AAR/フレイヤの末裔 AAR/フレイヤの末裔/盟主カルル(完結編)
「あらゆる危険は必ず不名誉を伴って終わる――死んでしまうか、生き残ってしまうかだ」
――『キャルネス家のサガ』第8章
外套越しにフィンランドの冷気が沁みる。クストーの湿った土にはぽつぽつとクロッカスの蕾が見えているから、ここではそれが春の気温だという事だった。
馬車から降りると、息子と近衛達を従えたフィンランド大族長・ホラーネが迎えた。彼らの表情は一様に硬い。
「はっ、もう四年近くに……
「四年か……随分待たせてしまったものだ、良くぞ持ち堪えてくれた」
砦の内側にホラーネが案内する。行き先はホラーネの邸ではない。
「幾らかでも安らげる様に急ぎ以て建てさせたのですが、何分、豊かとは言い難く……」
それは確かに大きくは無いが、フィンランドの良質なマツ材を使って丁寧に組まれたのが解る邸宅だった。 その前に立つ者がある。仕立ての良い清潔な白シャツを着た少年だった。
跪く彼の手には、一口の剣が握られていた。彼なりの正装という様子だった。
ホラーネが促そうとした時、少年……ローンヴァルドが立ち上がり、二人を制する様に、鞘に納めたままの剣を掲げた。
「それは、罷りなりません。猊下の御来訪はローンヴァルドの口から御伝え申し上げる、きっと御喜びになる」
ホラーネが咎める。しかし、ローンヴァルドの目に燃えるものが見えてもいた。 それが何か、フレイには判った。解っていた。そこで燃えているのは怒りの炎だった。
「盟主猊下をホーセンスから、はるばるフィンランドまで訪なわせた事は、父にとって無上にして最後の名誉となりましょう」
「であれば、これ以上の愚弄は控えられたい。それとも
余りの言い様にホラーネが泡を吹いて倒れそうな顔になる。しかし、フレイは飽くまで穏やかに応じた。 それは衒いでも何でもなく、フレイの本心から来るもので、この少年の怒りを真っ当なものと認めての事だった。
「……義叔父上の事は、申し訳なく思っている。余の父も、余自身も、汝らの復讐に十分な手を貸してはやれなかった」
「……馬鹿馬鹿しい。盟主猊下は余りに高く戴かれて足元が見えなくなられている」
ローンヴァルドは全身を戦慄かせ、手の骨が軋む程強く剣を握っている。今にも抜刀しそうになるのを抑えている。
「盟主」にではなく、
「貴方方は『
「ブリタニエの
「それとも、易々と
「十分な? 十分でない? 馬鹿にするな!!!! 死なずに勝てる戦しかせぬ者を臆病者と言うのだ!!」
「我らは"
「それをユランで暢気にしていた従兄殿が、今になって父上に何の用事だというのだ! 恥を知れ!!」
フレイはただ瞑目し、ぶつけられる全ての言葉を受け止めていた。飽くなき闘争心と復讐心、余りにも純粋なノルドの叫びを聞き流す訳にはいかなかった。
ローンヴァルドの顔がみるみる紅潮する。当然だった。サフォークを失陥した時には8歳の幼少、それから4年、フィンランドが戦場になった事はない。 「戦知らずの餓鬼が大口を叩いた」と言われたも同然だった。事実、その通りだった。
「だとして何だ……!? ローンヴァルドは残酷王の息子だ!! 大人になれば、一番多くの敵を血祭りに上げてみせる!」
ローンヴァルドはノルドの若者らしい覇気に満ちていた。フレイは薄く微笑む。 北海を隔てた島国で、百年もの長く、孤独な戦いを続けて来た英雄の氏族、その新たな長に、フレイは報いねばならなかった。
「ローンヴァルドをレヴァル族長に封じる。"
「"白シャツ"ハルフダンが斃れたラトガルの目前だ。お前が真に戦いを恐れぬというなら、宿恨を果たす機会もあるだろう」
「余はこれで去る……勇者・トティルの息子よ、次の大民会には必ず出席せよ」
背を向けるフレイに、ローンヴァルドは言葉を探していた。罵るべきか、礼を述べるべきか、解らないでいた。 しかし、ただ呆けたまま見送るわけにも行かなかった。そうしてやっと出て来たのは、嘗て意識を保っていた時に父が残した「予言」だった。
「盟主・フレイに、我が父・トティルの予言を御伝え申し上げる」
