の例外となっている。 ラグナールの叙爵は元帥候補だからというよりは、旧スウェーデン王家という家柄が考慮された面が大きい。
1256年4月9日 帝国はイベリア半島に残った唯一の独立勢力バリャドリド伯領に侵攻。 バリャドリド伯ボソン(前カスティーリャ王)は決死の抵抗を試みるも帝国の圧倒的な物量の前に敵うはずもなく、わずか3ヶ月で降伏を余儀なくされた。
1256年7月6日 帝国はスペインの統一を達成。 アンリ2世がスペイン統一を夢見てから146年の時が流れていた。
スペイン統一 予想外に時間がかかりました
1256年8月3日 皇太子ルイとスコットランド王女アンナベラの結婚が成立した。
1256年8月9日 コーンウォール女公デニエラが死去。家令アランが公位を継承した。
1257年4月15日 ポルトガル王ウスターシュが69才で逝去。長男ティボーが王位を継承した。
1258年2月12日 帝国はバイエルン女公エルメンガルドの従兄弟ジグハルトの継承権を主張し、神聖ローマ帝国に宣戦を布告した。 十字軍で延期されていたバイエルン継承戦争の勃発である。
飛び地ハンガリーと連結する為にはバイエルンの確保は不可欠である
大封バイエルンを喪失することになれば神聖ローマ帝国にとって致命的な痛手となる。 カール2世は諸侯に動員令をかけイタリア・ブルゴーニュ・フランドル各方面に逆侵攻を図るが、動員兵力に大きな開きがある以上それにも限界がある。 その上、帝国は常勝のスタニスラフ元帥以下優秀な将軍を数多く抱えていた。
エイセルスタインの戦い 兵力はほぼ同数ながら指揮官の質がまったく違う
1259年6月17日 カール2世は降伏し、バイエルン公領はローマ帝国に組み込まれた。
1259年12月3日 第二皇子アントワーヌとヘレフォード公女アンの婚約が成立した。 また翌月には第三皇子ゴーティエとストライモン伯女レオノールの婚約が成立している。 ヘレフォード公はイングランドの有力諸侯でストライモン伯は前カスティーリャ王ボソンの長男にあたる。 これは下の息子たちが将来与えられる王号に対応したものであり、つまりこの婚約によってアントワーヌのイングランド王位とゴーティエのカスティーリャ王位が内定した事を意味する。
1260年5月8日 そのアントワーヌに長男エラールが誕生した。 まだ結婚前であり相手は身分の低い女官である。 醜聞を恐れたアントワーヌはエラールを認知しなかったため、その子は私生児として女官のもとで育てられた。 のちにその境遇を憐れんだシャルルが自ら教育を施し、成長後は大臣として帝国に重きをなす事になる。
1261年3月19日 帝国はバルカン半島西南部のエピロス属州総督領に聖戦を布告した。 戦局の流れを説明する必要もあるまい。
エピロスの位置
1262年12月24日 聖戦は帝国の勝利に終わった。 エピロス公には下ロレーヌ公ランベルトの甥ヴァルラム・ヴェルダンが封ぜられた。 ヴェルダン家はかつて神聖ローマ皇帝を輩出したこともある名門である。
1262年10月28日 シチリア王アルナールが61歳で逝去。長女マルゲリートが王位を継承した。 アルナールはカペー家の婿養子だったため、ここにオートヴィル朝は幕を閉じカペー朝によるシチリア支配が始まる事となった。
1262年12月5日 神聖ローマ皇帝カール2世が77歳で崩御。孫のカール3世が12歳で帝位を継承した。 神聖ローマ帝国では幼帝が帝位を全うした例は数えるほどしか無い。 第一次ツェーリンゲン王朝も第二次ツェーリンゲン王朝も幼帝の即位が滅亡のきっかけであった。
神聖ローマ皇帝カール3世 第二次ザーリアー朝も同じ運命を辿るのだろうか
1262年12月14日 神聖ローマ帝国で最大の勢力を誇るドイツ王フリードリヒが王権法の改正を掲げ反乱を起こす。 ドイツはまたも混乱の時代を迎えることになった。
1264年12月14日 アッバース朝の《カリフ》バヒル2世が69歳で死去。長男バヒル3世がカリフに即位した。 セルジューク朝崩壊後の混乱に乗じて領土を拡大し、カリフ権の自立を勝ち取った英主であった。
1265年7月18日 元帥ノーサンバーランド公スタニスラフが83歳で他界した。 スタニスラフは1201年に19歳の若さで元帥に抜擢され、カペー家の覇業を軍事面で支え続けてきた。 1223年にはハンガリー十字軍でモンゴル軍団を殲滅し『モンゴル人殺し』の名で味方からも畏れられる存在となる。 その功績によって1224年には顧問としては異例のノーサンバーランド公に叙された彼は、帝国創建の元勲として宮廷に重きをなした。 元帥の在任期間は64年の長きに及んでおり、これは1232年に没した家令ウンベールの61年を超える歴代最長記録である。
同日、テッサロキニ公ラグナールが後任の元帥に任命された。 ラグナールが元帥候補としてパリに招聘されてから14年の歳月が流れている。
元帥テッサロニキ公ラグナール 戦闘マシーンとしかいいようがない
1266年11月11日 皇后バルバラが53歳で薨去。長男ルイがその遺領である上ロレーヌ公領を継承した。 翌月、シャルルはイタリア貴族のマリアと再婚している。
上ロレーヌ公ルイ 後のローマ皇帝ルイ2世 外交が高いのは相変わらずだが他がいまいち
