ハンガリーの首都ブダペストに現存するアールパードの騎馬像
「歴史はときに、突然一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである。
これらの偉大な個人においては、普遍と特殊、留まるものと動くものとが、一人の人格に集約されている。彼らは、国家や宗教や文化や社会危機を、体現する存在なのである。・・・・
危機にあっては、既成のものと新しいものとが交じり合って一つになり、偉大な個人の内において頂点に達する。これら偉人たちの存在は、世界史的に謎である」―ヤーコプ・ブルクハルト
Álmosの不意の戦死によって大首長となったÁrpádでしたが、家臣たちに動揺はほとんどありませんでした。
それはÁlpádがÁlmosにとって唯一の子であり、更に彼が父以上に有能な戦士であったためです。
マジャール大首長 Árpád 全能力10以上、更にstrong(屈強)持ち。
Árpádの指揮下マジャール軍は大モラヴィア各地に散らばり、包囲・占領の快進撃を続けます。 とはいえ、既に戦いはPressburgで決していたのです。
大モラヴィア崩壊の瞬間
872年、Árpádは大モラヴィアの王Rostislavにカルパチア一帯の領有権を認めさせます。
これにより領土の1/4を失った大モラヴィアは異教徒のボヘミア公爵にも独立を許し、凋落の一途をたどります。
反対に、マジャール族にとっては大きな一歩です。大モラヴィアの影響を排し、カルパチア一帯で独立を保っているのは
ドナウ中流の沿岸部を支配するバラトン公爵を残すのみ。
しかし、ここで予想もしない方向からの妨害が入ったのです。
ペレヤースラウ大族長はドニエプル川沿岸を支配しており、先代の大首長Álmosからマジャールにとってかつての根拠地であり、 安全な後方でもあるドニエプル川下流一帯を託された人物です。その彼がマジャールに征服されたアヴァール人やブルガール人と結託し、 こちらに矢を向けるとは・・・。Árpádは怒ります。しかし彼は、忍耐強い性格でもありました。 軍を急行させて叛乱軍を蹴散らした後で、Árpádは叛乱側に使者を送ります。 「先の敗戦で目が覚め、自らの軽挙を悔いて今後二度と大首長に背くことはないと誓うのならば、慈悲を持って今回の行動を許そう。 ただし、首謀者であるペレヤースラウ大族長だけは拘束する」 敗戦で動揺していた叛乱諸侯は一も二もなく同意し、叛乱はあっさりと収束しました。
今は、取り敢えずの妥協だ。
あっさりと終わった叛乱でしたが、Árpádの胸にこの時のことは残り続けました。
後に彼の成す統治体制の確立は、この時の経験を基にしたものだと言われています。
話がやや前後しますが、大モラヴィアとの戦争に勝った直後のことです。 Árpádを一人のキリスト教司祭が訪れます。 彼はÁrpádの偉大さを称え、此度の戦争で彼が勝ち取った領土にはキリスト教徒が多く住んでおり、 彼らに信仰の自由を認めて欲しいということ、マジャールの領土内に改宗を勧める宣教師を派遣することを許可してほしい旨を述べました。 Árpádはこれを認めます。しかし、この時点では彼自身はキリスト教への改宗に興味を持ちませんでした。 キリスト教の「ご利益」が彼には今ひとつ理解できなかったのです。
キリストの神が我々の神々より強いと、どうして分かるのだね?
もはや障害となるものはありません。最後の独立勢力であるバラトン公爵を武力で屈服させ、 遂にÁrpádはカルパチア盆地一帯の征服に成功しました。
もう走り回るのは沢山だ!
「新しい王国;
マジャール族は長い旅を経て遊牧民や農民、都市の住民全てと荒々しく戦った。
カルパチア盆地の豊かな平原は我々に平和と支援を提供してくれるだろう。―ついに新しい故郷だ!」
875年、Árpádは獲得したカルパチア盆地一帯の領土を「ハンガリー」とし、自らをハンガリー大公と自称します。 そしてここまでの征服行に従った族長たちに土地を与えました。こうしてマジャール人は遊牧社会から封建社会への変容を果たします。 また、ハンガリー創始という偉業を成したÁrpádを人々は'the Great'と称えました。
ハンガリー成立の知らせは瞬く間にドニエプルまで伝わります。 Álmosにはついて行かずドニエプル流域に留まっていた人々も、新たな故郷での生活を夢見て次々とカルパチア山脈を越えて ハンガリーにやって来ます。 しかし、彼らが住める場所は既にどこにもなくなっていました。 新たな故郷に住むことはかなわず、かと言って元の場所に戻ることも出来ない…。 流民化して新首都Pest周辺にたむろする人々の中で不満が爆発するのは時間の問題でした。 大公Árpádは考えます。ならば、再び征服すればいいだけのこと。 彼の命によって、流民たちは武器を持たされ、軍として組織されます。
ハンガリー成立によりPOPするイベント兵。ちょっと…多くない?
