バイエルン王国成立後、レオポルトの最初の仕事は、王国の地盤固めであった。 カルロマン「我が甥、いや、我が王よ。公爵領を持ちすぎではないか」 野心的な叔父の言葉を待つまでもなく、この封建の世においては、王がすべての称号と領土を持つことは家臣達の反感を買うものであった。
レオポルトは、すでにニュシャテル伯に封じていた義弟のゲプハルト・フォン・レンツブルグに上ブルゴーニュ公爵の称号と領土 (ニュシャテル、ブルゴーニュ、シュウィッツ、アールガウ)を与えた。ゲプハルトはバイエルン王国元帥にも任じられた。
続いて、クレムス男爵であるオルドゥルフ・フォン・バベンベルグをセーケシュフェールバール伯に封じ、ぺクス公爵の称号を授与した。 オルドゥルフの母はチエムガウ家の出身であり、ヴァシュ伯のピーター・フォン・チエムガウ亡き後は、ヴァシュ州を相続するはすであった。 そして、オルドゥルフの息子は同名のオルドゥルフといって妻はレオポルトの妹ルイトガルトである。
能力は凡庸だけどチエムガウ家の血筋を引きアマデウスの末裔でもある
ゲプハルトは20才、オルドゥルフ2世は18才、レオポルトはこの二人の若い義弟を今後の王国の柱石とする腹積もりであった。
さらに、パッソ―伯アマリアのいとこにあたるディエトポルト・ラポトネンをウィーンの宮廷に招き宰相とし、家令ロラン・フラメンスの娘と婚姻させた。
最後に、反乱を起こしたアールガウ伯ヌンツィアは恩赦により釈放した。
レオポルトがバイエルン王国となったことにより、ローマ帝国南東部とその隣国に四人の王が並び立つことになった。 しかも、四人の年は近く、皆若かった。
クロアチア王はトリピミロヴィッチ家のフラスニスラヴ1世、20才。南からビザンツ帝国の侵攻を受けており、国土を減らしていた。 妻にはハンガリー王の妹ギゼラを迎えていた。
ハンガリー王はアルパド家のカロリィ1世、20才。レオポルトを一敗地にまみれさせた勇猛な王である。 妻はレオポルトの妹ゲルヒルトである。
ボヘミア王はプレミスリド家のヴラティスラヴ2世、27才。プレミスリド家はローマ皇帝を輩出した他、他にも多くの公爵家を出している名家である。 そのせいもあり、ボヘミア王国の一部は異なるプレミスリド家のトゥールーズ公爵ヴセボル(妻はレオポルトの叔母エリザベト)が領有している。 妻は、帝国北東に11州を有し、下ロレーヌ公爵、ブラバント公爵、コルン公爵を兼ねるウィゲリチェ家のマーティン2世の長女トルーデである。
レオポルトはこの三人の隣国の王たちと否が応にも覇を競うこととなるのであった。
1213年5月。帝国法が及ばないハンガリーの地でぺクス公爵がフェイエール州をめぐる戦争を起こす。
1214年9月。上ブルゴーニュ公爵に嫁がせていたハイルヴィヴァが22才の若さで自然死。レオポルトは、 前宰相のハルトマン・ワギングの娘15才のアマルベルガを嫁がせた。
1215年8月。隣国バヴァリア公爵ルイ1世のレオポルト暗殺計画が発覚。現バヴァリア公爵はサリアン家の出身でサヴォイア公爵も兼ねていた。 かつて、バヴァリア公爵家といえば、バベンベルグ家にとって脅威であったが、彼我の力関係は既に逆転していた。
1218年8月。フェイエール州をめぐる戦争でぺクス公爵が勝利し、フェイエール伯がバイエルン王の臣下となる。 ローマ帝国はさらにハンガリーへ領土を拡げることとなった。
1218年11月。レオポルトは密偵頭のグントラムから奇妙な話を聞かされた。レオポルトの妻の出身であるツェーリング家の四姉妹の次女は バイエルン王国の北方の飛び地のブラウエン女伯であるが、夫は王国のクライン伯であるエクベルト・フォン・バベンベルグの夫であった。 二人の間には三人の子が産まれていたが、いずれも幼年で亡くなっていた。この3人がいすれもブラウエン伯領の密偵頭 マルクヴァルト・フォン・メルセブルクによって殺されていたのだ。
王とはいえ、訴えがあればともかくとして、封建領主の家中のことには口を出せない。なぜマルクヴァルトのような男がのうのうとしていられるのか、 レオポルトは背筋が冷たくなる思いであった。
