AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR

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ファーティマ! ファーティマ!!                                     -Fatimah-

普通なラマダン

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西暦911年

ファーティマ朝初代スルタン・フサインが崩御。 2代スルタンとなったのは、フサインの縁戚であり十二イマームの血筋であるラマダンであった。 彼の即位をもって、イスマイール派と十二イマーム派は統合されていく事になる。

43歳壮年での即位であり、シャイフ領の経営もこなしてきた事から、即位まもないにも関わらず その支配は磐石からの始まりであった。

西暦912年

スルタン・ラマダンの長男であり相続人であったムーサが7月19日、al-アルマーニ首長国との戦闘で死亡した。享年27歳。

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ムーサ・イブン・ラマダン 軍を率いる事に優れ、また策略にも通じ、戦場で大いに活躍したという。

嫡子の死に嘆きながらもラマダンは戦争を継続し、al-アルマーニ首長よりマダバを奪った。

同年、ラマダンはハッジ(メッカへの巡礼)を行なった。

西暦913年

ラマダンの母親Sajidaが8月17日、自然死した。享年62歳。

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サジダ アルマフラクのシャイフ・ハサンの妻。 寛容な人物でエルサレムのユダヤ・キリスト教徒を迫害から保護したという。

母の死に嘆きながらもラマダンはスレイマン首長国との戦争に向かった。

西暦914年

スレイマン首長国よりトルトサを奪った。

西暦915年

3つの頭を持つヤギがドルーズで生まれた。

西暦916年

ファーティマ朝スルタンのスルタンラマダンは、 Hilalid首長国、al-アルマーニBeylerbeylik、アラビア太守との戦争を始める。

西暦919年

スルタン・ラマダンの三男であり相続人であったイルビドのシャイフ・アブドゥル=ワハブが12月6日、大病で死亡した。享年30歳。 イルビドのシャイフ領はアブドゥルの長男アザムが相続し、ラマダンは彼を後継者として指名した。 すると、家臣達から猛反発が起こった。 ラマダンがスルタン即位の条件をアザムにつけた事で、一応の収拾となったのだが・・・

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アザム

後の3代目スルタン・学者たるアザムその人。 ラマダンの孫世代で最も有能な人物として高名であり、彼が後継者として 指名されるのは最も話だったが・・・

西暦920年

ラマダンの妻Zaynabが8月20日、自然死した。 戦場で妻の死に嘆きながらもラマダンはアラビア太守からマーンを奪った。

西暦921年

アル・アルマーニからアル・カラクを奪った。

西暦923年

Hilalid首長国からヘブロンを奪った。

西暦924年

ダマスカスで人々が月の上で踊っている奇妙な形を見たとの話を聞いた。

西暦925年

巨人はアルマフラクでいくつかの村を破壊したが、その後跡形もなく消えた。

西暦926年

星は3頭の牛を殺し、ベイルートの空から落ちた。

西暦927年

スルタン・ラマダンはメディナ太守ハーシム家の後継問題に介入し、自らが推す人物をメディナ太守に据え、 その影響力をメッカにまで広めようと考えていた。

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※当時の勢力図

ところが自らの主君であるアッバース朝アラビア帝国皇帝アル=ムゥタッズ(Al-Mu'tazz II)が、これに異を唱え 現メディナ太守ジャビールが正統な太守であり、ラマダンに即刻諍いを止めるよう通告してきた。

これに激怒したラマダンはハーシム家のイーサー(Isa)を擁し、軍勢をバクダッドへと向け皇帝と開戦。 後の第一次シリア造反事件である。

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イーサー ハーシム家のイーサー。 現メディナ太守ジャビールの従兄弟にあたり、 父の代からシリア王国領であるガリラヤ太守の地位を授かっていた。 ちなみに名前のイーサーとは、イエス・キリストのアラビア呼名である。

西暦928年

スルタンラマダンの主君であり敵対者アル=ムゥタッズが、4月8日に肺炎で死亡した。 皇帝位はアル=ムゥタッズの長男ムザファッディーンが継いだ。 即位当時19歳の若者であった新皇帝では、老練なラマダンの相手をするには 力不足と思われたが、皇帝は隣国でありスンニ派最大の勢力を誇るサッファール朝の姫を娶り サッファール朝より援軍を得る事に成功する。

これによってファーティマ朝が当初、目論でいた早期終戦の道筋は絶え、 泥沼の長期戦と化し、戦場には屍の山が築かれ続けた。

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サッファール朝 史実においては、銅細工師という身分から一代で這い上がった英主ヤアクーブによって成立した王朝。 この世界においては、バルチスタン、アフガニスタン、ペルシアの3つの地方を支配下に置き その総兵力は3万とは4万ともされる。

西暦929年

害鳥の群れは何千もの農家の分野に多くの被害を引き起こし、ちょうど収穫前パルミラに侵入しました。

西暦930年

ファーティマ朝シリアは今年、非常に豊作を恵まれた。

西暦931年

地球は200人もの農民や司祭を殺し、アレッポを3日間横に揺れ動かした。

西暦932年

アルマフラクでは、人々はスルタン・ラマダンの慈悲深い規則を迎えた。

西暦933年

星は3頭の牛を殺し、アル・スフナフで空から落ちた。

西暦934年

地球は200人もの農民や司祭を殺し、メディナを3日間横に揺れ動かした。

西暦935年

害鳥の群れは何千もの農家の分野に多くの被害を引き起こし、ちょうど収穫の前にアルマフラクに侵入した。

西暦936年

8月11日に、ファーティマ朝スルタン・ラマダンはベッドで昏睡状態に陥り死亡した。

同年、ラマダンの孫であるアザムがスルタンに即位した。

アザムは、予ねてよりスルタン即位の条件とされていた内容を 配下の太守、シャイフ達を前に、改めて宣言した。

・シーア派を弾圧しない。 ・スルタンは宣教は行わない。 ・子弟にはシーア派の教育を施す。 ・後継者にはシーア派を指名する。

この宣言を受け、諸将は渋々とスンニ派の信仰者であったアザムのスルタン即位を承認。

こうして、ファーティマ朝唯一のスンニ派スルタン"学者たるアザム"の時代が始まろうとしていた。


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