AAR/戦場は寝台の上に

SS添付中!お時間下さいませ

お詫び

後半は掛け合い方式は一切ありません 史書的記述(にしようとがんばったもの)です

あと脳内補完駄々漏れです そもそもの動機が所詮書きたくて書いた自己満AAR、ご笑納下さい 今回は普通のAARぽいです 後は滅ぶだけなのでseduce関係のイベントはありませぬ

リューゲン膺懲戦争

ワーツロゥは野戦には敗北したものの籠城戦に持ち込む事に成功、白紙講和を図る。 膠着する戦線に歯噛みするポメラニア公。 その時、ワーツロゥの下にメクレンブルク公からの書簡が届く。

デ・ジュール戦争の布告であった。

&ref(deju.jpg)

dejureが込み合ってるからHRE嫌い

dejukou.jpg メクレンブルク公アルブレヒト 二面性を持つ熱狂的な宗教家 若い世代の皇帝派筆頭

メクレンブルク公の参戦理由はリューゲンを慣習的領土として主張するものであったが、その実態は皇帝ルートヴィヒの指示による膺懲戦争であるとされている。 ルートヴィヒは愛娘マチルダへのリューゲン伯の接近を当初より看破していたようだ。 しかし陪臣への直接的制裁はポメラニア公の反感を買いかねず、協力的な諸侯に私戦を装った誅殺を命じていたのであろう。

empe.jpg 皇帝ルートヴィヒ そんなめでみないで

&ref(ikusa.jpg) メクレンブルク軍、約2000。 リューゲン軍はこの直後島へ逃走

&ref(tegara.jpg) ワーツロゥ捕縛の功を争い、両公爵が衝突。 片や妻の不貞という己の名誉、片や皇帝の機嫌が掛かっている。

11月5日、戦功争いを止めない両軍に業を煮やした皇帝はヘルレ公、リューネブルク伯に密使を飛ばす。

&ref(kou.jpg) ヘルレ公レイノード 皇帝への献身からではなく、帝国内での影響力確保の為兵を動かした

&ref(lune.jpg) リューネブルク伯オットー 貞節を尊ぶ「善きキリスト者」 のちリューゲン伯の異端審問を主張

kou army.jpg&ref(buka army.jpg) ヘルレ軍2500、リューネブルク軍1600 既に膺懲軍は5000を超えた

また、メクレンブルク公の封臣ヨハンも兵1000を率いて主人に加勢。 屠鶏牛刀を超えた大兵力を前にしてこれまで分を弁えぬ不遜さを見せていたワーツロゥも所詮は若干16歳、顔面蒼白であったという。

&ref(buka.jpg) ヴェアレ伯「兎唇の」ヨハン 為政者としての公正さとは裏腹に、私生活は欲に塗れていた

&ref(buka army.jpg) 1337年 AI伯爵も軽く四桁の兵を動かす

リューゲン攻略には半年を要し、多数の兵士が駐屯したメクレンブルク・ポメラニア両州の治安は急激に悪化した。 また、バルト海から北海に抜ける商船の停泊地であるリューゲンの包囲により、ハンザは一時的に機能不全に陥る。

&ref(hansa.jpg) ヘルレ軍はハンザの本拠リューベックに駐留、歓待を強要 怠惰で好色なレイノードらしい

最終的にリューゲンを占拠したのはボギスロゥであった。 彼はワーツロゥを皇帝に引き渡すようにという諸侯の忠告を無視し、彼を投獄する

&ref(impri.jpg) さて公爵がgreek文化じゃないことを祈るばかりだな ……腐刑はちょっとね

約半月の牢獄生活の後、ワーツロゥに処分が言い渡される。

&ref(fin.jpg) 「爵位剥奪の後、永牢!」

スコアは‐53 一年以内で終わったのは流石に初だわ

リューゲン伯ワーツロゥ、統治期間11か月と25日。 その後の彼については杳として知れず、生涯を獄中で暮らしたかさえ分からない。 またポメラニア公爵夫人との不義の子は、6歳の誕生日を迎えポメラニア公が後見人となったその夜、全身にナイフで刺されたような傷のできる奇病に掛かり突然死した。 廷臣であった愛人の子については、いかなる史料も残っていない。

一周目:リューゲン伯ワーツロゥ 統治期間:11ヵ月25日 恋人:四名 子供:二名(共に未出生のまま)

中々ストーリー性があったので落ちる所で締めました 二人目は独立伯故作業になってしまったので面白みが無いのですよね

脳内補完が上手く行ったら 「二週目 ゴットランド公にしてフィリキル、シグルドの生涯」も書くかもです


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