九英雄(または九偉人)という言葉がある。 中世ヨーロッパで騎士道を体現する偉人とされてきた九人の英雄を指す言葉である。 即ちヘクトール、アレクサンドロス大王、カエサル、ヨシュア、ダビデ王、ユダ・マカバイ、アーサー王、シャルルマーニュ、そしてエルサレムを解放したフィリップ1世である。 異教時代から3人、旧約時代から3人、そしてキリスト教徒から3人である。 王権の高揚を図るカペー家は吟遊詩人などを通してこの伝説を積極的に流布していく。 その結果フィリップ1世は聖王と讃えられ理想のキリスト教君主とみなされるようになっていった。 現実のフィリップ1世は列聖などされていないし、むしろ粛清を繰り返した暴君であったのだが、こういった負の側面は次第に忘れ去られていった。 カペー家は神に選ばれた聖なる一族である、とするフランスの王権イデオロギーが作られるのもこの時代である。 (史実で九英雄という表現が生まれたのは14世紀で最後の一人はフィリップではなくゴドフロワ・ド・ブイヨン)
即位に伴う一連の儀式を終えた後、ルイは顧問団を私室に招いた。 ルイの傍らにはシャンパーニュ大司教アルノーもいる。
「余は皇帝になる」
ルイの言葉に顧問団は驚愕した。 アルノーに驚いた様子がないのは先に聞かされていたからだろう。 いや、むしろ発案したのはアルノーの方かもしれない。
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シャンパーニュ大司教アルノー 若くしてフランス宗教界の頂点に立った野心的な俊才
『王はその王国において皇帝である』という有名な言葉がある。 これはフランス王権がドイツの皇帝権に従属しない対等な存在であることを表明したものである。 しかしそれでも、王と皇帝の間には厳然とした差があった。 王が王を従えることは出来ないが、皇帝は違う。 現実的にはドイツの地方王権に過ぎないにしても、やはり皇帝は教皇とならぶ楕円の中心なのだ。
「フランス皇帝を称されるのですか?」
密偵長ライナウの問いにルイは「否」と答えた。 かつてフェルナンド1世がヒスパニア皇帝を称した前例はあるものの、それはあくまでも自称であってカトリック世界全体に受け入れられたわけでは無い。 中世ヨーロッパにおいて、皇帝とはローマ皇帝以外にありえない。
「神聖ローマ皇帝に立候補されるのですか?」
大臣ギラナナームの一見間の抜けた意見も帝国の現状から見れば不可能なものではないだろう。
「あんなものはローマ帝国ではない。ドイツ人どもが勝手に名乗っているだけだ」
「イタリア…ですか」
家令ウンベールの発言にルイは大きく頷いた。
「イタリアを制した者にこそ真のローマ皇帝を名乗る資格がある。イタリアの混乱を収め帝国を再興することこそ、我らカペー家の使命であると考える。これは神意である」
王が神意を口にする事に宮廷司祭長ティボーは違和感を感じたが、おそらく大司教アルノーにそう吹き込まれたのだろう。 アルノーの動機がなんであれ、ローマ帝国再興そのものに反対する者は顧問団には一人もいなかった。 ただし政策には優先順位というものがある。 今はアンリ2世以来の国策レコンキスタを完遂させることが最優先である。
1182年1月4日 フランスはイベリアに残った最後のイスラム勢力マヨルカ首長国に聖戦を布告。 モーリタニアは既にシーア派のファーティマ朝に征服されており、マヨルカに救いの手を差し伸べるスンニ派勢力は存在しなかった。
1182年8月21日 マヨルカ首長ラフは降伏。718年のペラヨの反乱に始まるレコンキスタはあっけなく終わりを告げた。 翌日、ノルマンディー公家傍流のヴァルラン・カペーがマヨルカ公に叙せられた。
史実より310年も早く終わった
1181年5月24日 長女フランチェサとスウェーデンの王弟エムンドの結婚が成立した。 エムンドはルイと同じ46歳であり、父娘ほども歳の離れたカップルである。 フランチェサはルイがイングランド時代に手を付けた女官の娘だが、政治的理由からルイに認知されることなく庶民として育てられていた。 スウェーデン王族が私生児に求婚してきた理由は良くわからない。 王位継承の可能性が低いエムンドはこの歳まで部屋住みの独身であり、不憫に思った兄王トリルが強引に結婚させたともいわれている。 日陰の娘フランチェサはスウェーデンに旅立っていった。
長女フランチェサ ルイと対面することは生涯なかったと伝わる
1181年9月2日 元帥ジャルゴー男爵エチエンヌが62歳で死去。 後任の元帥にはナルボンヌ伯ウェズィアンが任命された。 彼は密偵長ライナウの旧主ジェルジの息子である。
元帥ナルボンヌ伯ウェズィアン
なお、ジャルゴー男爵領を継承したマリーは2年後に他界。 後継者は無く男爵領は王領に組み込まれることになった。
1183年2月27日 王弟アキテーヌ公アンリが36歳で死去。10歳の長男フィリップが公領を継承した。 ルイとアンリは12歳も離れていたが、兄弟の仲は良く王はその死を深く悲しんだと伝わる。
1182年4月20日のノーザンプトン伯エドバートの乱を皮切りにイングランドでは反乱が相次ぐようになる。 1182年6月5日にベッドフォード伯エルドムンドの乱。 1183年8月1日にサマセットで農民反乱。 しかし最も規模が大きなものはカンタベリー公オズルフの反乱である。
