AAR/法王家の歴史

        作成中ネタバレ   内容変更は当然ありますので注意

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弓削道鏡

日本の正史に曰く、769年日本では、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に

対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとし失敗した年とされる。(宇佐八幡宮神託事件)

しかし、法王家(弓削道鏡を祖とする弓削家)の正史である弓削記では異なる事実が書かれている。

法王道鏡の弓削氏は物部氏の支流で、河内を地盤とする中堅豪族であり

道鏡の家はその中でも傍流に位置し、庶民との差はなかった。

若き日の道鏡は立身出世欲が強く、朝廷に出仕して出世したいと願っていた。しかし普通の方法では傍流の道鏡に出世の機会が無い事は明白であった。そこで仏教界ならば道鏡にも出世の機会があると考え

出家し、法相宗の大物である義淵、次いで東大寺創建僧、良弁に弟子入りした。

743年に道鏡は聖武天皇の愛娘である阿部内親王(25歳)、後の孝謙天皇(さらに後の称徳天皇)に出会い一目ぼれしたと記録されている。 道鏡は高貴な身分の彼女と唯一接する機会のある看病禅師(医学・薬学にも精通した僧)となった。 しかし、天は道鏡に機会を容易に与えず、762年まで待つ事になる。44歳になった孝謙上皇は遂に病となり道鏡が呼び出された。

道鏡は秘術をもって孝謙上皇の病を治し、同時に思いも遂げたと記録されている。

翌年763年、孝謙上皇は道鏡を少僧都(に任命し、出世街道を突き進むかに見えた。

しかし、思いを遂げた道鏡にはもう一つ別の夢があった。それは道鏡が憧れる伝説の人物、玄奘三蔵と同じく天竺に行くことである。

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玄奘三蔵に倣い、自分も天竺に行ってみたいという思いを抱いていた道鏡は孝謙上皇を説得し事を起こした。

道鏡は徐福のように3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え五穀の種を持って、西方に船出ししようとした。

しかし、いかに孝謙上皇の後ろ盾があるとはいえ3000人は不可能であり、実際は弟子の僧50名、100名の童男童女であった。

その後の称徳天皇は(孝謙上皇)は道鏡を忘れられず、

765年に道鏡を太政大臣禅師に追贈。766年には遂に法王の称号を追贈。

ますます道鏡への恋しさが募った称徳天皇は769年遂に神託が下ったと偽り、天皇位を贈位すると臣下に告げた。

しかし、これは天皇の臣下たちの陰謀により事実と異なる正史を残すこととなる、世に言う宇佐八幡宮神託事件である。

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道鏡はと言うと、平城京を出発し下の図の経路で天竺に向った。

5年の月日をかけてナーランダに到着した。玄奘三蔵は630年ころヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け

5年間、ナーランダ僧院で修学したとされる。しかし、北インドを統一した文武両面に秀でた名君である王ハルシャ・ヴァルダナ

が築いたヴァルダナ朝は既に無く、その首都は今やヒンドゥー教徒の王Vajarayudhaが支配していた。

幸いナーランダ僧院はヒンドゥー教徒の王Vajarayudhaが支配する国境に位置し、いまや仏教の唯一の王Dharmapalaの支配下にあった。


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