さて。新たに得たエルサレム王国領であるが、おかげで封臣制限やら何やらが完膚無きまでに溢れかえってしまったため、 王国領内に公爵位と大司教位を各1ずつ新設。また、アッコンとエルサレムを直轄領とし、 長らく首都だった発祥地モンフェラートを、スーザ公位共々一族に下賜。 イタリアの直轄領を全て手放し、東方世界に宗家の土台を完全に移行させた。
これに伴い、王国首都をコンスタンチノープルに移行。 色々溢れたのをせっせと処理し終えたころ、十字軍に大敗を喫したアイユーブ朝がついに崩壊の音を立て始めた。
1371年末、アイユーブ朝から、エジプト王国が分離独立。カイロ周辺とシリア北部が離反した。
RUMの文字配置がなんか気色悪い地図。
かつてあれほど強大だったアイユーブも、いよいよ終焉の時を迎えつつある。 で、この独立した新国家・エジプトは、独立直後で動員力僅か2000。スルタンの直轄領わずか1つと極めて弱体な国家体制である。 となればやることは1つだ。
独立祝いだ! Holy War Cairo!
占領に時間を喰った以外はほぼ無抵抗でこの聖戦を終わらせた頃には、 アイユーブでは同時並行でいくつもの反乱が巻き起こる世紀末状態となっていた。 国が滅ぶというのはこういうことか。
国が滅ぶといえば、この時期、ノルウェーもなかなか壮絶なことになっている。
ピャスト家が成立させた、ポーランド・ノルウェー連合王国は、その後僅か10年足らずで崩壊した。 同君連合を成立させた王が30代半ばにして没した後、二王冠を継いだのは若干10歳の女王であり、 当然ノルウェー諸侯は王位を求めて同時多発の大反乱。同時に、ポーランド本国でも王位簒奪の反乱が発生。 ピャスト家は二王冠を維持するどころか、瞬く間にその両方を失い、下ポーランド公に転落する羽目になった。
その後もノルウェーでの混乱は収まらず、公爵級領主が王位を求めて争い合う悲惨な状態になった、というのが上の地図である。
で、その下ポーランド女公に転落した名門・ピャスト家の女公はというと、
ちょうど同時期に、成人して結婚相手を探していた我が長男アンブロジオとの婚約が成立。 称号の国外継承禁止法の制定が割と簡単にできるConclaveの仕様を考えると、領土乗っ取りにはもう期待できないが、 ピャスト家の領地をアレラミチの血族が乗っ取るというだけでも良しとしておきたい。
で、その長男であるが、前回書いた通り、帝国家臣・上ブルグンド公の継承が決定している。 女公マルグレーテが71歳という長寿を得たため、1371年にようやく公位継承が実現した。 上ブルグンド公家は単独で5000近い兵を起こせる大領であり、これに、ほぼ同規模の兵力を持つ下ポーランド公家の援軍も求めることが出来るという状況にある。
上ブルグンド公アンブロジオ。「卓越した戦略家」持ちの武勇15と武闘派に育った。 帝国内のイタリア人公爵として、精力的な活動を展開していく。
というわけで、公位継承後すぐさま、帝国内で領土拡大の私戦をおっぱじめていた。 この長男なかなかやりおる。
なおこの同時期、皇帝はフランス王が建てた対立教皇の廃位を求めて、フランスと大戦を演じている。 フランスはしっかり敗戦し、対立教皇はまたしても廃立・破門の憂き目を見ることになる。 何やってんだか。
さて。カイロへの聖戦を遂行する傍らで、ビザンツが困ったことになっていた。
臣下の1人が7000余の兵を興して反乱、皇帝選挙制への移行を求めたのである。 せっかくアレラミチの皇帝を就けることに成功したのに、ここで選挙制にされるのは嫌な気分になる。血縁同盟に基づいて介入し、兵を回す。 この反乱はさくっと鎮圧。出来はしたものの、反乱中に成人したビザンツ皇帝のステータスを見て、ひっくり返りそうになった。
破 門 さ れ て る ! ?
