その結果、見事ゾロアスター教の聖地の1つFarsの奪還に成功したわけね。
はい、初のペルシア遠征は大成功でした。この勢いで進んでいきたいと思います。
だけど、Saffarid朝の大内乱も収束しちゃったのよね。今回は敵の混乱に乗じたから楽に勝てたけど、次はそううまくいくかしら…。
衰えつつあるとはいえ、まだまだSaffarid朝は強敵ですからね。それに、こちらには背後に2つも敵が控えている。
はい、我々が少しでも油断すれば、彼らは容赦なくかかってくるでしょう。
その通りです。ですが、我々も今や敵に劣らぬ勢力を築いています。上手く立ち回って敵の力を削いでいきましょう!
それにしても暇ですねえ。10年間の和平期間のせいでしばらくはSaffarid朝やアッバース家にも戦を仕掛けられない。
西暦1199年8月。Goshtasbは長くムスリムによって支配されてきたアフリカの地に真の信仰を根付かせることを宣言、アフリカ王Aghlabid家に聖戦を仕掛けた。
弱い者いじめ。
先帝Mehrazadの時代にアレクサンドリアをめぐって刃を交えて以来、20年ぶりぐらいになるアラビア皇帝とアフリカ王の戦となった。
アフリカの大地は数百年に渡る我らが同朋の善政の結果、民もイスラム教に慣れ親しんでいる。
それにもかかわらず、アラビア帝国は謂れなき理由をこじつけ、アフリカを侵略しようとしている。
アフリカ王との戦には、前話でBasra一帯を奪われ追いつめられていたアッバース家が敵方での参戦を表明した。 これにより、もぬけの空状態のアラビア帝国の都周辺がアッバース軍による略奪を受ける可能性が出てきた。 Goshtasbはアフリカ遠征の兵の一部を都の防衛に回すことを余儀なくされたのだ。
都周辺に警戒のため展開するアラビア軍。
しかし、それでもアラビア帝国軍はアフリカ王軍を圧倒していた。
アラビア帝国との国境地域は、アフリカ軍をはるかに凌駕する数のアラビア軍によって瞬く間のうちに包囲されたのだ。 これに、アフリカ王は悲痛の叫びをあげ、自家の滅亡を覚悟した。 そこへアラビア帝国から講和の使者が来た。
アラビア帝国からのこの提案は、滅びることも覚悟していたアフリカ王にとって、とても寛大なものに感じられた(実際は国土の4分の1の割譲というかなり大きなものだが)。 かくして西暦1201年初め。アラビア皇帝とアフリカ王が誓文に署名をし合い、講和が成立した。
西暦1203年。アッバース家との10年の和平期間の終わったアラビア帝国では、アッバース家に引導を渡すための戦の準備が行われていた。 諸侯たちは兵を連れ、続々と都へと参集してきていた。
おお、我が嫡子Esfandiarではないか。息災で何よりだ。
Goshtasb帝の長男Esfandiar。現在はBasra公を務める。誰からも愛され、父帝からも非常に期待される存在だった。
1203年8月。Goshtasbは第6次アッバース家討伐を宣言、アッバース家との最後となる予定の戦を開始した。 アッバースの王はアラビアとペルシアの国境にまたがるKermanshahの山岳地帯に籠り、敵軍の消耗を狙う。 そして…
父さん、Saffarid朝がアッバース家の保護を宣言、敵方で参戦してきましたぞ。
戦はBavandid家対Saffarid家の直接対決の様相を呈し始めたのであった。
ところが……
ウマイヤ家のカリフがシリアに対するジハードを発令したのは、今まさにアラビア軍とペルシア軍が激突しそうな時のことであった。
敵軍は続々とシリアへと上陸し、確認できる限りでも3万を超えます。
カリフの召集軍のみではなく、ウマイヤ家配下の諸侯も独自に兵を率いて参加しているので、確実に増えることでしょう。
おい、アッバースよ。Bavandidと講和するという噂は本当か?
これはSaffaridの皇帝陛下。本当ですよ。この辺りが潮時かと思いまして。
何をおっしゃられるかと思えば…。私は陛下の盟下にありますが、部下ではありません。あなたに我々のことを口を挟む権限はありませんよ。
そのようなことはありませんよ。我々はいつまでも陛下の良き盟友です。では、お引き取り下さい。
かくしてアラビア帝国とアッバース家との間で講和が結ばれた。 アッバース家が講和に応じた裏には、アラビア帝国との間で密約があったからだといわれる。
講和に応じることで、敵は数十年間は我々には攻め込まないと約束した。
講和が成立するとすぐに、アラビア軍はシリアへと向かった。 そして、イスラム連合軍との戦へと突入したのであった。
おらおらおらー!
敵の主力軍の撃破には成功したものの、潰しても潰しても続々と上陸してくるムスリム諸侯の軍には苦戦する。
お前らはいなごかよ…。
戦そのものは優勢ではあるものの、なかなか戦勝点を大きく引き上げられない(少数の敵軍を倒し続けてもたいしてスコアを稼げない…。)状況が続いた。
しかし…
カトリックどもがウマイヤ領のアキテーヌに対する十字軍を宣言しました!
これでウマイヤめはこちらに攻めている場合ではなくなった!朗報だ!!
ところが…
ペルシア帝国の参戦は、ウマイヤ軍がアキテーヌの防衛に向かったため戦力を大きく減らしたジハード軍を元気づけた。 参戦表明とともに、意気盛んなペルシア軍の大部隊がシリアへと向かってくる。 アラビア軍はそれを待ち構え、ペルシア軍と衝突した。
どうやらうちの領内を通ってくる間にペルシア軍は消耗したようだ…。補給限界には気を付けようよAI…。
この戦は、強行軍によって疲れ果てていたペルシア軍を終始圧倒したアラビア軍の勝利に終わった。
しかし悲劇が起こる。
Goshtasbの最愛の息子、皇太子EsfandiarがSaffaridとの会戦で受けた怪我がもとで急死したのは、対ジハード戦の勝利をGoshtasbが確信した時期のことだった。
ああ、Esfandiarよ。父より先に何故逝ってしまうのだ…。
Goshtasbは最愛の息子の死以来何も手がつかず、戦の指揮を配下に委ねて都に戻っていた。
息子の死からしばらくして、Goshtasbは息を引き取った。 病死と公表されているが、最愛の子の死が余程堪えたのであろう、精神的なショックが原因によるものであった。 ペルシア奪還の狼煙をあげた偉大なる皇帝の最期は、とても可哀想なものであった。 享年47。後は次男Goshtasbが継いだ。