「インガは、シフに呪われた……と。その呪いを払えなければ、スカンディアは再び混迷へ落ちるだろう、と」
「心得た……その呪い、余が命を掛けて退けよう。スカンディアの迎えるべき新たな時代の為、余は喜んで
フレイにホラーネが慌てて続く。誰を庇おうとしているのか、必死に言い訳めいた事を言っているが、重要ではない。 フレイにとって重要なのは、アストリドやローンヴァルド、そしてインガ……カルル亡き後のスカンディアを担う、若きノルド達の時代を作る事だけだった。
(……我々は『前触れ』であれば良い。そうでしたな、父上……)
スカンディアの春は短い。より多くの芽吹きに実を付けさせねばならなかった。
988年、即位から5年後の盟主フレイ。少々臆病な所はあるが、社交的で賢明な人物であったと伝えられている。
盟主、或いは「聖帝」フレイ。前帝カルルが崩御した時点で彼は既に53歳と高齢であったが、カルルの治世の時代と重なる彼の若年期について語る史料は非常に少ない。皇太子として父の補佐を務めていたと言われているが、後世の研究者の中にはカルルの功績と伝えられるもののうち何割かがフレイのものであると考える者もいる。 ともかく、フレイはノルドの求める、若く強い指導者とはとても言えなかった。それでも彼が後継者として指名されたのは、「インガの父親」であったからに他ならないだろう。フレイ自身もそれを理解していたのか、彼の長くない治世は「インガの治世の為の準備期間」に徹したものだった。
最初に行ったのはヨムス・ヴァイキングへの寄進である。純粋な宗教戦力であるヨムスへの寄進は、盟主であるスカンジナヴィア帝が聖界に対する庇護の意思を堅持している事を確認させ、特に神官達の忠誠心を高めた。フレイに贈られた「聖帝」の尊称も主にこの事によるだろう。
また、フレイはノルド達によって漠然と「盟約」と呼ばれていた新たな信仰を「ゲルマンの盟約」と呼ぶ様に促し、彼らの信仰が古くはローマ帝国に「
続けて行ったのは、カルル帝最後の勅令で編成が進められていたブリテン島への遠征艦隊の解散、つまり、トティル王への援護の打ち切りである。 シグルド2世による東フランクへの聖戦はスウェーデン有利に進んでいるが、スカンジナヴィアは依然として国内カソリックの暴動の鎮圧に兵を割かねばならず、これを終わらせるまでにサフォークが持ち堪える事はないだろうという判断である。
更に、フレイが即位して間もなく明けた984年の年始……
ネヘレニア戦争によって割譲され、スカンジナヴィアから遠く離れた飛び地となっているゼーラントで、フリギア人による大規模な暴動が発生したのである。 彼らはノルドやフランクのくびきから、カソリック国家としてフリギアを解放する事を宣言。訓練された多くの騎士や兵士が参加し、当時では一国の軍隊として見ても十分に強大な1万人規模の戦力でゼーラントを占領した。そして、割譲を求めてスカンジナヴィア本土への進軍を開始したのである。 シグルド2世はこれの迎撃に手を貸す事を約束したが、それであってもスカンジナヴィア帝国軍も軍力を結集する必要がある規模の暴動であり、とてもブリテン島に援軍を出している余裕は無かったのである。
そしてそれから4ヶ月……
ヨルヴィクの残酷王・トティルは最後の版図であるサフォークを喪失し、嘗てブリテン島を恐怖に陥れた大鴉旗は残らず焼き尽くされたのである。
トティルは長男・ローンヴァルドと共にフィンランドに落ち延び、アフ・ハイコネン氏族に身を寄せたという。 しかし、大異教軍の長として最後まで戦い抜いた英雄のその後を語る資料はない。
同年6月。
ダンツィヒで帝国軍と戦い、その大部分を失いながらもバルト南岸地域を逃げ回ったカソリック暴徒は扇動を繰り返した。それにフリギア人の蜂起を知って更に勢いを得た5000人のカソリック教徒がブランデンブルクでも決起。暴動は際限なく拡大するかに見えた。 しかし、彼らは決起して間もなく、即座に鎮圧される。