え? ギャグ? つーか全能力一桁で外交値ゼロっておまえ・・・ これは荒れる(確信)(絶望)
どうなるんだろうなあこの帝国は・・・
またこの頃、ラテン帝国領アテネ公領を、ヴェネチアが奪い取っている。
前々回、「テッサロニキ・エピルスの公、ポリカルポスが、ラテン帝国に対し、Holy Warを宣言したのである」と書いたが、 実はこの戦争、直後にブルガリア・シチリア・ビザンツなど多数の周辺勢力が、同時並行でラテン帝国に宣戦を行い、 帝国領が細切れに分割占領状態になったことで、どこも戦勝点100%に到達できないグダグダの様相を呈してしまっていた。 そこに始まったジハード&十字軍に伴い、一帯がてんやわんやになったところを、最後にやってきたヴェネチアが、横からアテネ公領をかすめ取っていった、 という経過をたどっていた。
そういうわけで、ギリシャ王のdejure内にあるアテネを請求し、ヴェネチアに宣戦。
凄い数が出てくるヴェネチア傭兵軍を、もっと凄い数で押しつぶし、アテネをもぎ取った。 もう一カ所も停戦明け次第取りに行くから待ってろよ。
と、せっせと領土拡大に勤しんでいる1380年、期待の「天才」持ち後継者、セヴェリーノ2世が無事成人を迎えた。 が。
あっ ホモだ
というかもう顔がホモ臭い(偏見)。
外交19の「社交的」「勇敢」「慈善」と名君の素養を見せつつ、 「同性愛者」かつ「貞節」の合わせ技で多産度にマイナス30%と、後継者作りにいささか以上の不安を漂わせる。 「ギャンブル好き」という余計な特性も持っており、vassal opinionボーナスがプラスマイナスほぼ完全に相殺されてしまっている。
ただまあ、ビザンツ皇帝の姉を婚約者としていること、外交19は普通に優秀であることと、色々悩ましいところではあるが、後継者としてまあ過不足は無い。 ヴェネチアから剥ぎ取ったアテネ伯領及びアテネ公を与えたところ、他の諸侯から後継選挙の票も順調に集まったこともあり、後継が確定となった。 後は男子を儲けてくれるかどうかが勝負である。
82年。セヴェリーノ1世も50の坂を超え、そろそろ晩年に差し掛かった頃、 ビザンツ帝国家臣・テンプル騎士団が独立を求めて皇帝に反旗を翻した。 これを20000の兵で容赦なく鎮圧。した直後、ふと見慣れないディシジョンがあることに気づいた。
テンプル騎士団を臣従させられる・・・だと? ちょっとどういう条件を満たして発生したものか全く分からないのだが、 出来るというならやってみようということで、やってみたところ、
テンプル騎士団の無料使役チケットが手に入った。500Gでこれは安いと言うしかない。 これで喜んだのも束の間。その先に待っていたのは悪夢だった。
まず1383年7月、神聖ローマ帝国皇帝ランドルフ1世が、ビザンツ皇帝に対し破門戦争を布告。 血縁同盟に基づいて、我が国もHREと交戦状態に突入した。
顔を引きつらせつつ、帝国と戦うときの定石通り、イタリアは捨ててアフリカの帝国領を同時8カ所並行で占領に入る。と、
続いて11月、何故かイタリア人化しているリューリク家のペレヤースラウ公国が、ビザンツ皇帝に破門戦争を布告。
南の次は北かよ、となったところで、 86年6月、ルームセルジューク傘下の公の1人が、ビザンツに対し、アナトリアへの聖戦を布告。
さらに87年1月、エジプトがビザンツに対し聖戦を布告。
この後さらに。ルーム傘下の公家2つが、相次いでビザンツに聖戦を宣戦。 同時並行で、破門戦争2つと聖戦4つがビザンツに宣言されたことになり、当然、我が国は血縁同盟に基づいてこの全てに参戦を余儀なくされた。
\(^o^)/オワタ!
・・・何て言っている場合ではない。なんでこんなに必死になっているのか分からなくなりつつある中、 アフリカで皇帝軍を抑え、アナトリアでイスラム軍を撃退し、ロシアでペレヤースラウ公を屈服させ、と、 こと範囲においては、モーリタニア王家史上最大規模の戦役の中、兵力を必死でやり繰りしてビザンツに勝利をもたらしていった。*1
幸い、こと聖戦については他のカトリック諸侯の参戦も得られたこと、相手が所詮公爵級だったことから速やかに屈服させ得、 ペレヤースラウ公国も遠いだけで弱体な公国であったことから、10000の兵を送って鎮圧出来たものの、
神聖ローマ帝国は強敵という一言に尽き、一進一退の攻防が北アフリカ一帯で展開された。 むしろここは、多正面戦争を行いつつHREと互角の殴り合いを演じられているくらいに、我が王国が発展したことを寿ぐべきなのだろうか・・・?
そしてこの戦いの中、56歳を迎えていたセヴェリーノ1世の健康は急激に悪化した。 87年1月にinfirm、11月にstressと、立て続けに体調を崩したと思ったら、
そのまま快癒することなく、戦争の終結を見ることなく、12月4日にセヴェリーノ1世は生涯を閉じた。
祖父ルイージ大王ほど劇的ではなかったものの、堅実な統治によって、 エルサレム王位を十字軍で得、エジプトの首都カイロを確保し、またアテネをヴェネチアから奪い取った。 27年の治世で一度の反乱も起こされることなく、6人の男子と1人の女子に恵まれた。 「公正王」と呼ばれたセヴェリーノ1世の治世もまた、王国史に刻まれるべきものであった。