西暦1248年5月。我々はテングリ教に改宗し復興しつつあったSaffarid朝に楔を打ち込むべく、宣戦布告しました。
宣戦布告と同時に我が軍は一斉にペルシア領内への侵攻を開始しました。
我々の大軍勢の前に、Saffarid軍は次々と敗れていきました。
勝利を確信した、ちょうどその時に図々しいキリスト教徒どもが乗り込んできたのです。
ペルシアに展開するアラビア軍。
報告によると、今回の十字軍には神聖ローマ皇帝をはじめ、カトリック世界の大諸侯のほとんどが参加しておるらしい。中途半端に兵を割いたところで被害を大きくするだけだ。
では、Saffarid朝と白紙和平を結び、全軍を向かわせるべきなのでは…!?
それはだめだ。今白紙和平を結んでしまえば、その分Bavandid家の悲願であるペルシア獲得は遠のいてしまう。
西暦1251年4月。アラビア帝国はエルサレム一帯の放棄を宣言、エルサレムの地はエルサレム王を兼任していたイタリア王に明け渡された。
後で見ておれよ…。
これにより十字軍は成功したのであった。 一戦も交えずに敗北を認めたアラビア帝国を、カトリック世界では「弱虫国家」と呼び、嘲笑したのであった。
我慢がなりません!戦わずに負けを認めるなど、諸侯も納得しないでしょう!
大局を見失ってはならぬ!エルサレムなどゾロアスター教にとっては聖地でも何でもない土地だ。失ったとて惜しくはない。それよりもペルシア攻略に専念することの方が重要だ。
ペルシアを奪取しゾロアスターの聖地を回復してこそ、ササン朝の頃のような威勢を再び得ることができるのだ。だからこそ、ペルシア攻めの手を緩めてはならぬ!
それにな、悔しくないわけがないだろう。十字軍にとられた地はいずれ絶対取り戻してやるさ。
陛下のご存念を考えず、失礼な物言いをしてしまい申し訳ありません。
わかればいいんだ。それにな先ほど朗報が届いた。Saffarid朝が講和を申し出てきたそうだ。
西暦1251年5月。Saffarid朝との講和により、新たにペルシアの首都圏である中枢Hamadan一帯を獲得したVarshasbは、新たにペルシア王号の創設を宣言した。
目標にまた1歩近づいた。
Varshasbは長男Nezamをペルシア王に封じた。
ペルシア王はBavandid家にとっては家訓ともいえるペルシア攻略の先兵となる重要な地位である。 また、その統括地域は豊かなペルシア一帯に及び、動員兵力ではアラビア帝国の獅子身中の虫・アラビア王に次ぐほどの勢力を有する。 この地位を自らの後継者に託したことにより、皇帝とその直系の帝国内での力はさらに増すこととなった。 以後、ペルシア王位は皇太子が就く地位として、帝国内の4王に対抗する皇帝の藩屏としての役割を担う(皇太子が就くという制度が形骸化するまでの間だが)。
西暦1252年5月。
大変です!ビザンツ帝国がアナトリア半島のColoneia一帯を求めて戦を仕掛けてきました!
ビザンツ帝国は衰退の道を歩んでるんじゃなかったのか!?前話のナレーションでそう言ってたぞ(前話参照)!?それにビザンツ帝国は今、女帝だろ?国は乱れないのか!?
そんなこと言われましても…今起きていることが事実なのですとしか…。
ええい!ペルシア遠征直後で兵が回復していないのを狙ってきたか!!兵を出せ!!ビザンツのいいようにはさせんぞ!!
と、まあ全く想定していなかったビザンツ帝国への防衛戦が始まったわけですが…。
「ビザンツ帝国はこれ以降衰退の歴史を歩む」。第22話でこのようないい加減なナレーションをしたプレイヤーを信じた陛下は、ビザンツが攻めてくることはないと判断し、警戒の目を緩めました。
そこをビザンツの女帝は衝いてきたのでしょう。女ながらになかなか英邁な君主のようです。
こうなったのも全てはプレイヤーと、それを信じた陛下のせいだ!!!!
おらおらおらー!!
