アラゴン王・神聖ローマ皇帝Lothar
妻Anna
元帥Poppo III世(前皇帝Poppo II世の長男)
帝位を継いだHeinrichは、
――1301年、皇帝の座についたAdalbertは弟Lotharにアラゴン王位を譲り、帝国の運営に邁進していた。
ねぇ、あなた。
何だい?急に。
あなた、アラゴン王に就けてもらったのよね。
ああ。皇帝の計らいでね。
おめでとうございます。
……何だ?不服そうだな。
そうよ、あなただけ、ずるいわ。
ずるい?
そうよ。私の父はルーシとルテニアの王、母の父はデンマークとポーランドの王だったの。
それで、何が言いたいんだい?
私も王になるの!そう皇帝にお願いしたわ。
はっはっは。女がそう簡単に王座に就けるものかね?
そうかしら?皇帝は言っていたわ。ポーランドでは王位を巡って内乱が起こっているそうよ。
!!
ええ、皇帝はそれに介入して下さるらしいわ。
皇帝Adalbertは弟Lotharの妻Annaの請求権を主張して、ポーランド内戦への参戦を宣言した。戦争の結果、Annaはポーランド女王として即位したのだったが、女王の即位に納得しない者も多かったという。これ以降、帝国はデンマーク=ポーランドへ介入する姿勢を強めていくこととなるのであった。
1317年、ポーランド女王Annaは63歳で死去し、次男のAdamがその跡を継いだ*1。この頃、Adamの父Lotharは神聖ローマ皇帝Heinrichの後継者としてその地位を確実なものとしており、父子によるポーランド王国、神聖ローマ皇帝の支配は将来の両国の統一を予感させるには充分だった。
ところが、1322年、海上十字軍の混乱を突いたデンマーク王Hansはポーランドに侵攻、再度ポーランドをその支配下に置くとともに、Lotharの息子Adamをデンマークのフュン島に封じたのだった。この処遇はAdamの父、皇帝Lotharから見れば一種の「島流し」のように映った。実際のところ、これは一種の誤解であり、Adamはポーランド王時代からフュン島を領有していたし、デンマーク王は実際にはAdamを重用していたのだったが、ポメラニアとの戦争に際してAdamがポメラニア王の捕虜に取られると、Lotharの怒りは頂点に達した。1324年に授福帝Heinrichが77歳の生涯を閉じると、Lotharがその跡を継ぎ、これにより神聖ローマ帝国とデンマーク王国の対立は決定的となった。帝位に就いたLotharは長女Idaの請求権を主張してデンマーク=ポーランドを攻撃し、瞬く間にポーランドを支配下に収めたのだった。
皇帝。ポーランドの獲得、おめでとうございます。
ありがとう。だが、まだ何も解決してはおらん。
何も……、ですか?
そうだ。わが息子Adamは未だポメラニアの牢獄に繋がれたままじゃ。不憫でならぬ。
その通りです。早急にポメラニアへの攻撃を準備せねば……。
駄目だ。左様なことをしてAdamが殺されたらどうするのだ?
それは……。
それに仮に首尾よくいったとして、Adamがフュン島に戻るのでは幽閉されたままも同然のことです。
……でしたら、デンマークを攻撃してはいかがでしょうか?
デンマークを?どういうことだ?
Adam様の主君はデンマーク王でしたね。
そういうことになっているな。不本意ながらね。
ですから、デンマーク王を打倒して、帝国の版図に加えてしまいましょう。
それでどうなるというのだ?
ポメラニアもまさか帝国に歯向かいたくはないでしょう。
開放がならなければポメラニアも攻めればよい訳か。
まぁ、そういうことです。
全軍に告げよ。我々はデンマークを攻略するとな。あの土地は我が子Hessoが領すことになろう。
すでにポメラニアとの戦争に疲弊していたデンマークは殆ど抵抗を示すこともなく、神聖ローマ帝国軍によるデンマークの占領はただ静かに進んでいった。戦争の結果、皇帝Lotharの三男、Hessoがデンマーク王に即位した。
デンマークの降伏から時を経ず、次男Adamは牢獄から救出され、ブランデンブルク*2を与えられた。