前回ラスト1322年、ついにわが領国狙い撃ちで始まったスンニ派ジハード。 これが怖かったから、せっせと境域拡大国力増強に勤めていたわけだが・・・
ルイージ1世30歳。「シニカル」や「憤怒」など特性が妙に増えていっている。 妻がいつの間にか伯爵になっているのにも注目。
開戦から一年近く様子を見てみたが、敵が来ない。 参戦している敵を見るに、王クラスはどこも様子見で、中小の公伯しか参加表明していないようだ。 スンニ派カリフのアッバース家はメソポタミアと遠いこともあり、敵は集結・編成に凄まじい時間を喰っているのだろう。 これなら皇帝軍にまかせっきりでも、急速に負けることは無いだろう、と判断。先にやれることを済ませておくことにする。
上SSのルイージが持つ請求権の数を見ていただきたい。何かせっせと偽造して作り溜めているのが見て取れると思う。 そう、アドリア海の女王ことヴェネチアがせっせと広げてきた、クロアチア南部あたりの彼奴等の領域全てに対し、我が王の請求権の捏造が完了したのである。
このころヴェネチアは、ラテン帝国領アテネ公領を狙い、傭兵10000以上を雇用した大作戦を展開しており、 その膨大な資金が徐々にショートしつつある頃合いだった。横から殴ってくださいと言ってくれているのだ、殴るしかあるまい。
死ね! Pless all Clames!
1324年5月Butrint、25年4月Sopotの二度の会戦でヴェネチア傭兵軍を壊滅に追い込んだ我が軍は、戦勝点50%余りで各地の占領に取り掛かる。
と、ある日突然戦勝点が100点になった。
城を落としたタイミングでもなく、野戦で勝利したわけでもないのに、 いきなり65%から100%にすっ飛んだのにはさすがに困惑、何事が起きたのかと思って見れば、
なんかドージェを捕まえてた。 どうも、元々70歳を過ぎていた先のドージェがこのタイミングで死去し、代替わりしたところ、その後継者を捕縛済みだった、ということのようだ。 こんなことあるんだなぁ、と笑いながら、要求を押し通し講和。
4領を一挙に奪い去り、ヴェネチアに致命傷に近いダメージを与えた。この後、ヴェネチアの軍事行動は一気に鳴りを潜めることになる。 これでまた封臣上限が溢れたため、今度はチュニジア公を作成。5スロットの直轄領チュニスを除いて公に管轄を移した。
可能な限り、モーリタニア王の後継選挙に関係ないところに、公爵領を作っていくつもりだ。
ヴェネチア戦を終えてひとしきりクールダウン。 北アフリカでうごめく軍隊の様子を見ていると、チュニジアで防衛線を敷いていた帝国軍が、小さな反乱に対処するために本国へと転進。 ジハード軍が目標であるモーリタニアへと乗り込んできた。
多いといえば多いが、油断なく各個撃破に努めれば、モーリタニア王国軍だけでも撃退できる程度の数に見える。 ヴェネチア戦に続いて王国総動員をかけ、15000の兵を結集、ついでにヒマしていたチュートン騎士団も加え、イスラム軍を迎撃に入る。
北アフリカで、1万に2万を叩き付けて破砕するような戦いを続けている28年には、 上ブルグンド女公と婚約させておいた長男ルジェーロが成人。 トレムセン公位・フェス伯位を譲り渡し、後継者であることを明らかにする。
次期国王ルジェーロ。誰が見ても親子だと分かるそっくりさん。 「社交的」かつ「公正」で管理15とまずまず。後は外交がもう少し伸ばせれば、というところ。
モーリタニア王の選挙権を持つのは、王自身とトレムセン公、それにアルジェ大司教の3名。 トレムセン公本人が自分に票を入れるのだから、負けるはずが無い八百長選挙である。
これで、ルジェーロの子供はトレムセン公位に加え、妻の上ブルグンド公、 さらに妻がいずれ継承するはずのスーザ・サルデーニャ両公位、合計4つの公位を継承することに。めでたいめでたい。
・・・と思ったらどっこい。
スーザ公ジョバンニ、46歳にして長男に恵まれる。