1218年1月。レオポルトは、数か月前から宰相ディエトポルトをクロアチアに送り、交渉に当たらせていた。 その目的は、昨年生まれたばかりのクロアチア王女シルヴィヤと8才の長男レオポルトとの婚約であった。 二人の間に子が産まれれば、その子はバイエルンとクロアチアの2つの王冠を頭上に乗せることになる。 クロアチア王家は924年以来、トリピミロヴィッチ家が王位に就いており、他家の者が王位に就いたことはなかった。 しかし、この婚約は意外にも話を進めてみると相手も乗り気であった。もちろん、クロアチア王はまだ若く、 今後、息子が産まれれば、その子がクロアチア王を継ぐことになる。それでも、バベンベルグ家としては、 クロアチア王家の血を引く王女との婚姻は今後のバベンベルグ家の発展がクロアチア・ハンガリーにあるのであれば、貴重な機会であった。 しかし、反対する声もあった。これまでバベンベルグ家の当主の妻はドイツ貴族から選ばれており、いくら同じカトリック教徒であるとはいえ、 クロアチア貴族との婚姻に拒否反応を示す家臣・廷臣も少なくはなかった。それでも、レオポルトはこんな機会はそうあることではないと考え、 長男レオポルトとのクロアチア王女シルヴィヤの婚約話を進めたのだった。
1219年3月。レオポルトは、バイエルン王国内の伯爵の封建的身分関係を正すべく、皇帝に謁見を願い出た。 しかし、皇帝は55才ではあるが、すでに無能力者となっており、対応したのは摂政であった。しかも、この時の摂政は、 かつてレオポルト暗殺を試みたバヴァリア公爵ルイであれば、当然、色よい返事は得られなかった。 なお、皇帝の妻はツェーリング家四姉妹の次女にしてシュウィツ女伯エリザベトである。
1220年10月。レオポルトの長女ゲルヒルトとローマ皇帝の長男で後継者の王子レオポルトが婚姻した。 今や、辺境であるとはいえ、領土の規模から言えば、帝国最大の貴族であるバイエルン王の長女とローマ皇帝の長男にして エッツォネン家の未来の当主との婚姻は双方にメリットのある政略結婚であった。
しかし、結婚からわずか1か月後、ゲルヒルトは闘病の末亡くなってしまった。享年16才であった。 それから一年足らずのうちに、今度はレオポルトの三女ヌンツィアと王子レオポルトは婚姻した。これも政略結婚であればこそであった。
1221年12月。上ブルゴーニュ公爵の要求権をねつ造の陰謀を企てたアールガウ女伯ヌンツィアを投獄した。恩赦から9年後のことであった。
1222年1月。次女アグネスが父親の分からない子供を出産した。ローマ帝国王子と結婚したヌンツィアとは双子であるが、 バベンベルグ家の女に時折あらわれる才知を有するのはアグネスの方であった。それ故、レオポルトも遠くに嫁にやりたくないとの思いがあったのだが、 皇帝の息子と結婚したヌンツィアと我が身とを比べて自棄になってしまったのかもしれなかった。
1222年3月。ブラウエン女伯エルメンガルトが反乱。飛び地のブラウエン州まで遠征軍を派遣する。 レオポルトは、元帥である上ブルゴーニュ公爵ゲプハルトを派遣させるまでもないと思い、遠征軍の指揮はティエトマル・フォン・トリエステに命じた。 しかし、ティエトマルは敵が寡兵な故に油断したか、前線に出過ぎた故に戦死してしまった。 トリエステ家には娘しかなかったので、既に亡き妻との間に子をなしていた家令ロラン・フラメンスをティエトマルの娘に婿養子婚させて、 ティエトマルの死に報いた。
1223年6月。元摂政ベルトホルトは数年前に若い娘と結婚したが、何と71才にして子を設けた。 ベルトホルトは前妻であるレオポルトの叔母ベアトリクスとの間には子が産まれなかったが、これが初めての子であった。
1224年6月。ブラウエン女伯との内戦に勝利。投獄した後、すぐに解放する。レオポルトは、家令ロランの進言により、 ブラウエン伯領を皇帝に返上した。そもそも遠方の領土は不要であり、今後もこのような反乱を起こされるのであれば、 家臣にしておくことにメリットはなく、領土返上により皇帝の歓心を買えるのであればむしろその方がメリットであった。
1224年8月。フランコニア公爵の後継者でプレミスリド家のヤロミルと四女ハイルヴィヴァが婚約。
1224年10月。ローマ皇帝が長期昏睡の上、死去。次の皇帝は息子のレオポルト・フォン・エッツォネンが即位し、 レオポルトの三女ヌンツィアは皇妃となった。しかし、若干21歳の若き皇帝の即位により、オクシタニア諸侯が蜂起。 帝国は内乱の季節を迎える。
1225年3月。レオポルトの妻エマ・ツェーリングが死去。享年37才。ツェーリング家四姉妹の四女が四姉妹の中で一番最初に亡くなった。 四女一男を残した妻の若すぎる死により、バベンベルグ家の将来は不透明なものへとなっていくのだった。
~続く~
前後編に分けることになりました。バイエルン王になる前も含めると 前中後の大長編となってしまいました。 平和な日々ではありますが書きたいことはいろいろ出て来るんですよね。