András、Szilveszterと王位を争った若者たちが立て続けに命を落とし、冠が巡ってきたのは未だ学齢期にも満たない幼君でありました。
当然、幼い彼に政治を執り行えるわけもなく、摂政が国政を代行こととなります。 この時摂政となったのは、密偵頭でもあったBirlad伯Lukácsでした。
ところが彼は一月もしないうちに失脚します。新たに摂政となったのはユダヤ人の廷臣、Chisdaiでした。
しかし彼も一年ほどで追われます。今度はハンガリー人の廷臣、Oszkárが摂政となります。彼は悪魔が憑いていると言われるほどの狡知で有名でした。
こうした宮廷内での権力闘争から幼君Gábrielを守ったのが、彼の傅役を務めたSzekelyfőld伯Árpádでした。
Árpádの良き指導を受け、Gábrielは明るく公正な心を持つ、勇敢な少年へと育っていきました。
1084年から87年にかけて、Gábrielは大病を患います。ベッドから出て駆け回れるほど回復したと思ったら、次の日にはまた床に伏せるといった 日々が3年ほど続きました。
ようやく健康な体を取り戻した1088年、Gábrielは12歳になりました。少しずつ王としての責務にも目覚めはじめたこの時期に、ひとつの事件が起きます。
何度目かの政変により、この時期再び摂政はBirlad伯Lukácsへと代わっていました。
Lukácsは一度廷臣の支持を失い失脚した苦い経験を持ちます。再び摂政位に就くことは出来ましたが、彼の地位は不安定なものでした。 そこで、彼はどうにかして諸侯を味方に付けることが出来ないか考えます。彼が取った手段はおどろくべきものでした。
摂政位を利用し、ハンガリー王の持つ法的権力を弱めたのです。当然これは、王であるGábrielには受け入れがたいものでした。 しかし未だ成年に達せず、政治権力を持たないGábrielに対抗する術はありません。 渋々ながらLukácsの望むままに法案への署名を行います。しかし、この事をGábrielは決して忘れませんでした。
1091年11月、遂に待ち望んだ日がやってきます。Gábrielの16歳の誕生日です。
この日をもってGábrielは成年に達したと認められ、今まで幼いがゆえに制限されていた王の権力を行使することが出来ます。 Gábrielが成人となってまず第一に行ったことは戴冠式挙行の宣言、そして第二は、
かつての摂政、Birlad伯Lukácsの逮捕でした。
戴冠式の中で、Gábrielは諸侯に提案をします。 それは少年時代に摂政であったLukácsにより不当に制限された王の法的権限の回復でした。 元々Lukácsが己が地位のために強引に行ったものであり、良識ある諸侯の中には眉をひそめる者が多かっただけに、あっさりと廃案が決まります。
ハンガリー国内の問題は、これで一通りは終わったことになります。 Gábriel自体はまだ若く、親政を始めて間もありません。しかし王としてのGábrielは、即位10年を超える熟達の君主でもありました。 彼に心を寄せる諸侯も多くおります。 Gábrielはハンガリー王としてはおよそ30年ぶりに、国外に目を向ける余裕を持つことが出来たのでした。
1095年、Gábrielは影響力回復の第一歩にポーランドを選択します。
ポーランド王位は元来選挙によって選ばれていましたが、それも『王となる者はÁrpád家の者に限る』という不文律があってのことでした。 しかし、大内乱によってハンガリーの影響力が弱くなった結果、ポーランド諸侯は王位からÁrpád家を排除します。 これに異を唱えたグレーターポ-ランド公VilmosをGábrielは軍勢を送って支援、彼をポーランド王に仕立て上げます。
次に1098年、継承戦争で兄弟相争うバイエルンに介入。兄であるバイエルン王Mathiasに味方してカリンシア公Ehrenfriedを 屈服させます。
同年6月、驚きのニュースがカトリック世界に伝わります。チュートン騎士団がエルサレム一帯を征服したというのです。
教皇EvaristusⅡは殊の外喜び、一ヶ月の間大いに祝うように呼びかけました。
1102年にGábrielは北方の異教徒を討伐、キエフ公領を置きます。
一族のMátyásがキエフ公として戴冠。キエフ公国は隣国のガリチア・ヴォルニア公国と同様、独立国として成立してはいますが 実態はハンガリーの属国でした。この二国はハンガリーにとって、北方の異教徒から身を守る二重の盾であったのです。
1104年、Gábrielは教皇に挨拶と正式な戴冠許可をもらうため、これまたハンガリー王としては久々にローマへと向かうこと にします。
ローマでの面会は滞り無く行なわれます。その際に教皇直々に、エルサレムの守護と巡礼に向かう人々の安全について依頼されました。
Gábrielがローマから帰国してすぐの1105年、イスラム側が大規模な反撃に出ます。
教皇との約束とはいえ、エルサレムまで軍勢を派遣するほどの余裕も関心もはGábrielにはありませんでした。 とはいえ教皇との約束を完全に無視することも出来ません。 Gábrielはエルサレムに駐留するチュートン騎士団に十分な金銭支援をすることで、教皇との約束を果たせると考えました。