彼らが集結したグライフスヴァルトに、丁度ヨムス・ヴァイキングを雇って編成に加えたばかりの東カレーレン族長の軍が通り掛ったのである。 この軍団はスカンジナヴィア帝の徴集兵ではなく、帝国軍本隊に気を向けていたカソリック暴徒達は完全な不意打ちを受ける形となった……と記録されているが、なぜ遠くフィンランドの東に位置する東カレーレンが、ブランデンブルクに兵を進めていたのかは良く解っていない(ゲーム上はTribalでもないのに、AIが軍団をこっちに送って来ている理由が全く解らんかったです……しかもヨムス雇ってるし……)。 ともかく、この戦いでカソリックの暴動は大きく勢いを失い、スカンジナヴィア軍本隊は来るフリギアの叛徒達に戦力を集中する態勢が整った。
同年11月。スカンジナヴィア軍・約10000名が、ホルステンに上陸したフリギア人・約9000名を迎撃。 中央部隊が壊走するも、未だ現役で武勇を誇るトステ率いる左翼部隊の働きで激戦を制する。
翌年1月にはカソリックの暴動も完全に鎮圧され、フリギア暴徒の残党も2月中に滅ぼされた。
その前後に、一つの事件が起こる。
&ref(): File not found: "不審死1.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";
フレイヤとバグセクの時代からフローニに忠労を尽くして来たユート氏族の長としてフィンランド王位を授けられたアヌンドルが、不審死したのである。
フィンランド王位は相続法が改められる前にアヌンドルに与えられたものだった為に分割相続制を維持しており、そのまま長男・ビョルンに継承された。 ビョルンは「これはフレイ帝による暗殺である」と主張、一方のフレイはビョルンを「王位欲しさの親殺し」と呼び、お互いを犯人として名指し合う形となった。
真相は今もって不明だが、野心的な息子による親殺しという動機は歴史に枚挙の暇がなく、いかにも説得力がある。 しかし、ビョルンの主張の方も全く無根拠のものでもなかった。その根拠とは、前帝・カルルの布いた「選挙相続法」である。
前稿でも解説した通り、この相続法に於いては「優れたノルドによる支配」の理念の下、全ての皇子・皇女だけでなく、王と大族長も潜在的な継承候補者と看做される。人気と能力次第では、氏族に関わらず帝位獲得の機会が与えられているのである。 フレイは当然、長女・インガを指名し、彼女を宮廷預言者に採用してキャリアを積ませてもいる。しかし、フレイが即位した時、フィンランド王・アヌンドルは既に14年の治世で大族長達の信望を得ており「老境で漸く帝位に就いたフレイが『王たるべき者』の何を知るものか、しかも長男を差し置いて指名したのは女ではないか」と侮る者も多く、思う様にインガに票を集められないでいたのである。
つまり、強力な対抗馬であるアヌンドルを恐れての暗殺だというのが、ビョルンの主張だったのである。
相次いだ暴動の鎮圧で消耗した帝軍。そしてアヌンドル王の不審死。 この二つが重なった事が、更なる事態をスカンジナヴィアに引き起こす事となる。
985年5月。嘗てグンビョルンによって偶然に発見された未知の島に、ノルド人の入植が開始された。 それを扇動したのは、殺人の罪で平和喪失刑に処された「赤毛のエイリク」なるアイスランド人であったという。
グリーンランドがその名に反して、氷河と万年雪とツンドラに覆われた苛酷の地であるのは今日の誰もが知る通りだが、それはエイリクが入植者を募る為に、新天地をいかにも豊かさを思わせるその名前で呼んだ事によると言われている。しかし「当時の欧州は温暖期であった為に実際に緑に覆われていた」という説もあり、ヴァイキング時代の始まりを温暖期による人口の過剰な増加に求める説と併せて考えれば、そちらにも説得力がある。
何れにせよ、ヴァイキング達の飽くなき冒険心はこうして欧州の外側にまで拡大して行ったのである。
986年9月下旬。 戦費と兵力の回復の為、未だスウェーデンが「聖戦」を戦う東フランクで、略奪を命じて約1年半。
「偉大なる
「しかし、カルルは帝王としてただ一つ、行わずにいた事がある!」
「このデルグンは
