AAR/王朝序曲

ルイ7世の治世

フランスの現状

父はフランス王ルイ6世、母はトスカナ女公アデリンデ 王妃ブルンヒルデは上ブルゴーニュ女公である。 ルイ7世は父王の「大ルイ」に対して「小ルイ」と呼ばれることが多い。 この父子は名前だけでなく能力や性格もよく似ており、政治的方向性もほぼ一貫していた事が理由であろう。 政治的方向性とは何か。 それは勿論ローマ帝国の再興である。

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フランス王ルイ7世 外交値は饗宴効果で一時的にブーストされている

ルイ7世の即位時点でフランスはイングランド、北イタリア、スペインの大部分を版図に収めている。 軍事的にも経済的にも世界最強国である。

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皇帝戴冠まであと一歩

ルイはトスカナ公時代の顧問団を総辞職させ、父王次代のフランス顧問団を引き継いでいる。

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1211年2月時点の顧問団

大臣ナヴァラ公エルメネヒルドはガリシア王家出身。 傲慢で野心的で狭量なところがあるが政治家としては極めて有能な男である。

元帥ジャルゴー男爵スタニスラフはロシアの伯爵家出身。 寡黙で不器用な男だが指揮官としての実力は申し分ない。

家令ランカスター公ウンベールは旧ブルゴーニュ公家の嫡流である。 祖父王フィリップ2世の婿養子としてカペー王家の一門に名を連ねている。

密偵長バボーム男爵テカは旧ヌビア王家の血を引く黒人である。 物腰は柔らかいが本性は野心的で権力志向が強い男である。

宮廷司祭長カンタベリー大司教フレデリックはフランス史上初めてフランク人以外から選ばれた宮廷司祭長である。 学者肌で荒事を嫌うが異教徒には容赦無い男である。

イタリア情勢

1211年2月10日 ルイは慣例に従って3人の弟に公爵位を授け、次弟エドゥアールをエルサレム公、三弟ウスターシュをベハ公、末弟ロタールをレオン公に封じた。 カペー家では次男は母の遺領を与えられる例が多く、それに倣うならエドゥアールはトスカナ公位を授けられるべきであるが、あえてそうしなかったのには理由がある。 それは帝国再興後を見据えた政略である。 ルイ7世が近い将来皇帝に戴冠する事は既にこの時点で確実視されており、そうなれば北イタリアはイル・ド・フランスと並ぶ帝国の中枢となる。 将来の皇帝直轄領を手放すわけにはいかないのだ。 また、弟たちへの所領分配は将来授けられるべき王号に対応している。 即ち、エドゥアールはエルサレム王、ウスターシュはポルトガル王、ロタールはレオン王である。

しかしそれも皇帝になれたらの話だ。 教皇にローマ皇帝位を認めさせるには北イタリアを掌握する必要がある。 (ゲーム的にはあと2プロビ必要)

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1211年のイタリア情勢

フランスはトスカナ、ジェノヴァ、ミラノ、ピエモンテを支配し北イタリアの覇権を握ってはいるが、ヴェローナ、フェラーラの両公国はいまだ神聖ローマ帝国に属している。 イタリアの四大海洋共和国のうちジェノヴァ、アマルフィは大国に併合され消滅。ヴェネツィアは本国をビザンティンに奪われており、唯一ピサ共和国だけは健在で繁栄を謳歌している。 アンコーナ共和国は神聖ローマ帝国の宗主権下にあったが、今は独立を求め帝国と交戦状態にある。

ルイが目をつけたのはヴェローナ公領である。 現当主オルデリヒには男子後継者が長男エッゾしかおらず、エッゾに万一の事があれば長女ベルタが継承者となる。 オルデリヒの甥にあたる下ロレーヌ公子ランベルトはヴェローナへの請求権を持っており、現在パリの宮廷に滞在している。

