時に1187年。 ここはフランス王国。
別に被写体の中心は神聖ローマ帝国であるが、そんなことは気にしない。
国王・Philippe II はある知らせを受けて愕然とした。 それはローマ教皇・Urban III が東ローマ皇帝・Isaakios II とルーム・セルジューク朝スルタン・Kilij Alsran II とアッバース朝カリフ・Al-Nasir とアイユーブ朝スルタン・Saladin を暗殺したというのだ。 確かに四人とも最近暗殺または変死していたが、これの手引きをしたのがローマ教皇であるという事に驚愕したのだ。
一方神聖ローマ皇帝・Friedrich はなぜかイングランド王の末っ子・John を抹殺しようとして暗殺者を8回も送ったが、死ななかった。
後教育係をジェノヴァから派遣してもらったり、デンマークと婚姻?を結んだりしたり、教育係を神聖ローマ帝国に派遣したりした。
その矢先だった。アッバース朝がジハードを宣言し、イェルサレム王国を攻撃し始めたのだ。 イェルサレム王国は救援を要求し、フィリップ2世はコビ売りの為救援に行く事にした。 2万人余の軍が王命により Archa 向けて出発した。行く方法?陸路です。 これについて諸侯は、「陸路?クソだな」と言ったとか言ってないとか。 さらに神聖ローマ帝国軍まで加わり、恐るべき勢力がパレスチナに向けて出発した。
一方ジハードはサラディンが死んだため小規模化し、Hashshashin朝なる国が出撃して、しかもイェルサレム王国に戦闘で敗北する始末。 さらにアイユーブ朝ではザンギー朝勢力が反乱を起こす始末。
コンスタンティノープルに軍団が到着したのは、一月だった。 そして目的地 Archa に軍団が到着し始めたのは、5月6日だった。即座に戦闘になった。 5月19日には最初の戦闘に勝利した。 その頃にはヒジャーズもアイユーブ朝に反乱を起こした。そしてザンギー朝勢力と合流した。なお、ヒジャーズが主導権を握ったもよう。 8月18日にはトゥールーズ伯以外の軍団は全て Archa に集結した。しかし、その時には軍団は1万3000人しかいなくなっていた。 フィリップはアッバース朝首都バスラに進軍する事を決定した。
ついにアッバース朝でも反乱が発生した。 1月20日にはバスラに到着した。軍団は8000人になっていた。 5月には最悪の事態が発生した。アイユーブ朝がジハードに参加し、さらにアイユーブ朝が反乱軍を押し始めた。 9月14日、ついにバスラは陥落した。 フィリップ2世は返し刀でクーファへ侵攻する事を決めた。 しかし、そんな時にフランス本土にて反乱が発生。フィリップは帰還する事にした。 12月19日から強行軍が始まった。しかし、ここに来て最早事態は収拾不可能となっていた。
1月1日、フィリップ2世は反乱軍の要求を全て承諾した。
(未完成)