「盟主フレイよ! 天と地の威を違えず、我らを解きたまえ! 我らはこの地に、聖帝の聖なるを認めるも、帝なるを認めぬものである!!」
「愚かなりデルグン。親殺しのビョルンに惑わされ、フローニに弓引こうとは」
「ノルドとは今やスカジの地を故郷とする者達だけを意味しない。フローニの冠を戴く全ての場所に在る者がノルドなのだ」
エストニア西部、レヴァルの族長・デルグンが、独立を求めて蜂起した。この乱には、ホルムガルドに残るスラヴ系の族長達、大族長位を欲するスコーネ族長、そして何よりフィンランド王・ビョルンが結託し、その兵力は消耗から回復し切ったとは言えない帝軍と拮抗する規模となっていた。 ビョルンがどの段階で独立派に盟していたのかは不明だが、この叛乱そのものの真の首謀者はビョルンで間違いないだろう。アヌンドル暗殺の黒幕がビョルンであるとすれば、それによって若くして王位を継承し、フレイ帝に反旗を翻す口実も得られる一石二鳥の策であったとも見えるのだ。
こうしてスカンジナヴィアを東西に割った、「デルグンの乱」は始まった。
スコーネ族長に導かれたフィン人とスラヴ人の各軍勢はユラン北部で合流し、蜂起から1年程でホーセンス城を占領。 しかし、その中にフレイの姿は無く、それどころか衛兵以外には殆ど誰も残っていなかったという。
「いっひっひっひ、身内とやれる機会なんて滅多にあるもんじゃねえ! だったら、細かいのをちびちび潰すしょぼい戦なんてナシだぜ!」
「どうせならお互い、派手にやろうや!! まあそっちは沼地越えに島歩きでくたくただろうがなあ!!!!」
それはビョルンと同じユート氏族の大族長であり帝軍元帥であるトステの提案によるものだった。 ホーセンスを囮にして叛乱軍が集結するのをブレーメンとハンブルグで(略奪をしながら)待ち、東方への苛酷な進軍をせぬまま一挙に叩く策であった。 987年11月……帝軍・約7000名と叛乱軍・約6000名は、ランダースで決戦となった。
西進で疲労した叛乱軍を、体力を温存していた帝軍が圧倒、副長を務めていたデルグンの長男・マルヤカも捕縛する圧勝であった。 追撃戦は翌年の2月まで続けられたが、最終的には叛乱軍は崩壊。頭目のデルグンを初め、それに与した者達全員が逮捕される事となった。
彼らは所領を取り上げられ、多くは身代金と引き換えに釈放される事となったが、フィンランド王・ビョルンだけは例外だった。
「ユートの若き
「フィンの王冠がユートに預けられたのはその絆あってこそ。野心から父を殺し、フローニに切先を向けた罪を、その絆の下に我は許そう」
「そしてユートが如何にしてフローニに忠誠を尽くした氏族であるかを理解した時、王冠は再び汝に与えられるだろう」
ビョルンはフィンランド王位の剥奪のみで釈放され、身代金も取られず、大族長としての地位も安堵されたのである。 この、氏族の絆を重んじる寛大な処置に他の族長達は感動し、老いた身で玉座に就くも叛乱を制した事も併せてフレイの信望は多いに高まった。
帝位継承の選挙はそのフレイが推すインガへの支持が圧倒的となり、皮肉にも、この叛乱によって女帝の誕生がほぼ確実となったのである。 ビョルンは気も狂わんばかりに悔しがったが、王としての地位も兵力も喪失した彼にできる事は、ケックスホルム大族長として自らに票を投じる事のみであった。
ケックスホルム大族長・ビョルン。 彼は猜疑的で怨念深い性格から「悪魔憑き」とも呼ばれたというが、フレイとインガを神聖化する為に大袈裟に書かれていると思しい部分もある。
因みに、この叛乱で剥奪された所領には、忠誠心が高く、ゲルマン信仰に篤い者達が封じられた。 そのうち、叛乱首謀者・デルグンの所領であったレヴァルには……
あの残酷王・トティルの長男、ローンヴァルドが封じられ、"
少々遡って986年の11月中旬、東フランクにブリュンシュヴィックを求めるスウェーデンの聖戦。