「ベルタにヴェローナを継承させ、しかるのちにランベルトの請求権を行使するのが一番手っ取り早い方法でしょう」

ルイの承認を得た密偵長テカは公子エッゾを暗殺すべくヴェローナ宮廷に工作員を派遣した。

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あまり人望がないようだ

テカの計画を知り不快感を抱いたのは大臣エルメネヒルドである。

「暗殺などで陛下の手を汚す必要はございません!私めにお任せくださればもっと紳士的な方法でイタリアを得る事ができます!」

「ふむ。では大臣にはフェラーラ方面の調略を任せる」

ルイの承認を得たエルメネヒルドはラヴェンナ・ボローニャの請求権捏造に取り組むべく工作員を派遣した。

密偵長テカの暗躍

1211年11月3日 ヘレフォード公ユースタスの陰謀が発覚。 ユースタスは即座に逮捕された。

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イングランドを手に入れるつもりだったらしい

テカが密偵長に就任してから陰謀の摘発による貴族の逮捕は大幅に増加し、監獄には46人もの囚人が収容されていた。 彼は説得という手法を一切とらない。 王国中に密偵網を張り巡らし危険分子を取り締まるそのやり方は後世の秘密警察を思わせるものがあった。

「密偵長の評判がよくないようですな」

この日、定例の財務報告を終えた家令ウンベールは唐突にテカの話を持ち出した。 ウンベールはかつて陰謀の嫌疑をかけられた事がある。 王家の婚族でなければ今頃は監獄で死んでいただろう。

「テカはよくやってくれている」

「しかし説得もなくいきなり投獄とはいささか乱暴なやり方です」

「秩序を保つためにはああいう男も必要なのだよ」

最終決定権が王にある以上、テカの強引な手法もルイの承認を得ての行動である。 ルイからすれば貴族たちの憎悪を一身に引き受けてくれるテカは便利な存在なのだ。

「しかし密偵長にはよからぬ噂があります。陛下はご存知かもしれませんが…」

テカが同性愛者である事は公然の秘密である。 勿論ルイもそれは知っている。 教会は良い顔をしないだろうが他人の性癖など知ったことではない。

1213年3月6日 参内した密偵長テカはヴェローナ公子エッゾの事故死を報告。 続いてヴェローナ公オルデリヒ暗殺計画の承認を求めた。 ルイはこれを承認すると、テカに「噂」について聞いてみた。

「変わった趣味をお持ちのようだな」

「そうでしょうか?ギリシャやアラブでは王侯の嗜みとしてごく一般的ですが」

「つまり否定はしないわけだな。まあ、それは別に構わんが、その…そんなにいいものなのか?」

「相手によりますな。私は色白の美少年が好みですが筋骨隆々の偉丈夫を好む者もおりますし、男女の関係同様相性もあります」

「よくわからんな。余は色ごとには興味がないし趣味らしきものもない。ただ王として神に与えられた責務を果たすだけだ」

「それが成功する秘訣ですか?」

「成功?何を言っておる。余はたまたま王家に生まれたから今の地位にいる。余が成功するかどうかは神のご加護と卿らの働き次第であろう」

「私も王家の血を引いております。帝国再興のあかつきにはより高い地位を賜りたいものですな」

これがこの男の本性なのだろうか。 ルイはこのとき初めて、この黒人に嫌悪感を抱いた。

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実はいやな奴だったようだ

余談になるが、ルイは決して貞節なわけではない。 この時点で2男2女に恵まれている上に、次女の母親は王妃ではないのだ。

再興の時代

1210年代は「再興の時代」と呼ばれる。 過去に滅んだ王朝や体制の復活が相次いだ事からそう呼ばれるのだが、その端緒となったのはトルコである。

1211年10月27日 トルコの君侯たちはセルジューク家のベルカンを擁しクーデターを決行。 《スルタン》スレイマンは退位しヴェイズラ王朝は3代53年の歴史に幕を閉じた。

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後セルジューク朝《スルタン》ベルカン 

エジプトではチュニス首長アゲラルが廃帝タニアルを擁しファーティマ朝再興を掲げる派閥を結成。 急速に支持者を拡大しつつあった。

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ダニアルはファーティマ朝最後のカリフ

アゲラルはかつてファーティマ朝の宰相としてポルトガル遠征を指揮した男である。 遠征が無残な失敗に終わり失脚していたがその野心は衰えていなかったようだ。 

ドイツでは1210年に誕生したバーベンベルク朝は政権基盤が弱く、ザクセン公ヴェンツェルの帝位への挑戦を受け内乱状態にある。 ヴェンツェルは旧ザーリアー王朝の末裔でザクセン・フランケン・ケルン・フェラーラの公を兼ねるドイツ最大の諸侯である。 またザーリアー家だけでなくツェーリンゲン家を支持する勢力も健在で、今はホラント公となっている廃帝レオポルトが成長するまで雌伏の時を過ごしている。

