ベンガル地方。気温が高く大量の雨が降る地域である。
その地方の中にある世界有数の都市ダッカ、その郊外に一人の老人が住んでいた。
老人の日常はぷかぷかと煙管をふかしながら庭から外を眺めることか、家で本にうもれているかのどちらかであった。
今日もぷかぷかと煙管をふかして外を眺めていると、子供たちがボールを蹴って戯れているのが見えた。
そして、目を凝らしてみると、遊んでいる子供たちの中に老人の見知っている子供が交ざっていた。
「むっ、またあやつは外に抜け出しおったか」
その言葉自体は咎めるそれであったが、声は優しくうれしそうであった。
「げっ、なぜここに!?」
(後で言葉遣いについても教えなくてはな)
そう心の中で思いながら、授業を抜け出した子供を引き連れて自宅に戻った。
老人は決めつけるのも悪いと考え、一応理由を訊いてみることにした。
「今日も授業を抜け出してきたのか。どうしてだ」
「だって、一限目は歴史だよ、歴史。あんなの学んでも仕方ないじゃん」
子供は歴史を学ぶ不要さを冗長に語ってみせた。老人は一通りそれを聞いて嘆息しながらあることを決意した。
「それはお前が真面目に学んでないだけじゃ。どれ儂が教えてやろう」
子供の顔には苦々しいものが浮かんでいた。
ベンガル地方の王朝、pala朝の12代目Vigrahapala三世。BIHARとBENGALと二個の王位を持っている。また、外交に長けていたとされている。
1066年。pala朝の周りはヒンドゥー教を奉じる王国に囲まれていた。仏教の衰退は明らかであり、諸侯が次々とヒンドゥー教に改宗していた。
Vigrahapala三世自身、ヒンドゥー教に改宗を考えるほどに苦悩していたと伝えられている。
また、王国は分裂の危機にさらされていた。王には三人の息子がいたが、分割相続のままだと二個の王位が一個になる。
王権は最低の状態であり、継承法をUltimogeniture(末子相続制)にするためにも一つ上げなくてはならない。
1068年。Shrihatta(北にあるkamarupa王国のde jure)をめぐる戦争が勃発。
Vigrahapala三世はすぐに諸侯をまとめて防衛にあたった。
bhauma pala朝(kamarupa王国)のJayapala王がShrihattaの占領を行っていたところに、Vigrahapala三世が急襲した。
Jayapala王は3400と兵数では圧倒的に負けていたが、王自ら陣頭に立って戦ったことや兵の質が高かったことからVigrahapala三世の予想以上に奮戦した。
しかし、数の差は如何ともし難くJayapala王は負けてしまう。
一方、勝ったVigrahapala三世は負傷することなく凱旋することに成功し、諸侯からの評判も上がり、残っていたヒンドゥー教の諸侯も改宗させることに成功する。
Vigrahapala三世はこの戦いを機にKamarupanagaraを狙うことを決意したとされている。Kamarupanagaraは比較的豊かな地であることからここを奪えば、bhauma pala朝を弱らせることができるからだと考えられる。
pala朝の北方に位置するbhauma pala朝を今まで侮っていたが、これを改めて征伐を決めたと家臣の記録には残っている。
とはいっても、Vigrahapala三世は現実をよく見ていたとされている。家臣の記録からはbhauma pala朝への怒りが募っていると書かれていたが、それを我慢して国内の改革に着手していたのだ。
戦いから四年経ったころに、ついに改革は実を結ぶ。
1073年10月31日。継承法を全てUltimogeniture(末子相続制)に変更することに成功し、長年の治世によって諸侯からの評判も高くなっていた。
これによって分裂の危機は去ったと判断したVigrahapala三世は、万を持して北伐を開始することを決意する。
その開戦前に、指導者Dharmapalaを招いて意見を聞いたとされている。
Dharmapalaはただ一言、こう言ったと伝えられている。
「戦場において百万人に勝つよりも重要なことがある、それは唯だ自己に克つことだ。 自己にうち克つこと、つねに行いを謹んで自己をととのえる。 このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァも、悪魔も、梵天もなすことができない。 その者こそが真の勝者である」
Vigrahapala三世に戦の前に助言をしたと言われている。
Vigrahapala三世はその言葉を胸に刻み戦いに臨むことになる。
万を持してkamarupanagaraの領有権を主張して宣戦布告した。
bhauma pala朝は以前として武勇に優れる肥満王Jayapalaが率いている(前の戦の時に前線で出ていた)
彼が肥満王と言われていたが実際には肥っていなかったとされている。戦争時に馬に乗って指揮していたことからも、肥りすぎていたわけではない。
しかし、Vigrahapala三世は結局bhauma pala朝を侮っていたままだったのかもしれない。
54歳。1075年12月18日。Vigrahapala三世戦死。
決戦に勝利し勢いに乗って追撃をしかけた戦いで、敵から飛んできた矢がVigrahapala三世の首を射抜いたとされている。
あっけない最後である。Dharmapalaが言った通り、決戦に勝ったにも関らず慢心してしまったからであった。
王位は三男Ramapalaが1075年5月22日に死去していたことから、次男Surapalaに継がれることになる。
後継者を指定できるのに気が付いたのは後になってからです。またKarma(信仰)を集めて侵攻することができる。