スウェーデン、ナールケ族領はオーレブロの街。少々遠回りになるが、インガはウプランドへ行く前に必ずここに立ち寄る事にしている。
インガの形の良い唇から漏れた溜息は、立ち昇る湯気を小さく揺らして消えた。
脱いだものを
凝りもせずにゴルムが軽口を叩く。温かい湧き水が出るこの場所は、「フロージの平和」の時代から、戦士達が唯一武器を手放して交流する「絶対不戦の地」として親しまれ、今でもナールケの戦士達が出征前にここで背中を流し合って結束を強める事から言っているのだ。尤も、この日はインガとその近衛達以外にこの浴室に入る者はいない。 インガは身体を湯に沈めながら、その軽口を聞く。それは軽口だったが、インガにとっては確かにそんな心地でもあった。
インガは長い脚を伸ばして、水上に魅惑的なアーチを描く。美しい脚線をなぞって落ちる水滴が浴場に跳ね音を響かせる。
「最強無比の兵器と、このゴルムには見えますが……はて、ハートゥナはそれほどの堅城でありましたか」
ある種の美形は、笑顔以外の表情にこそ良く映える。インガの場合はこうして、憂いに翳った時が真価だった。責任感の強いインガは公式の場では真面目顔を崩さないから、それ以外の表情を眺められる近衛職を役得とは思いながらも、こういう時にゴルムは困ってしまう。インガが焦っているのを知っているからだ。
「では、焦らずとも。ハルステン様とて男なのですからいつかは……」
インガが立ち上がる。彼女の背には、紅い斑が浮かんでいた。温められた膚の上気した色ではない、もっと深く、禍々しく、病的な紅だった。
その病斑は、呻く人の顔を象って、インガの美と命を、フローニを、呪っている様に見えた。
「……私は退けると誓ったのよ。『シフの呪い』を、この国の全ての災いを、必ず」
それは女の戦いだった。ゴルムには、何を言う事も、助太刀を出す事も、できないのだった。
「インガの戴冠はミッデルブルクで壮麗に行われた」と「フローニの史書」にはある。ミッデルブルクはゼーラントの城砦都市である。盟主座の創設に関わる宗教的要所であり、ネヘレニアという「女神」にインガという「女帝」を擬える意味を兼ねて選ばれた場所だったのだろう。
所で、この史書は宮廷神官達によって連綿と著されたフローニ家の記録であるが、その具体的な記述はフレイの代から始まっており*1、その最初の記述を任されたのはインガであると考えられている。シソ・クイムシソンの「フローニ家のサガ」が(「サガ」であるので当たり前なのだが)読み物としても興味深い、半ば小説的な作品であるのに対し、これは純粋な史料としてそれぞれの事績を数行で簡潔に述べており、本稿作成の上で最重要の参考物である。カルルとフレイが彼女の頭脳に期待した「ノルド世界の近代化」という使命は、こういった形で数多く残されている。
ともかく、インガはその戴冠式でルーン石碑の建立を命じた。先帝・フレイを讃えるその石碑は、それまでのルーン石碑と比較すれば異質な程精巧な意匠で刻まれており、現在でも観光資源としてその美しさは人々を惹き付けて止まない。
その石碑が制作されるうちに、フレイの代で終わらなかった、モスクワの暴動が鎮圧されている。 しかし、それに前後してフィンランド中部・タヴァステフスで小規模な暴動が起こる。
軍団はそのまま北上を命じられ、これを鎮圧。そして常備軍を残して解散させられた。
インガはそのままフィンランド北部、コーラへ常備軍の移動を命じる。そして、それを圧力に、アンラウフとカルルによって行われたフィンランド平定で取りこぼされたカンタラーティの併合を族長・アーギに要求した。アーギは熱心なスオメヌスコ信仰者であり、ゲルマン信仰への改宗、或いは弾圧法による所領剥奪を意味するこれを拒否。徹底抗戦を宣言した。これを受けて、インガはコーラ大族長・ゴルムのデジュリ請求権を行使した。
それから僅か20日でアーギは身柄を拘束され、フィンランド全土が帝国(及びスウェーデン)の支配下に入る事となった。991年、6月頃の事だった。