1214年1月4日 ルイはアキテーヌ王位を創設した。 かつて祖父フィリップ2世も検討した事があったが、その時は密偵長ライナウの反対で取りやめている。 しかし今となってはアキテーヌ王国は遠い過去の記憶となっており、その王位は統治権を伴わない名誉称号的なものになっていた。

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一種の名誉称号

方針転換

1214年4月14日 ルイは下ロレーヌ公子ランベルトをボンデーノ男爵に叙し封建主従関係を結んだ。 ヴェローナ公オルデリヒが不審死し長女ベルタが公領を継承したら、彼を擁して侵攻を開始する計画であった。 しかしこの計画はあっけなく瓦解する。

1214年9月19日 ランベルトは下ロレーヌ公位を継承。 計画が無駄になったのみならず、彼に与えたボンデーノ男爵領まで神聖ローマ帝国に渡る事になってしまった。

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下ロレーヌ公ランベルト 父親はチューリンゲン王朝を打倒し4年間帝位にあった廃帝ヴァルラム

テカの計画が失敗したことを一番喜んだのは大臣エルメネヒルドであろう。 さっそく参内しルイの前でひとしきりテカをこき下ろした後、ある噂話を披露した。 東方に英雄が現れ周辺の異教徒たちを征服している。いずれはヨーロッパにも押し寄せてくるのではないか、と。 ルイは多少の興味はしめしたが、さしあたって重要な脅威ではない。 今はイタリアの確保が最優先課題である。

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そろそろ来るのか

エルメネヒルドが退出したあと、入れ替わりに宮廷司祭長フレデリックが訪ねてきた。 コルシカ司教ルドルフはかねてよりサルディニア島北部アルボレアの領有権を主張していたが、最近それを証明する古文書が発見されたというのだ。 捏造されたものであろうが、真偽はこのさい問題ではない。

「司教ルドルフは陛下の助力を願い出ております」

ルイは決断した。

ピサ共和国

ピサは元々はローマ帝国の軍港であったが、帝国が衰退した後も商業港として発展を続け11世紀にはイタリアの四大海洋共和国の1つに数えられるようになっていた。 1215年現在、ジェノヴァ、アマルフィは消滅しヴェネツィアも半島から閉めだされていたため、ピサは地中海貿易をほぼ独占している。

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地中海の覇者ピサ共和国

また貿易立国であるピサはアラブやペルシャとの交流も盛んで、異民族間の通婚も多く混血化が進行していた。

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ピサ共和国統領コジモ・カエターニ 婦人は黒人、後継者はトルコ人の容貌をしている

1215年5月8日 ルイはコルシカ司教のアルボレア領有権を主張しピサ共和国に宣戦を布告した。

元帥スタニスラフ率いる常備軍はリグリア海からピサに上陸。 共和国の傭兵部隊を粉砕し共和国側の諸都市を次々と陥落させていく。

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ピサを蹂躙するフランス常備軍

1216年12月16日 首都を失陥したピサ共和国はフランスに降伏。 アルボレアはコルシカ司教の支配下に入った。 同日、ルイはサルディニア大司教領を創設し、コルシカ司教ルドルフがこれを兼務することになった。

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海戦がなければ海洋共和国など怖くない

1216年12月19日 ルイはイタリア王国を創設。これでイタリアの正統な支配者となったのである。 大臣エルメネヒルドはローマに特使を派遣し、将来の戴冠に向けた教皇庁との交渉を開始した。

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ローマ皇帝まであと1プロビ

続・再興の時代

1213年9月30日 ザクセン公ヴェンツェルは降伏し神聖ローマ帝国の内乱は収束した。 ただし帝国の王権法では諸侯の封土剥奪は禁じられているため、ヴェンツェルは広大な所領を保持したまま虜囚として過ごすことになった。 皇帝アマデウスは脆弱な権力基盤を強化すべく外征に力を入れることになる。

