880年、'the Great'と称えられたÁrpádは亡くなり、息子Mihályが王位に就きました。 しかし、偉大な統治者の後を継ぐのは誰にとっても難しいもの。 Mihályの短い治世の中にも、父の幻影が色濃く表れていました。
ハンガリー王Mihály 能力はそこそこ優秀だが、「疑心暗鬼」「臆病」「残虐」と家臣に嫌われる要素が多い
Mihályはハンガリー王宮内に様々な慣習を定着させたことで有名です。 例えば、戴冠式の際には必ず「アールパードの聖冠」を用いること。 戴冠式に付随して国王主催でトーナメントを行うこと。
「Árpád」という家名も、彼が署名する際に常に「Mihály Árpád」と自分と父の名を併記していたのが始まりと言われています。
これらのことはすべて、自らの不人気を自覚していたMihályが自己の権威付けと諸侯の支持を集めるために行ったことでした。 しかし、これらの政策は目的を果たすことはありませんでした。少なくとも、彼の治世では。
Mihályは、自分が父から託された問題を誰よりも理解していました。 王国の継承法。現行の分割相続法をそのままにしておけば、いずれ国王は「君臨すれども統治せず」の状態になることは火を見るより明らかです。 Mihályはこの問題を解決するために、王権の拡大を選択しました。王の強大な権威権力でもって、継承法の変更を諸侯に認めさせようとしたのです。
これに諸侯は猛反発。 元々のMihályの不人気も相まって、たちまち王に対する対抗同盟が組まれます。
しかし、Mihályも退きません。
王国内に不穏な空気が流れます。
いまや、内乱は避けられないものと誰もが考えていました。
その時です。
突然、Mihályが倒れました。そして必死の治療も効果はなく、そのまま亡くなります。わずか2年という短い治世でした。 40歳という働き盛りの年齢、しかも今まで目立った持病のなかったMihályの急死は、真っ先に毒殺が疑われました。 しかし、他人を信じず、どんなものでもまず侍従に毒味させていたMihályに毒殺の隙があったとは思えません。 むしろそういった人を信じない生活を長く続けた結果、心身ともに弱っていたのでは、と現在では言われています。 いずれにせよ、彼の死により王権の拡大も継承法の変更も振り出しに戻ります。 分割相続法によりMihályの領地3伯領は三人の子供に等分され、王位を継いだ長男Gáspárに残されたのは 首都Pestを含む1伯領のみという有り様でした。
ハンガリー王Mihályは40歳で神の下での眠りについた。不健康が祟り、死に至った。王Gáspár万歳!
G[a]sp[a]rの治世へと続く王国再編成