AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR

普通なタリブ

スルタン・タリブは正統なるシーイーであり、よくスンニーと戦い ついにはバグダッドからアッバースを追いやった。

                                    -Ibn al-Juwayni-

西暦980年 スルタン・タリブ

ファーティマ朝3代スルタン・アザムが崩御。 4代スルタンとなったのは、アザムの三男タリブであった。

臣民待望の正統なるシーア派教徒であり、戦争の采配についての才能は父に劣る事は無かったという。(Martial=19)

タリブがスルタンに即位すると、それまで許容されてきたスンニ派の教えが全面的に禁止される事となり、 スンニ派の家臣は早急にシーア派への改宗を行うよう各地に通達がなされた。

通達を受けたスンニ派領主達はダマスカスに集まり、スルタンタリブの御前にてシーア派への改宗を誓った。 この時の誓紙が現在も残っており、改宗者の中で特に目を引くのは以下の3名である。

・チグリス太守サディク・アッバース ・アレクサンドリア太守タイーブ・トゥールーン ・ガリラヤ太守アブドゥル・ハーシム

彼らはいずれもファーティマ朝による宗主権を認める代わりに、ファーティマ朝から軍事的支援を受け アッバース朝やトゥールーン朝の太守を追い出し、太守の地位を手に入れた経歴を持つ。

ここで注目すべきなのは、かつて十字軍により受けたエルサレム失陥という打撃から、 僅か10年でファーティマ朝は、エジプト・メソポタミアにまで勢力を拡げ、 更にはホスピタル騎士団からガリラヤを奪取するまでに、その威勢を回復していたという事である。

西暦987年 シリア共和国

この年、ファーティマ朝はトゥールーン朝からシナイ半島を奪うと、 シナイ半島の商人達による自治を認め、イスラム世界初の商業共和国が成立した。

このシナイ共和国設立についてはスルタン・タリブの考えではなく、先代スルタン・アザムの構想であったらしい。 アザムは、フランク人商人が地中海中に我が物顔で交易所を築いている事に憤慨しており、 フランク人達に対抗する為、イスラム商人による商業圏を確立すべきだと考えていた。 肝心の共和国領となる土地は、トゥールーン朝領だったシナイ半島を当てる予定であったが、 十字軍により、それどころではなくなり、この構想も立ち消えていた。

そして元帥時代に共和国設立の為にトゥールーン朝との戦いに従軍していた現スルタン・タリブは この構想を覚えており、父が果たせなかったものを息子が果たした形となった。

西暦992年 バグダッド征服

ファーティマ朝スルタンのスルタンタリブは、アラビア帝国皇帝のアル=ムゥタッズ3世に対して 聖戦を宣言すると、バグダッドに向けて進軍を開始した。

スンニ派の宗教騎士団・ベクタシュ教団がアラビア帝国側につき参戦した事により この戦争は12年にも及ぶ大戦となったが、西暦1004年にはスルタンタリブがバグダッドに入城。 長らくイスラム世界の中心であったバグダッドはスルタンタリブの直轄地と定められ、 これによりインド・中国とヨーロッパを結ぶ大交易路であり、肥沃なチグリス・ユーフラテス川流域が 全てファーティマ朝の支配下に収まる事になった。 そこからもたらされる莫大な富は、かつてのウマイヤ朝やアッバース朝がそうであったように ファーティマ朝の征服事業を支えていく事となる。

そして、それを失ったアッバース朝の零落は決定的となった。 アル=ムゥタッズ3世の後を継ぎ、皇帝となったアラムはアゼルバイジャンへと落ち延びていった。 これ以降も、アッバース朝の宗主権を認める太守達は大勢いたが、 ファーティマ朝はそれらを容赦なく征服していく事になる。

西暦1010年 崩御

ファーティマ朝4代目スルタン・タリブは、1月16日に病により崩御した。

スルタンタリブの治世からファーティマ朝の拡張期は始まったといってよく、 即位時に比べるとその領土の拡大ぶりが見て伺えるだろう。

また、12年に及ぶアッバース朝との戦争で、ついにその優位を突き崩し、 バグダッド入城を果たされた。真に武勇に秀でたスルタンであり、 神の加護篤き英主であったといえよう。

同年、タリブの長男であるサディクがダマスカスにてスルタンに即位した。

シリア王国第5代スルタン"壮大なるサディク"の時代が始まろうとしていた。


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