1267年4月1日 ブルグント王ルイが55歳で逝去。長男シャルルが王位を継承した。 ルイはシャルルの次弟で、カペー家の次男坊の例に漏れず控えめで地味な人物であった。
1265年11月12日 帝国はメッサラノ男爵ゴッチョークのオーストリア公位請求権を主張し、神聖ローマ帝国に宣戦布告した。 神聖ローマ帝国は皇帝の代替わりに伴う政治的混乱が続いる。 他国の内乱を利用しての侵略もまたカペー家のお家芸である。
この戦役はスタニスラフ亡き後最初に行われたもので、ラグナールの総大将としての初陣を飾ったものである。
ブザンソンの戦い 敵は烏合の衆
ラグナールはかつて、師であるスタニスラフに戦いに勝つ秘訣を質問したことがあった。
「敵より多くの兵力を用意すること。それが出来ぬのなら戦うべきではない」
身も蓋もない回答に失望した覚えがあるが、それが真理であることは否定のしようがない。 ラグナールはその理論の忠実な実践者に成長していた。
1267年6月23日 神聖ローマ皇帝カール3世は降伏。 オーストリアは帝国に組み込まれた。 同日、シャルルはバイエルン王国の創設を宣言。ここにハンガリーの飛び地状態は解消された。
南ドイツに地歩を固めた
1267年10月31日 ハンガリーを失って以来雌伏の時を過ごしてきたフレグ・ウルスがアゼルバイジャンを征服。 国家としてのフレグ・ウルスが復活した。
フレグの子チュルゲテイ いつの間にかネストリウス派に改宗している
1267年7月11日 この日、イル・ド・フランス地方の大地が揺れた。 迷信深いこの時代である。人々は恐慌に陥っていた。 皇帝シャルルは自ら被害状況の視察に出向き、現地の役人たちに復旧を急ぐよう指示を下した。
「陛下、住民の代表がお目通りを求めております」
やってきたのは恐怖に震える貧相な農民である。 農民は畑の近くの地面に大きな裂け目ができているので調べてほしいと述べた。
地震イベント 興味深い選択肢もでてくるけどここは自重
そこはまるで地獄の入り口のような壮絶な光景だった。 裂け目から炎と硫黄が噴き出し周辺の大地を焼き焦がしている。 炎を噴き上げる裂け目からは、泣き声、悲鳴、助けを求める叫びが聞こえてくるようだった。
「終末の日がやってきたんだ!」
農民たちは口々に叫び、跪き、神に慈悲を乞うた。 兵士たちも動揺している。 シャルルも少なからず動揺していたが、パニックによる秩序崩壊は避けねばならない。
「うろたえるな!終末はまだ先だ!みよ!太陽は輝き続け星も堕ちてこないではないか!」
「し、しかし穴の底から聞こえるこの叫び声はどう説明できますか!?」
「サタンの創りだした幻覚だ!恐怖は人々の正常心を奪う。そこにつけこみ悪の道へ誘いこむ手口に違いない!」
シャルルはサン・ドニ司祭ベルナールを呼び寄せると、悪魔祓いの祈祷を命じた。 ベルナールはラテン語の長大な祈祷文を朗読した後、聖水を振りかけながら「サタンよ去れ!」と三度唱えた。
翌日には噴煙は止まり悲鳴らしき声も聞こえなくなっていた。 たまたま鎮火しただけなのかもしれないが、同時代の人々がこれを悪魔祓いの成果だと考えたのは当然の成り行きである。 人々は地獄の門を塞いだ皇帝と教会を讃えたが、シャルルの心には不安が残り続けていた。
シャルルは考えていた。 あの地獄の門は神の怒りの表れではないのか。 皇帝である自分に落ち度があるのではないか。
悪魔祓いの数日後、宮廷司祭長を兼務する教皇ドヌスがパリにやってきた。
「神は教会の分裂を解消せよと仰せなのでしょう。地面が割れたのはまさにその啓示かと」
「コンスタンティノープルとその周辺の改宗事業は今も進行中じゃ」
「しかし異端の総本山は今も居座っております」
全地総主教。 厳密にはコンスタンティノープル総主教と称するべきであるが、その格式と政治力から正教会の総本山として自他共に認められる存在である。 ビザンティン帝国の宗教上の最高指導者であり、皇帝がイスラムに改宗した後もそれに服する事なく民衆の崇敬を集め続けている。 コンスタンティノープルがカトリックの手に落ちてからもアヤ・ソフィア寺院周辺区域は事実上の独立国として存続していた。 それを廃せよと神は仰せなのだ。
「神、仰せのとおりに」
シャルルは決断した。
全地総主教セオドロス 最後の総主教は宦官であった
1267年12月3日 シャルルは教会統一を掲げ総主教に宣戦を布告した。 もっとも、総主教の支配領域はコンスタンティノープルの一区域に過ぎず、これは戦争というより一方的な捕縛作業といった方がいい。 それでも総主教セオドロスは5000の軍勢を揃え決死の防衛を試み、帝国軍を二度にわたり撃退する。 しかしそれも、破滅を半年先延ばしするだけでしかなかった。
1268年6月2日 総主教庁は陥落した。
正教会の没落
シャルルは征服したアヤ・ソフィア寺院とその周辺区域を教皇庁に寄進し以後教皇の直轄領とする事が定められた。 国外追放されたセオドロスはなおも全地総主教の称号を保持しつづけるが、それはあくまでも一宗教者としての立場に留まる。
皇帝と教皇がともにローマ帝国を統治する体制がまた一歩前進したのである。
皇帝シャルル1世の治世・後編へAAR/王朝序曲/皇帝シャルル1世の治世・後編