1225年3月。レオポルトは、ハンガリー王国のエステルゴム公爵の娘であるイポルヤ・アルパドと婚約をした。 イポルヤの年齢はわずか8才であった。イポルヤはエスターライヒ州に隣接するエステルゴム公爵の後継者であり、明確な政略結婚であった。
1225年5月。レオポルトは婚約はしたものの、妻エマのことを忘れられずにいた。その反動からか、 ウィーンの娼館から高級娼婦を呼ぶようになり、エマが生きていた頃からは人が変わったように好色になってしまった。
1226年8月。バイエルン王国の後継者であるレオポルトの長男である同名のレオポルトが成人。 王子は外交能力に優れており、バイエルン王国の将来は安泰に見えた。
1226年9月。レオポルトの叔父カルロマンが家臣の手にかかり56才で暗殺される。イストリア伯には長男のエックハルトが継いだ。
1226年11月。上ブルゴーニュ公爵ゲプハルトがツェーリング家の次女にして皇帝の妻であるエリザベトからシュウィッツ伯の称号を簒奪する。
1227年2月。ローマ皇帝が王子レオポルトの暗殺を謀る。バベンベルグ家の治める地は東の国と言われ、 辺境の王と揶揄されてきたが、いよいよ皇帝もバベンベルグ家を脅威に思い始めたことのあらわれであった。 この陰謀について密偵頭グントラムは、非公式に皇帝に発覚したことを伝えると、皇帝は陰謀を断念した
1227年4月。王女アグネスとチロル公爵であるラインフェルデン家のディエトヴィンを婿養子婚させる。 ディエトヴィンは優秀な人材であり、ウィーンに迎え厚く遇した。
1227年12月。領地を求めて来た長男レオポルトをケルンテン伯の称号を与え、独り立ちさせる。
1228年6月、ディエトヴィンは暴動鎮圧に赴いた際、敵の攻撃により長期昏睡に陥り、20才の若さで死去した。 そして、1232年7月、ボヘミア王から未亡人となったアグネスとボヘミア王子アルベルトとの婚姻の提案があった。 レオポルトは、既に父の分からない子を産み、夫を失い未亡人となったアグネスへの思いがけない良縁を歓迎し、これに応じた。 これで、バベンベルグ家は当主レオポルトの妹をハンガリー王家に、長男をクロアチア王の後継者である長女と婚約させ、 二女をボヘミア王の後継者であるボヘミア王子に嫁がせることとなり、周辺の有力貴族との縁戚関係を築いていった。
1232年7月。フランコニア公爵の後継者でプレミスリド家のヤロミルとレオポルトの四女ハイルヴィヴァを婿養子婚させる。
1233年2月。ヴェグリア州はバベンベルグ家の王女と婿養子婚をしたクロアチア王子ミルマンがヴェグリア伯となって以降、 バベンベルグ家の領土であったが、後を継いでヴェグリア伯となったミルマンの息子レオポルトが、突如、 帝国北部のメクレンブルク州とメクレンブルク公爵の称号を皇帝から与えられた。 これにより、ヴェグリア州もメクレンブルク公爵の領土となり、バイエルン王国から離脱した。 今後、ローマ皇帝は手を変え品を変え、バイエルン王国から領土を戦争によらずして削り取って行くことになるが、その始まりであった。
1233年2月。レオポルトの婚約者であるエステルゴム公爵家のイポルヤが16才を迎える直前、 レオポルトは婚約破棄を一方的にエステルゴム公爵家に通告した。 ハンガリー王カロリィは勇猛ではあるが、人望に薄く、ハンガリー国内は内乱により、諸侯が独立していた。
エステルゴム公爵家もそれは同様で、将来イポルヤが親から相続を受けた時、どのような状況かは全く不透明であった。 婚約破棄後、レオポルトはスロヴェニア女公爵であるクロアチア貴族のスーピック家のルツィヤと婚約し、9月に婚姻した。
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婚姻したばかりのレオポルトの元にハンガリー内戦の情報が届いた。その情報よれば、 ハンガリー王の妹ギセラを妻に迎えていたクロアチア王フラニスラヴ1世が、ハンガリー王の援軍に駆け付けたが、 ニトリア公爵軍との戦いで戦死したとのことであった。 これにより王位を継いだのは、王子レオポルトの婚約者シルヴィヤではなく、その後に生まれていた長男ドラガン2世だった。
1233年11月。レオポルトの結婚からわずか2か月後、ルツィヤは懐妊した。先妻エマの死後、 好色となっていたレオポルトは47才であったが若い妻の身体に溺れていた。
1234年2月。シルヴィヤが成人し、長男レオポルトと婚姻した。レオポルトは長男レオポルトにケルンテン公爵の称号を与え、 ディエトポルト・ラポトネンに代わる宰相として評議会にも加え、名実ともに王国の後継者として内外に示した。