1108年、三年に渡る聖戦をチュートン騎士団は耐え抜きました。
しかし休む間もなく、今度はシーア派カリフが襲いかかってきます。 今回はGábrielも軍勢を派遣し、聖地守護に務めました。
シーア派による聖戦は激しいものではなく、直ぐに終結しました。
1118年、聖地奪回の熱狂からか、富裕な騎士たちによってテンプル騎士団が結成されました。彼らは聖地守護とそこに集う巡礼者の保護を 使命とするそうです。
1125年、Gábrielは長年の統治と影響力の拡大、聖地守護の功績などから、いつしか'the Great'、『大王』と綽名されるようになりました。 5歳で王位を相続し16歳で親政を開始、そして今や49歳の『大王』となったのです。
1128年、十字軍が宣言されます。目的地はなんと、スコットランド。
なぜ今更キリスト教化したはずのブリテン島に十字軍を送るのか。 実はこれにはブリタニア帝国内部の複雑な事情がからんでいました。
ブリタニアは元々ヴァイキングによる征服帝国です。当初は略奪を主目的にしていた彼らが居住地を作り、勢力範囲を広げ、 遂にはブリテン島とアイルランドを統合した帝国が誕生しました。 しかし、征服者の定めか、ヴァイキング達は支配している者達と比べることも出来ぬほど少なすぎました。 とりわけヴァイキングとブリテンの住民とを分け隔てたのが宗教です。地元の住民はほぼ全てカトリックなのに対し、 ヴァイキングは先祖伝来のフレイヤやトール、オーディンなどを崇める多神教徒でした。 ヴァイキング達は選択を迫られます。ある者はカトリックの洗礼を受け、ある者は伝来の教えに固執しました。 元来の住民にも、影響はあります。目端の利くものはヴァイキングによって征服された直後、すぐさまカトリックから北方信仰に 乗り換えていました。一方、大多数は頑迷にキリスト教を信仰し続けます。 また、元からの住民は一枚岩かというと、そうでもありません。ケルト系のアイルランド、ウェールズ、スコットランドと ゲルマン系のアングロ・サクソンがまだら状に入り混じり、その中にに点々とヴァイキングの居住地が存在していました。 つまり、ブリタニアは2つの対立を抱えているのです。1つ目は宗教。2つ目は文化。 その結果、帝国は統一とは名ばかりの分裂が常態化していました。
今回の十字軍もたまたま治めていたアイルランド・スコットランド女王が多神教徒だっただけで、実際にスコットランド在住の キリスト教徒が迫害された訳ではなかったのです。 この女王Astaも実際的な人物で、宗教騎士団に攻めかけられ、不利を悟るとすぐさま改宗。 十字軍は攻める理由を失い、何となく解散してしまいました。
スコットランド十字軍から1年後の1132年、Gábrielは自然死します。
享年56歳。半世紀にも及ぶ、長い長い統治の末の死でした。
『―――GábrielⅢ、そして次代のLászlóの治めた四分の三世紀は、ハンガリーにとって最も幸福な時代であった。 第一に、平和であった。戦争は度々起こったがそれは全て国外の出来事であり、戦うことを生業にしている者以外には縁のないことであった。 強力な王が指導力を発揮し、諸侯を導いていく事によりそれは達成された。謀反を考える領主は大内乱時代に死に絶え、忠誠が美徳とされた。 強い指導力と豊富な戦力が活用された結果、ハンガリーは再びヨーロッパの強国として君臨する事となる。キエフからウィーンまでがハンガリー王の影響下となったのだ。 東ヨーロッパの中世での秩序の中心は、疑いようもなくハンガリー王国であった。 第二に、豊かであった。内乱期に荒れ果てた畑は耕し直され、秋には再び黄金色の実りが得られるようになった。交易も盛んに行われるようになり、 ローマにも、コンスタンティノープルにも、パリやトレド、更にはアレクサンドリアまで、ヨーロッパと地中海沿岸の大きな街ならばダルマチアの商人を見かけないということはなかった。 文化も栄えた。王都ペストを囲むように存在する大学群にはヨーロッパはもちろん、当時は西欧よりも先進的であったイスラム世界からも人が集まり、叡智を磨いた。特に医学では、 当時としては先進的といえる消毒の概念が(不完全ながら)生まれ、これは後に黒死病によるハンガリー国内の被害を減らすことにつながった。 多種多様な文化が混合した結果、ハンガリーには他に類を見ない特殊な寛容性が生まれた。ペストにはヨーロッパ最大のユダヤ人居住区が設けられ、高名な者は王の相談役にまで就いた。 ハンガリー王国内でユダヤ人に対する迫害が行なわれた記録はない。今もなお、ハンガリーは(イスラエルを除き)世界で最もユダヤ人の居住する国家である。 支配層であるマジャール人と在地のスラブ人が完全に同化したのもこの頃だ。もはや彼らは自分たちを人種・文化・宗教その他あらゆる面で分け隔てることが不可能になっていた。 彼らにとっては同じ言葉を話し、ともに歩むものは皆同胞なのだ。 まったくもって、偉大な時代であった。』―――ペーテル・ペスティ「馬蹄記」より抜粋
ハンガリー王GábrielⅢは56歳で天国へと向かった。自然死であった。王László万歳!
László'the Great'の治世へと続く 十字架の守護者
きょうの ビザンチン
叛乱祭はいつものことだが、皇帝自身が異端に染まっている