1183年1月14日 オズルフはイングランド王位請求権を掲げて挙兵。 コーンウォール公リオク、ヘレフォード公ウィトレドも呼応しイングラドは一時騒然となる。
大軍を投入して速やかに鎮圧する
一連の反乱は1年ほどで鎮圧された。 ノーザンプトン伯領は剥奪され父王フィリップ2世の後妻ベトリクスの夫レオンに与えられた。 ベッドフォード伯領は剥奪され司教領となった。 サマセットの反乱指導者エルフガルは処刑された。 カンタベリー公は全ての領地・財産を剥奪され追放となった。 呼応したコーンウォール公とヘレフォード公は処罰を免れたが、これ以降イングランド諸侯はルイから警戒の目で見られることになる。
1184年6月2日 ルイはカンタベリーの世俗統治権を大司教に委ねる事を表明。 カンタベリー大司教領が誕生した。
カンタベリー大司教ジルベール 凡庸な人物である
イスラム勢力が駆逐されたイベリアに待っていたのはフランスとヒメノ家諸王国の覇権争いであった。 1183年時点でヒメノ家は3つに分裂しており、中でもカスティーリャ・レオン王ガルシア4世はその最大勢力として君臨している。
カスティーリャ・レオン王ガルシア4世 南進を阻む最大の障害
ガルシアの同名の祖父ガルシア2世はアラゴン王位も保持していたが今はフランス王家に奪われている。 そのアラゴン地方には未だフランスに従属しない諸侯がおり、その帰属は両国の感心事になっていた。
1183年4月13日 フランスはアンバラシン伯領の支配権を求めてカスティーリャに宣戦を布告した。 これはアラゴン公ジギスムントの保持する慣習的権利に基づいたものである。
ヘリンの戦い カスティーリャが2万を超える兵力を動員したのはこれが最後である
1185年6月7日 ガルシア4世は降伏しアンバラシンはフランスの主権下に入った。
イベリア半島掌握は着実に進展している
1184年5月27日 トスカナ公ヒューゴが死去。フランス王妃アデリンデがトスカナ公領を継承した。 トスカナは北イタリア最大の領邦であり、将来のカペー家にとって重要な地域になるはずである。
1185年5月16日 王妹エロディとビザンティン皇帝ダニエルの結婚が成立した。
1185年6月19日 スウェーデン王トリルが崩御。 2人の息子が父より先に他界していたため、王弟エムンドが王位を継承する事になった。
スウェーデン王エムンド ルイの長女フランチェサの夫
日陰の存在だったフランチェサは一躍スウェーデン王妃となった。 しかしこれが彼女の不幸の始まりでもあったのだ。
1185年6月28日 次男エドゥアールが誕生。 11年ぶりに誕生した男子であり、慣例に従うなら将来トスカナ公となるはずである。 翌年10月1日には三男ウスターシュも誕生している。
1186年10月3日 アキテーヌ公フィリップが14歳で死去。10歳の妹アリエノールが公領を継承した。
1186年11月11日 ブルターニュ公ゴドフロワが死去。長男のポワトゥ公ゴドフロワがブルターニュを継承した。 これにより2つの公領を治める大諸侯が誕生した。 これは1141年にガスコーニュ公ジェローが死去して以来、45年ぶりの事である。
ブルターニュ・ポワトゥの公ゴドフロワ 王国最大の諸侯
ゴドフロワの支配領域
ゴドフロワは自分が警戒されている事をよく理解しており、謀反の疑いを持たれないために人並み以上に忠勤に励んだという。
1157年にモーリタニアのムラービト朝が滅んで30年。 征服者ファーティマ朝による硬軟織り交ぜた政策は功を奏し、住民の大半がシーア派への改宗を果たしていた。 本国エジプトも安定しており、カリフの威光はこれまでにない程に高まっている。
ファーティマ朝《カリフ》ムーサ2世 退廃0ってあまり見ない気がする
1187年12月27日 カリフはポルトガルを異教徒の手から取り戻すべくジハードを布告。 イベリアは再び戦乱の時代に突入した。
イスラムの側からすればこれもレコンキスタ
ルイはこの聖戦に関心を持ってはいたがあえて介入するつもりは無かった。 同時期に発生していたブルターニュとネジブの農民反乱の鎮圧に専念したかったこともあるが、何よりもカスティーリャ・レオン王国が簡単に負けるとは思わなかったからである。 しかし、カスティーリャはルイの想像以上に弱体化していたのだ。
ポルトガル陥落
1189年7月20日 ガルシア4世は降伏した。
ポルトガルが異教徒の手に落ちたとの報はヨーロッパ中を震撼させた。 ここ100年ほど、カトリックが聖戦で領土を奪うことはあってもその逆は無かったのだ。
1189年8月18日 事態を重く見た教皇マルティヌス2世はすぐさま十字軍を布告し、ポルトガル奪還を呼びかけた。
十字軍発動 ポルトガル陥落からまだ1月も経っていない
ルイは即座に参戦を表明。 5万の大軍を動員し海路からポルトガルに雪崩れ込む。
異教徒と戦うフランス騎士
ファーティマ朝はポルトガルを征服した直後で兵も疲弊しており、カリフの家臣たちの大半は兵を帰郷させていた。 対して十字軍は万全の態勢でのぞんでおり、戦争はごく短期間で集結した。
1190年11月11日 カリフは降伏。 ルイは勲功第一位としてポルトガル王国を創設した。
ジハードに成功されてむしろラッキーでした
これでカペー家は6つ目の王国を手に入れた事になる。 しかしルイがこの程度で満足する事はなかった。
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