東フランクの広い版図の占領に時間は掛かりながらも、スウェーデンは終始優勢に進めており、スカンジナヴィア軍はノルド世界とフランクの境となっているブレーメンとハンブルグで略奪に勤しんでいた。 しかし、この頃から年末に掛けて、スウェーデンは何故か急に東フランクから撤兵したのである。
この時、スカンジナヴィア帝国はデルグンの乱が起こったばかりで、宮廷は状況把握と対処法の議論に慌しくなっていた。 スウェーデンに事情の説明を求める遣いは送ったものの、長らく返答はなく、そのうちホーセンス城を一時放棄した事で確認は完全に遅れていた。
そして叛乱の鎮圧され、事後処理も落ち着きつつあった988年の3月、スウェーデンからの遣いがホーセンスに現れ、彼の携えて来た言葉が宮廷の全ての者を驚愕させた。
シグルド2世は反盟主を宣言し、聖戦を放棄していたのである。 余りにも唐突な棄教で、その理由は推測するしかないが、シグルド2世はここまでの数年で、王位継承権を求めて次男・ウルフの暗殺を試みた三男・アヌンドルを投獄し、そのまま釈放する事無く獄死させ、しかしそうして守った次男も987年中に病で喪っている(因みに、長男は成人を待たずして夭折している)。加えて、動機を示す史料はないが、西ゴートラント大族長に嫁いだ姪・トーラの暗殺にも関与している疑惑があった。 肉親との骨肉の争いと子供達の死がシグルド2世を絶望させ、その悲劇に対して何の加護を与える事もできなかった盟約と盟主に背を向ける事を選ばせたのではないだろうか。
しかし、この棄教はシグルド2世の個人的なもので、スウェーデン国内では依然として盟主を認める者達が圧倒的多数派であった。それは、当時の若きウプサラ神官・ラーンフリドもそうであった。
シグルド2世は既に67歳、崩御がいつであってもおかしくはなかったが、シグルドがその気になれば崩御の前に、ウプサラに反盟主の神官を叙任する事も有り得た。そうなれば、盟主と盟約による「ゲルマンの信仰」は大きく威信を傷付けられる事となる。 そうして、フローニによる三度目の、「ウプサラを求める戦争」が起こったのである。
「我が父・カルルの友、ウプサラを預けられし者、スウェーデンを良く統べたもう一人の
「如何な故あって盟に背き、あまつさえ氏族を二つに裂こうというのか」
&ref(): File not found: "Sigrud.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";「聖なるフレイよ、お前には解るまい。"
&ref(): File not found: "Sigrud.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";「お前も、氏族も、盟約も、誰も我が子を守ってはくれなかった。病から、悪心を持つ事から、死から! 守る事はできなかったのだ!」
&ref(): File not found: "Sigrud.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";「盟約とは神々の加護を盟主座から恵むものでなく、税の如く信仰をお前に徴収されるものであるなら!!」
&ref(): File not found: "Sigrud.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";「宣言せよ、聖なるフレイ! エーシルとヴァニルの名の下に、これは聖戦なのだと!!」
&ref(): File not found: "Sigrud.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";「俺は、神々が望む我が子と我が死を、俺の絶望によって覆すのだから!」
「……
「これは聖戦である。エーシルとヴァニルの仲介者、スカンジナヴィア皇帝・フレイが命じる」
……フレイは常駐軍と直轄領の徴集兵のみで軍団を編成し、ウプランドへ進めさせる。その道中、ハルムステッドで野戦となる。
&ref(): File not found: "ハルムステッドの戦い.png" at page "AAR/フレイヤの末裔/盟主フレイ";