おうふざけんな、おめーの持ってる公位の継承に期待して、無能な女公と嫡男を結婚させたんやぞ。 長男誕生させるならうちの嫡男が正式に結婚する前にやっててくれりゃ、婚約破棄で済んだんやぞ。
・・・子供殺すか。
思考1秒。暗殺Plot開始。ギリギリ100%に届くか届かないかの瀬戸際のせめぎあいがこの後数年続くことになる。
迎えた30年、ようやくジハードの撃退が完了した。 敵の拠点が遥か彼方であるため、敵地に攻め入るのはさすがに恐ろしく、 野戦で溜まる戦勝点も微々たるものだったため、やたらと時間がかかってしまった。
キレナイカを奪取し、ヴェネチアに快勝し、ジハード撃退の主役を演じ、と戦勝を重ねたことから、 この頃、ルイージ1世は大王の名で知られるようになった。
この頃から、都市・城の整備をだいたい終えたこともあり、常備軍の拡充に予算を回したことから、 モーリタニア王単独で20000の兵を起こせるようになっている。
この兵力をもって、返す刀で東方へ侵攻・・・と行きたいところではあったが、
この頃、アイユーブ・ルームセルジュークのスンニ派両大国が婚姻同盟を締結。 両国の合計動員兵力は、傭兵も考えると最悪60000を超える。 これにはさすがに手を出せない。といって、他に攻撃できる相手がいるわけでもない。 どっちかの君主早く死ね、死んで同盟解消されろ、と願いながら時間を進めていった。
34年。皇帝がフランスにどこぞのde jureで戦争仕掛けたのを横目に見ていると、不意にブルターニュ半島の色が変わった。
ブルターニュ公、カスティリャ王が丸々継承。思わず「おおぅ」と声が漏れた。 カスティリャはレオン王国と言いブルターニュ公国と言い、レコンキスタでは目立たないが、大きな継承で国土を広げている。
身動きが取れないまま迎えた34年の12月。 フランス戦を片づけた皇帝が、アイユーブとルームセルジュークの両方を敵に回す、皇帝にしかできない男らしい聖戦を布告した。
目標はトリポリタニア。ピサがアイユーブに追い出され、全域がアイユーブ領になっている所だ。 いくら皇帝陛下といえどもあの二国を同時に敵に回すのはキツイだろう・・・ 皇帝が領土増やす手伝いするのもアホらしいし、様子見に徹するのが吉だな・・・と思っていたその時。
聖 下 ! 待 っ て ま し た !
この十字軍を仕掛けたのは、「敬虔なる」マリナス4世。 彼は生まれついて遅鈍であった。1+1もあやふやな程度の知性しか持たないとも言われた。 彼に教皇の地位が巡ってきたのは70歳の時。誰が見ても、教皇庁内部の政治力学の歪が生んだ、傀儡教皇に過ぎなかった。 しかし、彼の宣言した聖戦に、まずモーリタニア王が即座に参戦を表明した。 地中海世界最大の王国が立ったことに惹かれてか、続いてシチリア王が、更にヴェネチアのドージェも軍船に帆を懸けた。 死に体と揶揄されたラテン皇帝が決起すると、これに対抗してか、今やカトリックの敬虔な信者となったビザンツの女帝も再び帝国総動員をかけた。 直前に帝国に敗戦していたフランス王は参加を見送ったが、その配下の二大公爵、オルレアン公とトゥールーズ公がそれぞれ8000の兵を挙げた。 更に、十字軍とは別枠ながら、ローマ皇帝自らが40000の兵を率いてアフリカに立ち、トリポリタニアでイスラム教徒と戦っていた。
白痴の老人は、「史上最大の十字軍を興した大教皇」として歴史に名を残すことになったのである。
最終的な参加者は以下の通り。
教皇領 兵4000 モーリタニアのルイージ大王 兵27000 シチリアの「学者王」エンリーコ4世 兵12000 グゥィネドの小王オスカー 兵4000 ゴールウェイ公アイン 兵3000 ヴェネチア総督エリオ 兵6000 オルレアンの「公正公」ティボー2世 兵8000 トゥールーズの「狂公」ゴーティエ 兵8000 ラテン帝国皇帝ペトロス1世 兵4000 ビザンツの「沈黙帝」マルフリーデ 兵14000
他中小諸侯に、各宗教騎士団も加え、その総兵力は90000を超えた。さらに皇帝軍40000が別枠で加わる。 3人の皇帝、2人の王、多数の公爵が同時にイスラムとの前線に立つ、間違いなくカトリック世界史上空前の壮挙であった。
