先王アントニオの息子は死亡していたため、孫のベルナルドが王位を継承した。 ベルナルドは即位後直ちにシチリア王国を創設、アフリカ=シチリア連合王国を形成する。 アントニオの代にシチリア王国を建設することも可能だったが、継承法が即位後10年変更できないので高齢のため見送っていた。 これにより威信が一気に700まで増加、順調な滑り出しとなった。
12世紀の西欧はもっぱら神聖ローマ帝国・フランス王国連合VSイベリア半島のイスラム諸侯といった構図で争われた。 しかしスペインのイスラム諸侯がアッバード朝の下に統一され、あげくフランスが全面的に敗北。 フランス王国はフランデルとポルトガルのみを支配する弱小諸侯に成り下がり、神聖ローマ帝国は直接アッバード朝と対峙することとなった。 100年以上断続的に行われたスペインへ・フランスの出兵は諸侯に大きな負担となってのしかかり、政情不安が加速。 皇帝の権威は低下し、12世紀後半から数年毎に皇帝の首が挿げ替わる事態となった。 1195年には幼君のグントラム一世が何者かの手によって暗殺。 後を継いだオットー四世は反乱によって存命のうちに皇帝の座を引きずりおろされた。 1209年に替わって即位したマインハルト二世だが、同年南仏とイタリアを中心に12ヶ国が独立を求めて一斉に挙兵。 ヨーロッパはイスラムの波に呑まれようとしていた。
一方のアフリカ王国にとって神聖ローマ帝国の独立祭りはまたとない好機であった。 ベルナルドは帝国からの独立に成功したイタリア諸州に次々と宣戦。ピサ、スポレト、サルッゾ、ピオンビーノの4つの州にクレームを捏造し、併合。 1234年、帝国からイタリア諸州を奪ったことでイタリア建国に必要な16州を確保し、念願のイタリア王国を建設。
それまでベルナルドはアフリカ王ベルナルド一世を名乗っていたが、イタリア王即位の際イタリア王国史を辿ったところ、810年にベルナルドがイタリア王に即位していたことが判明。 そこでベルナルドはイタリア王ベルナルド二世を名乗り、アフリカ王としてはベルナルド一世、イタリア王としてはベルナルド二世というなんともわかりにくい呼び方をされた。
即位後にはイタリア内に残る独立諸侯にDe jureのクレームをひっさげ同時宣戦。 2年後の1236年にはパヴィア、クレモナ、ロンバルド州を王国に統合した。
ベルナルドはイタリア侵略と並行して、シチリアに残る教皇領の回収を行った。 まず停戦の切れる10年毎にシチリア王国のDe jureクレームを使い教皇に宣戦、州一つを奪取。 教皇から回収した州はもれなく司教領となっているので、対立教皇に頼み司教を破門。 更には破門された司教の投獄→釈放を繰り返し、反乱したところで司教領を没収。 最後に当地の男爵を暗殺して伯領に入れ替え、血縁の者に州を配分する。 こうして教会権力を排除するプロセスを繰り返し、ベルナルドはシチリア領の統治を磐石なものとしていった。 当然途中で何度か暗殺が発覚し、臣下の顰蹙を買っている。
1241年、ピサ公、サルディーニャ公、ヴェネヴェト公が独立を求めて反乱を起こす。 反乱自体は1年足らずのうちに鎮圧されるも、これが元でベルナルドは心労を患い、1244年の冬に死去。56歳であった。 ベルナルドは晩年大王を名乗り、後世では息子のベルナルド三世と区別するためそれぞれ大ベルナルド、小ベルナルドと呼ばれた。
東からキプチャク・ハン、イルハンが到来。キプチャクは旧ロシア領に帝国を形成 ファティマ朝エジプトがビザンツに侵攻、コンスタンティノープル陥落 アッバード朝がイベリア帝位を創設、神聖ローマの支配していたブルゴーニュ、プロバンスを併合 キリスト教世界は確実に崩壊へと歩を進めている