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1234年8月。レオポルトは妻の身体だけでは飽き足らず、家臣の妻である28才のビンヒルデと一戦交える。
1234年12月。これまで陰謀に反乱を繰り返してきたツェーリング家四姉妹の長女アールガウ伯のヌンツィアが暗殺により死去。53才であった。
1235年2月。レオポルトは饗宴を開き、ケルンテン公としてケルンテン州にいる長男レオポルトと新妻シルヴィヤを招きもてなした。 その夜、酒に酔ったレオポルトはシルヴィヤに城を案内し、そのまま寝室に連れ込んだ・・・。
1235年5月。愛人ビンヒルデがレオポルトの子を産んだ。先々々代レオポルト3世以来、久しぶりにバベンベルグ家の当主の元に生まれた非嫡出子であった。
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1236年6月。皇帝は、バイエルン王国の家臣であるパッソ―伯アマリアをブロヴェンス公爵に封じた。 これにより、パッソ―州は皇帝の直臣たるブロヴェンス公爵家の領土となり、バイエルン王国から分離した。 パッソー州は1124年にエルンスト2世がバヴァリア公爵と戦い獲得した領土であったが、112年ぶりに失われることとなった。
放棄したはずのブラウエン州はいつの間にか上ブルゴーニュ公爵領に
1236年9月。レオポルトとルツィヤとの間に初めての男の子であるローターが生まれた。 これで二人の間では3人目の子供で、先妻、愛人との間の子も入れれば、レオポルトにとっては9人目の子供であった。
1137年7月。皇帝レオポルト暗殺の陰謀が発覚。皇帝はレオポルトの三女ヌンツィアの夫であり、義理の息子にあたるが、 帝国と王国との間の権力闘争は直接的な争いは起こらないものの、水面下での暗闘は激しさを増していった。
1137年11月。皇帝が闘病の末、死亡した。皇帝が病気だったことは周囲には伏せられており、ウィーンの宮廷にその一報が入った時には、 油断させるための策とも思えたほどであった。 ローマ皇帝の座はエンツォネン家からブランズウィック公爵であるビルン家のゲルハールが選ばれた。 前皇帝の息子でレオポルトの孫ピーターははブルゴーニュ公爵となり、母ヌンツィアが摂政に就任した。
1243年5月。成人したクロアチア王ドラガン2世は妻を迎え、その妻が懐妊したとの情報が密偵頭のグントラムから伝えられた。 ドラガン2世に子が産まれれば、長男レオポルトの妻シルヴィヤの継承順位は2番に下がる。
グントラムはレオポルトにクロアチア王暗殺の決断を迫り、レオポルトは躊躇なく、これに応じた。 バベンベルグ家において暗殺は決して好まれるものではないが、決してタブーではなく、当主が真に必要に迫られた場合には、 躊躇なくこれを行う。実の弟と妻を暗殺した先々代のレオポルト4世が当主のみに伝わるよう残した遺言であった
1245年2月。レオポルトがオーストリア公となってから即位50年を記念した饗宴が開かれた。 バイエルン王国創設後は、帝国が家臣の戦争を禁じていることもあり、皇帝の軍に従軍することはあっても、 バベンベルグ家の戦争はなく、平穏な日々が続いていた。 饗宴で、レオポルトは二人の義弟、上ブルゴーニュ公爵ゲプハルトとぺクス公爵オルドゥルフ二世と旧交を改め、大いに愉しんだ。
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1245年11月。長く密偵頭を務めたグントラム・プレミスリドが亡くなった。享年60才、衰弱による大往生であった。 後任の密偵頭には、二女アグネスの父親の分からない不義の子である23才のウィドゥキント・フォン・バベンベルグを任命した。 レオポルトは、これを機にウィドゥキントをがスタイン男爵に封じた。
1248年2月。長らく元帥を務めた上ブルゴーニュ公爵ゲプハルト・フォン・レンツブルグが闘病の末、死亡した。享年54才であった。 後任には、ゲプハルトの三男ゲプハルトをウィーンに迎え、元帥に任じた。
1248年6月。レオポルトとルツィヤの長男ローターとヴェグリア伯の一人娘アグネス・フォン・バベンベルグとを婚約させた。 ヴェグリア州はメクレンブルク公爵の領土となっており、これを取り戻すための政略結婚である。 レオポルトの後継者はケルンテン公爵にしてバイエルン王国宰相である王子レオポルトと決まっているだけに、ある意味気楽な政略結婚であった。