「安住の地がほしいのなら、自らの手で勝ち取ってみせよ」 大公は彼らにそう言い渡しました。 しかし、どこを攻めるのか。 北は痩せた土地、まずここはありえません。 西は豊かですが、そこはKarling家の領土。普段はいがみ合うことしかせずとも外敵とあらば一族総出で迎撃に来るでしょう。 ならば…Árpádの目は南に、そして東に向けられていました。
3万もの軍勢に攻め寄せられ、スラヴォニア、クロアチアは成すすべもなく降伏します。 877年、折良くビザンチンから離反していたダルマチア公爵を攻撃、支配下に収めます。 これでハンガリーは初めて地中海に港を持つこととなり、更にクロアチア全域を抑えることにも成功しました。 勢いに乗って軍勢は今度は東進、ラシュカ公爵を屈服させます。 そして878年、
今度は息の根を止めてやる
カルパチアを巡って争ったブルガリア帝国()に、再び侵攻します。今回は帝国の一部なんて生ぬるいことは言わず、
全土を奪い尽くす構えです。
これに気づいたのか、ブルガリアのハン*1も傭兵を雇用するなど軍備を進めていました。しかし、急速に拡大を進めるハンガリーには抗えません。
一つの帝国の血を浴びて、新たな帝国が産声を上げる
Ursovaの戦いでブルガリアは傭兵含む手持ちの戦力の殆どを喪失。
ブルガリア領は次々と降伏していき、ハンを含む降伏を肯んじないブルガリア貴族たちが、ギリシア北部に僅かに残された領土へと逃亡しました。
こうして、ブルガリアも全域をハンガリーに併合されます。
急速に膨れ上がるハンガリーの力。 それが元来野心家であったÁrpádを、さらなる野望へと駆り立てます。 更に、東へ。そこには…
Árpádが次に狙いを定めたのは、ディオクレア公爵領です。ここを取れば、セルビアも全域を抑えることが出来ます。 しかし、そこはビザンチン帝国領。まとまった叛乱騒ぎがない以上、帝国とまともにぶつかり合うことになります。 しかし、Árpádは一昨年のダルマチア攻撃があっさりと成功したことから、ビザンチンの力を過小に評価していました。 879年、Árpádは軍に進撃を指示。こうして、ビザンチン帝国との戦いが始まりました。
3万2千の遠征軍は、ディオクレア公爵領に殺到します。たちまちRagusa伯領が降伏。Zeta伯領も厳重に包囲します。 そこに、急使がやって来ました。大公領の南端、旧ブルガリア領のSerdicaが帝国軍によって包囲されたということです。兵力は1万程。 軍はここで兵力を2分します。1万は引き続きZetaの包囲を、残りの2万3千で帝国軍の迎撃を。迎撃軍は更に、1万3千の先発隊と9千の後詰に分かれていました。
Rilaの戦い。戦力の逐次投入による惨敗の典型
迎撃軍が到達する前に、帝国はSerdicaを陥落させていました。そしてハンガリー軍を山岳地帯に引きこみ、各個撃破するという作戦に出ました。
ハンガリー軍は、これにまんまと嵌まりました。敵よりも兵力が多いという安心感が、彼らの油断を誘ったのです。
実際には後詰の9千は到着しておらず、兵力差は殆どありませんでした。
不意を襲われ、動揺したところをビザンチンのカタフラクトに蹂躙されます。
先発隊が潰走した頃にようやく到着した後詰も、先発隊と同様の運命をたどります。
両軍の死者は、ハンガリー側1万8千に対しビザンチンは1千ほど。
大敗と言う他ないものでした。
これほどの負けの後でもハンガリー軍が戦意を維持できたのは、Árpádの息子たち、長兄Linútikaと次兄Tarkazusの働きがあったからです。
特にTarkatzusは、盲目になる程の大怪我を追いながら、Rilaの敗兵を率いてビザンチンの追撃をかわし、味方と合流するという困難な仕事をやり遂げます。
彼らが全滅せずに戻ってきたことで、ハンガリーの兵力での優位はかろうじて残りました。反撃のチャンスを静かに待ちます。
傭兵も加えて再編成ったハンガリー軍は、再び帝国軍と相見えます。戦場はドナウ下流域の平原、Dorostotum。 指揮をとるのは、盲目のTarkatzus。
今度は、
ハンガリー軍が勝ちました。追撃にも成功し帝国軍は壊滅。 そして、この勝利が戦いの趨勢を決定づけます。 その後4年間戦いは続きますが、終始ハンガリーが主導権を握り続けました。 そして883年、
勝つには勝ったが、犠牲の大きい勝利だった
Árpádはビザンチンとの戦争に勝利。ディオクレア公爵領を手にしセルビア全域を掌握します。
しかし犠牲も大きく、遠征軍は約半数を失う結果となりました。
Árpádはこれ以上の帝国領への侵攻を断念。
モルダウ公爵領を回収しワラキア地方全土を支配下に入れる以上の拡張を取りやめました。
王国は拡張から内充へと移行しつつあったのです。
そのⅡへと続く王国の創始者Ⅱ