そしてこれに勝利。また、6月にはシグルド2世に呼応したのか、モスクワで、4000人規模の反盟主暴動が発生する。
余りに遠方である事もあってフレイはこれをスウェーデン戦の終結まで無視する。
そして、11月……
シグルド2世、崩御。
「ウプサラに選ばれた」と言われ、「大王」と讃えられた「もう一人の
スウェーデン王位を継承したのはシグルド2世の四男・ビョルン3世である。
シグルド2世の4人の息子達の中でも最もできが悪く、愚鈍という評価は家臣達にも一致していた様である。
フレイはビョルン3世に、改めて盟主座への拝跪を行わせた。 そしてスカンジナヴィアとスウェーデンの和平と友好の証に、帝位継承予定者であるインガと、ビョルン3世の長男・ハルステンの、女系結婚の約束が交わされたのである*1。
ハルステンは当時11歳、インガは29歳であったので、18歳もの「年の差婚」であったが、この二人に子が生まれれば、その子はスカンジナヴィア帝位とスウェーデン王位の両方の継承予定者となる。 これは、嘗て服属戦争によって行われた「二つのフローニの合流」と「全スカンジナヴィアの統一」が、無血で果たされる未来を意味していた。
988年末、暴動を鎮圧する為に約6000名の軍団がモスクワへ派遣される事が決まる。 その余りの距離に、モスクワ到達までに丸一年の行軍が必要であったと言われている。
暴徒はモスクワを完全に占領し、ウラジミールの包囲も進めていた。帝軍は西側からその集団を攻撃。 長い行軍で疲労しながらも、トステに率いられた軍団は圧倒的な武力で暴徒を蹴散らし、鎮圧も直ぐに終わると考えられた。
そんな、990年3月末……
あらゆる儀式が、あらゆる呪術が、密かに行われた。トティルの予言した「シフの呪い」を退ける為に、様式を問わずあらゆる手が尽くされた。 フレイは寝台でその成果を確認し、朦朧とする意識の中で笑っていた。
フレイの全身は瘡蓋と見紛うほど固化した無数の赤斑で覆われている。表面化した病の進行は余りにも早く、今や末期的だった。 「麻疹」……一人に一度しか罹らず、若齢者の通過儀礼の一つの様に思われるそのありふれた病は、しかし老体が被れば深刻な死病と化すのだ。 老いたフレイの残り少ない生気を食い散らかす様に、その「呪い」が身体を蝕んでいた。
フレイは、うわ言の様に呟く。
「民にも、父にも、ステンボックのリンダと比較され続け……我が子に与えられる筈だった財産も奪われた事は、さぞ無念だった事でしょう……」
「しかし、インガは……スカンディアの、ノルドの希望……全ての王冠は、彼女に与えられねばならない……」
「代わりに、リンダの長子、このフレイが、貴方の
フレイは、インガに降り掛かる筈であったろうそれの身代わりとなれた事を確信し、満足に笑っていた。 そして、笑いながら死んだ。儀式の、呪術の成功を確信したまま、満足の内に死んだ。
しかし、伝染を防ぐ為に覆面をしてそれを見送る神官達と、インガの内心は、暗澹としていた。
最初に述べた通り、7年という長くない治世をフレイは世代交代の準備に費やした。 史料は聖帝の最期がどの様なものだったかを詳しくは語っていないが、フレイの準備の甲斐あって、カルルの悲願通りにスカンジナヴィア帝位とデンマーク・ノルウェー・ポメラニア王位、そして盟主座をインガが継承した。フィンランド王位はカルルによってアヌンドルに与えられていた為、分割相続制を維持しており、それはフレイの末子であるインガの弟・ヘルギに継承されたが、仮に十分な時間があればこれもインガに与えられる予定であっただろう。 また、継承選挙だけでなく、先述したローンヴァルドのレヴァル族長授封や、崩御の直前にカルルの約束通り行ったアストリドのホルムガルド大族長位授封も含め、「若いノルド」に活躍の場を与える事を自分の使命と考えていた様に思われる。
そして、千年紀の終わりを当に目前として、才華にして美貌の女盟主・インガが誕生したのである。
AAR/フレイヤの末裔/盟主インガ(前編)に続け……!! |