その直後にホルムガルド大族長・アストリドがベロ・オゼロに聖戦を宣言。リューリクの果たせなかった「ルーシ王国」の建国を胸に戦いを始めていた。 そして9月、常備軍が帰着するのを待っていたホーセンス宮廷は早馬の報せを受ける。
軍団長・トステは、老年を押して行ったこの遠征で深い戦創を負い、帰途の馬上で大量の血を吐くと、大笑の後……
そう呟いて意識を失い、程無く落命したのだという。
人生の大半を戦場で過ごした、ユート氏族最強の戦士・トステ。 生粋の前線指揮官という印象があるが、一時は野心に燃えて帝国内での領土争いに積極的だった事もあり、戦場から自領土へ指示を出して拡張させる事もしていた。 元はメクレンブルク大族長であったが、そうしてオストランデも獲得し、その後にカルルに諌められてメクレンブルク大族長位をアヌンドルに譲っている。 それはカルルとトステの友情を深めたとされているが、フィンランド王位がアヌンドルに与えられた事や私闘禁止法の施行は、トステを恐れての事だったとも言われている。
君主であり親友でもあったカルル、その子・フレイ、そしてインガと、盟主三代に仕え、キリスト教徒達を恐怖させ続けた大戦士の死の報は、69歳という高齢死であったにも関わらず全欧州を驚かせた。そしてカルル同様にその死を信じられない者達によって伝説化され、「今日もカルルと共にどこかの戦場に紛れ込んでいる」と語り継がれた。
…………しかし、中フランク王・クロターレはそういった伝説を信じない人物であった様である。
「蛮族の女王にして異教の首魁なるインガよ! これは正式な宣戦布告である!」
「その汚れた冠をゼーラントで被ったそうだな!
「我が父・ズビネックの無念と、キリストの神罰を恐れるならば、早々に尻尾を巻いてフランクから逃げ出すが良い!」
「さもなくば、来たる新たな千年紀を汝らが迎える事は永遠に無いと知れ!」
992年2月。病死したズビネック悪王の長子・クロターレ不徳王は、父・ズビネック悪王の死で中フランク王冠を継承し、その戴冠と同時にゼーラント奪還の聖戦を宣言したのである(なお、ズビネック王の保持していたバヴァリア王冠は次男・ペルリム2世に分割継承されている)。ネヘレニア戦争でノルド軍に倍するキリスト教連合軍を下し、西フランク王の首級を獲ったトステの死もきっかけだっただろう事は想像に難くない。
クロターレ不徳王。腰が低く無欲だが、短気で気分屋な小人物だったという。 それにしても「ペルリム残酷王」、「ズビネック悪王」そして「クロターレ不徳王」と、モイミル朝の中フランク王には不名誉な仇名が続いている。
同じくモイミル朝であるバイエルン王・ギルバート(当時10歳)とボヘミア公・ウラジミール(ボヘミア王はプラハ伯であり、別人)、そしてズビネックの積極的な結婚外交によって姻族関係となっているイングランド王・オスムンドとウェセックス王・イードレッドが参戦を表明した。
「ゼーラントの長い戦い」、この戦いはそう呼ばれている。
中フランク軍・約3500名がゼーラントを占拠。インガはこれを受け、婚約者であるスウェーデン王・ハルステンに援軍を要請、約1万のノルド軍で奪還に向かった。
中フランク軍は慌てて兵を南へ動かして援軍到着までの時間を稼いだ。しかし、マーストリヒトの会戦で自軍兵力をほぼ完全に破壊される。 そうこうしているうちに……
本土で編成の勧められていた更なるノルドの徴集軍・約8000名が中フランク領内に侵入。その後も増援は送り込まれ、合計2万名のノルド軍で占領を開始した。 クロターレは参戦した同盟者達に幾度も援軍の催促を送ったが、この余りの兵力に全ての勢力が何かと理由をつけて兵を出し渋り、結果……
翌年12月には王都・ルクセンブルクを含めた多くの領地がノルドによって占領され、中フランクの敗戦は決定的となった。
しかし、この戦争はその3年後の996年まで継続される事となる。それは何故か?