1214年5月18日 帝国はヴュルツブルクの領有権を主張しボヘミア王国に宣戦布告。 翌年にはボヘミア王は降伏しヴュルツブルクは帝国領となった。

1217年2月12日 帝国はラウジッツの領有権を主張し大ポーランド公国に宣戦布告。 これにも勝利しラウジッツを併合した。

これら外征の成功で名声を得たアマデウス帝は失墜した王権の強化に邁進していく。

1217年10月30日 ホラント公レオポルトが成人した。 4歳で帝位を追われたツェーリンゲン朝最後の皇帝である。

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ホラント公レオポルト 廃帝は野心家に成長していた

ツェーリンゲン家の支持者たちはレオポルトのもとに参集し反乱の機会を伺っている。 しかし事態は意外な展開を辿ることになった。

1218年12月6日 皇帝アマデウスは39歳で崩御。 子供も兄弟もいなかったため、遠縁のプラハ伯フランツが帝位を継承する事になった。 フランツは廃帝レオポルトの早世した長兄の孫、つまりジークフリート帝の嫡流にあたる人物である。

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皇帝フランツ 棚ぼた的に帝位に就きツェーリンゲン王朝を再興させた凡庸な皇帝

レオポルトの野望の矛先は同族のフランツに向けられることになった。

同じころエジプトでも再興の動きが起こっていた。

1216年1月5日 ムンチェレン王朝の創始者ヤッシルが崩御。 長男アシュラフが《カリフ》を継承した。

ファーティマ朝最後の《カリフ》ダニアルは1215年に病死していたが、ファーティマ朝再興運動は継続されていた。 1215年、チュニス首長アゲラルらファーティマ朝支持者はシジルマサ太守ラフィクを擁し一斉蜂起。 カリスマを失ったムンチェレン王朝はあっけなく瓦解した。

1217年11月8日 アシュラフは退位しムンチェレン王朝は崩壊。 ファーティマ朝が10年ぶりの復活を果たした。

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後ファーティマ朝《カリフ》ラフィク

こうして短期間の間に3つの王朝が復活したが、あと1つ、最も重要なものが残っている。 ローマ帝国の再興である。

皇帝戴冠

1217年5月15日 参内した大臣エルメネヒルドはラテン語で書かれた古文書を恭しく提示した。 カペー家がラヴェンナとボローニャの正統な支配者である事を証明する資料が発見されたのだ。 両伯領は神聖ローマ帝国に属している為、帝国との開戦は不可避である。 しかし今のフランスにとって神聖ローマ帝国など取るに足らない相手である。

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ラヴェンナとボローニャ 伯は同一人物が兼任している

1217年6月9日 ルイは帝国に宣戦布告。 全土に動員令を発し20万の大軍でドイツを蹂躙した。

イタリアも勿論戦場になったが、主戦場はあくまでもドイツ、それもブラバント方面である。

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ブレダの戦い この規模の大軍がドイツ各地を蹂躙してまわっている

ドイツでは戦争中に皇帝アマデウスが崩御し王朝が交代するなど政情は不安定で、またハンガリー情勢(次章で説明する)の激変もあったため早期の和平を模索するようになっていた。

1219年9月9日 神聖ローマ帝国は降伏しラヴェンナ・ボローニャはルイ7世の統治下に入った。

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条件は整った

1219年12月25日 フランス王ルイ7世はローマのサン・ピエトロ大聖堂において教皇マルティヌス2世から帝冠を授かった。 神聖ローマ帝国の権威が地に落ちた今、シャルルマーニュの衣鉢を継ぎカトリック世界を守護する実力を持つものはフランス王を除いて存在しない。 大臣エルメネヒルドが水面下で根回しを進めていた事もあり、ルイの戴冠はなんの支障もなくとり行われた。

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西ローマ帝国再興 

「気高きルイ、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳!」

帝国の再興に歓喜したローマ市民は新帝を讃えたが、ルイにとってローマはセレモニーの場所でしか無い。 ルイの本質はあくまでもフランス王であり、ローマ帝国の帝都はパリでなくてはならないのだ。

尤も、ルイの戴冠は本人の意思に関わりなくカペー王家の性質を根本から変えていくことになる。 これ以降、カペー家はカトリック世界の盟主としての役割を否が応でも引き受けざる負えなくなっていくのである。

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ルイの戴冠直後の西ローマ帝国

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