36年5月、各国軍は順次ギリシャ・アナトリアに展開している。
タイミング良く、ルームセルジュークでは大規模な反乱が勃発中。 アイユーブは単独で40000の兵を持っているが、アフリカ側にいるのだろうか、十字軍の主戦場には小粒の兵しか見えない。
ちょっとSSが残っておらず、いつ奪われたかははっきりしないのだが、 この頃、ラテン帝国アカイア公領だったペロポネソス半島は、アイユーブの聖戦によって奪取されており、 モーリタニア軍はまずペロポネソス半島に展開して確実に戦勝点を稼ぎ、チュートン騎士団のみアナトリアに派遣している。
で、ここで気になったのは、「十字軍参加者でありながら皇帝の臣でもある」立場の我がモーリタニアが戦勝点を稼いだ場合、 その戦勝点は、いったい皇帝の戦争か、十字軍の戦争か、どちらに加算されるのか? ということだった・・・
どうやら皇帝の方に行っているようだった。アカイアを占領したが、十字軍の戦勝点は増えず、皇帝の方に加算されている。
この仕様だとギリシャ王位は少し難しいかも・・・だが、イスラム国家が弱体化するなら良いか。 アイユーブ・ルームの婚姻同盟相手より、キリスト教徒からコンスタンチノープルを奪う方が多分楽だし。
37年2月、十字軍より先に皇帝側の戦勝点が100に達し、トリポリタニアが帝国直轄領となった。
本当なら皇帝の領土なんて増やしたくなかったが、これは仕方ない。
そして迎えた37年9月。
史上最大の十字軍は、迎撃に出てきたイスラム軍25000を文字通り一蹴、暴力的な物量で各地を速やかに占領し、完勝を掲げた。 戦功第一としてギリシャ王座を神に認められたのは・・・
大 勝 利 。
アナトリア方面ではほとんど活躍できていなかったのだが、ペロポネソス半島の占領点がこっちにも効いていたのだろうか? まあ終わり良ければすべて良し。ギリシャ王位と広大な新領土を確保することに成功し、万々歳である。 この後、溢れかえった直轄領の始末のため、大司教領1つ、公爵2つを新設。 モーリタニアやチュニスに持っていた5スロット直轄領は手放して、 コンスタンチノープルと、その周辺にある5スロット領を新たに直轄することとした。 直轄領はギリシャに3(コンスタンチノープル・ニコメディア・スミルナ)イタリアに3(ジェノバ・モンフェラート・モデナ)の合計6領となっている。
もっとも、この頃のギリシャ圏の諸州は、6スロット5スロットあるのに3つまでしか埋まっていない悲しい状況。 この後しばらく、お金をためては新都市を作る作業が続いた。 ゲームの残り期間100年少しのこの時期に新都市作っても、投下資金の元が取れるか? という疑問はあるが、こういうのは気持ちの問題である。 イタリア人植民市でアナトリアを埋めつくすのだ。
・・・さて、ここで上のSS左下側の、同盟者の欄を少し見ていただきたい。 Queen of Great Moravia とかいう見慣れない王がいるのが分かるだろうか。
我が三男の配偶者である、ホラントの女公バーヴァ。 婚約した時には確かにホラント女公しか持っていなかったのだが、 その後いつの間にかゲルデルン公位と、モラヴィアの一角であるブルノ伯を継承、 2公位の所持によって条件が満たされ、帝国内3つ目の王位を宣言していたのだ。
完全に本拠地はネーデルラントなのに何が「大モラヴィア」なのか、という全力の突っ込みを入れたいところであるがそれはさておき。 これで彼女の家がこちらと同格の「王」になってしまったことで、三男を使ったホラント公位の継承計画は見事に破綻した。
継承者を三男に変更し、「モラヴィア王位を継ぐはずの三男の息子」を次々代にするとすればイケるだろうが、 そうすると「スーザ公他を継ぐはずの長男の息子」を用いた現行の継承計画を根っこから覆す必要が出てくる。 というか試しに三男を継承に指定してみると、自分以外票を入れてくれなかった。 長男が投票権のあるトレムセン公持ってる上、モーリタニア王のde jure内に三男は領地を持ってない*1ので、当然といえば当然の結果だ。