この状況が、インガの国内統制に非常に好都合だったからである。 インガは戴冠して間もない女帝であり、家臣達からの信頼が十分であったとは言い難かった。しかし、「キリスト教徒の侵略を受けている」という状況はスカンジナヴィアのノルドの結束を多いに強め、それがそのまま彼女への求心に繋がっていたのである*2。 インガはこれを利用して国内に積極的に「キリスト教徒の脅威」を宣伝し、民会に更なるの帝権・王権の拡大や、それまで免除されていた族長達への課税義務など、無数の法案を通し続けた。加えて、十分な占領を進めた後には軍をゼーラントで一時休ませ、そこから中フランク内のあらゆる富を搾り取らんと略奪を開始。スカンジナヴィアの国庫は膨大な略奪品と身代金で溢れ返り、これを投じて国内施設の充実も進められた。この時にインガによってランダースに創立されたスカンジナヴィア初の大学は、今日も「ユラン大学」として北欧知の最高峰で有り続けている。
皮肉にも、クロターレの迂闊な聖戦は、スカンジナヴィアの近代化を急速に進める原動力となり、「ネヘレニア戦争」を超える蹂躙に国土を晒す原因となったのである。
スウェーデン王・ハルステンとインガの結婚式。ハルステンは父同様に愚鈍と言われてはいたが、勤勉で勇敢な人柄から多くの臣民に愛されていた。
この戦いの序盤中、993年10月にスウェーデン王・ハルステンが成人、親政が開始されると共に正式な婚姻が結ばれ、族長達は財宝を貢いでこれを祝福した。 スウェーデン王冠は未だ帝冠の支配下にはなかったが、二人はスカンジナヴィア全土の共同統治を開始する。
そして、994年5月、またもロシア領で旧信仰の原理主義者による反盟主決起が起こる。これには少数のスカンジナヴィア軍に先導されたスウェーデン軍が鎮圧に向かい、995年中に決着がついている。
その後、先述の通りに996年6月、一通りの法案を通し、十分な略奪を済ませたインガは漸くで終戦を宣言、既に疲弊し尽くしていた中フランクから
「ゼーラントの長い戦い」は、ここまでを「前半戦」とする。
997年1月下旬、戦争と略奪の爪痕癒えぬ中フランクは、スウェーデン王・ハルステンのゲルレを求める聖戦の宣告に悲鳴を上げた。ここからが、「後半戦」となる。 しかし、この戦いはインガの望むものではなかった……というのも、インガには大きな悩みがあったのである。
当時のノルウェーの選挙状況。インガの弟である美貌のフィンランド王・ヘルギが票をほぼ独占している。
スカンジナヴィアを本当の意味で統一する為に必要な、継嗣が不在だったのである。
当然と言えば当然で、インガはハルステンの成人前から政務に忙殺されており、成人後にもなかなか寝所を共にする時間が取れずにいた。当然、結婚初夜はあったが、ハルステンは肉体の成長に反して精神的には子供そのもので、ベッドに入ると、酒に酔いもあってか、インガに腕の枕を貸して、すやすやと寝息を立ててしまったというのである。
ハルステンの成人時、インガは34歳。この時代ではかなりの晩婚であると言えるが、その豊満な肉体と美貌は衰える事無く多くのノルド達を魅了し、その才能の豊かさも合わせて
インガは「シフの呪い」……そう呼ばれた病に罹っていたのである。 四肢を伝って紅い斑が広まり、身体に硬い腫れ物が表れ……と、記録によればその症状は「梅毒」に酷似しているが、具体的な事は不明である*3。ともかく、その病は、リンダ妃の死後にカルル帝の取った後妻・シフ妃が倒れた疫病と全く同種のものだったという。 家臣達はこれを、カルル帝に省みられる事の無かったシフ妃の死後の復讐であると考え、大いに恐れた。症状を止めるあらゆる方策が取られたが、医療の未発達なこの時代では甲斐も空しく、インガの命は刻々と削られていたのである。
インガは当然、この聖戦に援軍を出し、万に一つでもハルステンを戦死させず、速やかに決着を付けさせようとしていた。中フランクに抵抗する力は最早無かったが、送り込まれた兵力は前半戦で用いられたものに匹敵する規模であったという。 野戦を制した後は占領も順調に進み、ハルステンもユランに滞在する時間が増えた。そして……
998年8月、インガの妊娠が帝国中を喜ばせたのである。 インガはこの時38歳。フローニ家は多子の家系であるが、彼女が授かるのはこの子のみであろうと考えられた。
AAR/フレイヤの末裔/盟主インガ(後編)に続く見込みがあるとも考えられています。 |