1248年9月。新たな上ブルゴーニュ公爵ジグフリート1世が破門された。これを教皇に示唆したのは、王子レオポルトであった。 上ブルゴーニュ公爵であるレンツブルグ家は王国内で第一の重臣であり、バベンベルグ家にとっては家臣ではあるが レオポルト4世とエルメンガルトの婚姻以来、大事な盟友でもあった。 その当主を破門させた王子レオポルトの所業は王国内で問題視されたが、次期当主であることから表立って批判する者はウィーンの宮廷にはいなかった。
1252年3月。新ローマ皇帝がレオポルトと愛人との間の非嫡出子ソフィー・プレミスリドとの婚姻を提案してきた。 前皇帝とバイエルン王国との関係は悪化していたが、新皇帝はバイエルン王国との融和政策を採っていた。 レオポルトは父親としても、不名誉な子であるソフィーと皇帝の婚姻は思いがけない栄誉であり、喜んでこれに応じた。
1252年8月。レオポルトは66才にして新たな愛人ウルシュラと一戦交える。
1252年9月。バイエルン王国に激震が走る。王国の後継者ケルンテン公爵レオポルトが過酷なストレスにより42才の若さで死去したのだった。
王子レオポルトの死去により、バベンベルグ家に大きな問題を生じさせることとなった。それは、後継者問題であった。 王子レオポルトには11才の長男レオポルトがおり、バイエルン王レオポルトにとっては孫にあたる。 そして、王子レオポルトには母親の違う弟、15才のローターがいる。二人の母親は奇しくも共にクロアチア貴族であったが、 孫レオポルトの母親はクロアチア女王であり、ローターの母はスロヴェニア女公爵であったため、封建的な関係で言えば、 ローターの母はレオポルトの母の主君にあたる関係であった。 果たして、この二人のどちらがバイエルン王国の後継者として相応しいのか、評議会は紛糾し、重臣たちは様々な意見が噴出した。 しかし。この時の評議会のメンバーには王国の趨勢を左右するような大物はいなかった。宰相、元帥、密偵頭は若く、 家令はグラッツ市長であり、バベンベルグ家の内部のことには深く介入しようとはせず、宮廷司祭も同様であった。 バベンベルグ家の内部としては、一族の重鎮としてレオポルトの妹の夫であるぺクス公爵オルドゥルフ2世がいたが、 当時破門されており、謹慎の身であった。そして、一番肝心な王レオポルト自身は決断を先延ばしにしていた。
結論は国外からの情報によって導かれた。クロアチア女王シルヴィヤは相続問題をバイエルン王国全体のものとはせず、 一方的にウィーンの宮廷に伝えてきた。 レオポルトが有していたケルンテン公爵の称号は長女ウテに、シルヴィヤの有するクロアチア王の称号は長男レオポルトに相続させる。 したがって、長男レオポルトは今後はクロアチア王国のザフルミア州の州都であるモスタルで王国の政務にあたる。 これに対し、バイエルン王国宰相インドリヒがバイエルン王国の継承権はどうするのか、と問いただすと、 クロアチア王国宰相ウソラ伯は、もらえるものなら頂きましょう、と傲然と答えた。 その回答からは、孫のレオポルトが2つの王国の王となった場合には、主要称号をクロアチア王とする意図が見て取れた。
その結果、評議会と重臣会議は、バイエルン王国の後継者はローターと定めた。この結論を王に伝えると、 レオポルトは興味なさげに黙って頷いた。 レオポルトの内心は、自分がどちらかに肩入れして、それにより王国を二分する内乱になることを恐れており、 それ故、あえて興味のないふりをしていたのだった。
1253年3月。ルツィヤが身籠った。レオポルトはこの時66才であった。
1254年2月。クロアチア女王シルヴィヤが闘病の末、37才で死去した。そして、その長男レオポルトがクロアチア王を継いだ。 これにより、バベンベルグ家がクロアチア王となることとなったが、バイエルン王国との同君連合の夢は失われた。
1255年6月。レオポルトの妻、スロヴェニア女公爵ルツィヤが闘病の末、37才で死去した。 奇しくもクロアチア女王シルヴィヤと同い年での死去であった。そして、長男ローターがスロヴェニア公爵の称号を相続した。
1257年1月。バイエルン王国の重臣である上ブルゴーニュ公爵ジグフリートが不審の事故死により43才で死去し、 長男ゲプハルト2世が上ブルゴーニュ公爵となった。
1257年6月。バイエルン国王レオポルト1世が闘病の末、70才で死去した。 その治世は62年に及び、歴代の当主の中で最長となった。二代目のバイエルン国王となったのは、20才のローター1世である。 これ以後、バイエルン王家は、ローターの母の出身であるスロヴェニア朝と呼ばれることとなる。
~続く~
これまでで一番長い治世となりました。 絶対的な権威法のため戦争は出来ず、皇帝の称号授与により 領土が2つ削られました。 せっかく長男とクロアチア王の後継者を結婚させたので 何とかクロアチア王国も取りたかったんですけど、相続では 一人に継承させることはできなかったみたいです。