まあ、ココは素直にホラント公位は諦めるとしよう。元々、継承できても距離的に遠すぎる土地であるしね。
継承といえば、ちょうどこの頃、スーザ・サルデーニャの公ジョバンニが死去。公位が9歳の長男に引き継がれた。
継承者の欄に、当時6歳の、ルイージ大王の長男の長男=直系の孫の名前があることを確認し、暗殺Plotを続行。*2 9歳にして公爵になってしまったことで、Plotに参加可能な人数が圧倒的に増えたこと、陰謀値や外交値が9歳相応のものになってしまったことなどから、 Plot Powerは従前の100%前後から、一挙怒涛の300%突破。 少年はたちまち永遠の眠りに付くことになった。
快 感 。
これで、無事、長らく王国の悩みの種だった二公位を持つ大貴族家の首座が、将来の継承者である孫に引き継がれた。 良きかな良きかな。
38年の年末、先ごろアイユーブからトリポリタニアを獲得した皇帝が、次は十字軍で弱っているルームセルジュークへと聖戦を布告。
再び40000の兵でアナトリアへと攻め込んだ。 が、十字軍当時起こっていた反乱をどうにか鎮圧し、ルーム軍は単独で15000の軍税を組織。 更に、血縁同盟に基づき、アイユーブ軍28000が再び援軍に馳せ参じ、皇帝の聖戦はたちまち底なしの泥沼に埋没。
挙句の果て、老境に至ってなお陣頭指揮を執り続けていた皇帝がまさかの戦死。帝位は29歳の長男に移行した。
エチコーニエン朝二代皇帝ラートボト1世。武闘派の父帝と異なり、外交に長けた皇帝。 成人前から暗殺対象にあったため、身を隠した生活を続けており、29歳に至って未婚。即位後も中々男子に恵まれなかった。
それでも戦争は終わらず、皇帝軍は遠いアナトリアで損耗を重ねている。 ・・・モーリタニア王軍が10000以上いるんですが、無駄遣いやめてくれませんかねぇ・・・
皇帝の無益な戦を眺めているこの頃、ルイージ大王は50歳となっていた。
ルイージ大王50歳。47歳にして「庭師」に目覚め、更に「憤怒」を失うなどステータス変化イベントが連発。 即位時に比べて全体的にバランスの取れた能力になっている。後は「臆病」さえ消えてくれれば。
ギリシャ王位即位後、そのde jureを活かし、 1・エピルス公国のキクラデス諸島 2・ブルガリア王国のアドリアノポリス 3・ラテン帝国のカリオポリス と、細かな戦争を立て続けに起こして、ギリシャ王国の領域を拡大している。
なお、管理値が11に伸びたことで、直轄可能な州数が7に増加している。 おかげで、5スロット都市のアドリアノポリスを直轄領に組み込むことが出来た。
子供の数は男子3・女子4と、妻が「貞節」持ちなのもなんのそのという子宝に恵まれた。 長女はイギリス王子を婿に取り、次女はイタリア人の「天才」持ちを婿に取り、三女は次期ボヘミア王に嫁に行き、そして四女は、
ビザンツ女帝マルフリーデの三男、プチャータ。当初は相続に無関係な三男坊でしかなかったのだが・・・
invite countで宮廷に拉致ってきた、ビザンツ女帝の三男を婿に取った。 これで、二人の子供はアレラミチ一門でありつつ、堂々とビザンツ皇帝の弱い請求権を得ることができる。 うまくやればビザンツ皇帝に一門を即位させることができる。そうすれば、宗家による乗っ取りの機会も出てくるだろう。 ビザンツ帝位がいよいよ夢物語で無くなってきた、と喜びつつ、 ギリシャ各地にイタリア人都市を建設しながら、エジプト攻撃の機会を窺っていると・・・
長期化していた皇帝の聖戦で不満が溜まりに溜まった帝国諸侯が、45年4月、ついに暴発。
凄い数の公爵が、総勢35000の兵をもって一斉蜂起したのである。 皇帝はここに至ってようやくルームセルジュークと和平を結んだが、これこそ時すでに遅し、というやつだ。
「大王」ルイージ1世、52歳。彼の偉大なる治世は、その絶頂を未だ迎えていない。