相次ぐ勝報。
逃がしはしないぞ、ビザンツ軍。
今回の戦、最大の激戦に勝利。
ここらへんで勘弁してやろう。
この敗北でビザンツ帝国は今度こそ、衰退の歴史を歩んでくことでしょう(フラグ)。
1254年と1255年、陛下は断続的に遠征を実行なされました。
対イタリア王戦。十字軍での負けを返してもらうぞ。
対アッバース戦。そろそろ引導を渡してやろう。
これらの遠征は成功し、イタリア王より十字軍で失っていたAscalon一帯を、アッバース家より最後の拠点であるKermansshah一帯を獲得しました。
アッバース家に関しては先々代の時に秘密協定が結ばれていた(第18話参照)のですが、数十年がたち、協定の期限が切れたと判断し、攻めました。
完全に孤立無援の中、山岳地帯にこもっていたアッバース家。このまま無為に生きながらえさせるより、さっさと滅ぼしてしまうのがせめてもの武士の情けでしょう(勝者の勝手な論理)。
これにより、イスラム世界の名家・アッバース家はその栄光と転落の歴史に幕を閉じることとなりました。
確かIlkhanateに次ぐ、モンゴルの第2の遠征軍でしたな。
先帝にお知らせしたのは他ならぬ私でしたからな(第21話参照)。で、Gorlden Hordeに何かあったのですか?
うむ。遠征軍が送られたという知らせ以来、長らく消息不明だった彼らがとんでもないところに現れた。
「ハンガリーはモンゴル人の国である」
1262年8月
Saffarid朝との停戦期限が過ぎたので、早速またペルシア遠征を行うぞ!
というわけで宣戦布告。
申し上げます!我が軍はSaffarid軍主力を撃破、Tabaristan一帯の敵城塞の包囲に入りました!
圧倒的な大軍で包囲。
そして…
Saffaridの皇帝は我々の要求を呑むことに同意、TabaristanはBavandid家のもとに帰ってきました!
Manushihr帝の時に失ってより約150年。ついに故郷が戻って来たか。感慨深い。
Ilkhanateが随分小さくなっておるな。このShayan朝というのは何なのだ!?
Ilkhanateを打倒して樹立した国のようです。王はZirki教を信仰しているようです。
Shayan朝初代王Shayan。一代で王にまで成り上がった英雄。
ペルシア帝国を得るためには、このShayan朝も倒さねばなるまいな。
1267年7月。アラビア帝国はMerv公爵領を求め、Shayan朝に宣戦布告した。 Shayan朝はアラビア帝国のこの動きに即座に反応、Shayan王自ら大軍を率い防衛に向かった。 アラビア、Shayan両軍は国境付近で激突した。
Shayan軍は王の巧みな用兵により、一時はアラビア軍を窮地に陥れるものの、続々と援軍に駆けつけるアラビアの大軍の前に力尽きた。 この戦以降、Shayan軍は組織的な抵抗を続けることが不可能な状況に陥り、遂にはアラビア帝国に膝を屈することになる。 Shayan朝初代王Shayan。ひょっとしたら一代で皇帝にまで上り詰めることができたかもしれない。 しかし、決起した場所に運が無かったとしか言いようがないだろう。 すぐ隣に、飢えた巨虎がいたのだから…。
Shayan朝を破ったことにより、ペルシアの覇権は完全にBavandid家のものになったのであった。
大変です!皇太孫殿下(ペルシア王)がShayan朝に独断で攻め込みました!!
おおかた、功にあせってのことであろう。孫は次期皇帝だ。ここで手柄をたてさせるのも悪くはない。
よいよい、自分のことは余が一番よくわかっておる。それにしても長き一生であった。
まさか余の代でペルシアの多くを回復できるとは夢にも思わなかったぞ。
後世、陛下は尊敬の意味を込めて「ペルシア征服帝」と称されるでしょう。
そうか。お前もわかっているだろうが、我が孫はとにかくそばの者に図らず独断専行が甚だしい。もしかしたら一時の思い付きでとんでもないことをしでかすかもしれない。そうならないよう、お前は孫をよく導いてやってくれ。
西暦1279年2月。Varshasbはその生涯をとじた。享年66. 後は孫のHazaraspが継いだ。 このHazaraspは後に「最も偉大な悪行」と呼ばれる大変なことをしでかすこととなる。