帝国は拡大中。ハンガリーがポーランドとデンマークにまで領土拡大
ローター1世即位時から比較すると10州増加、全30州
ローター1世は3人の男子を残し、孫が11人、ひ孫が4人。
相続した王位 | バイエルン |
相続した公爵位 | オーストリア、(ぺクス) |
相続した伯爵位 | エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケンプテン、(ザグレブ、ヴェグリア) |
相続した男爵位 | ステイル |
()内の称号は元々有していたもの
1303年12月。ジグフリート1世は43才でバイエルン王に即位した。妻は、バルバラ・フォン・ティロル。
不世出の戦略家、双子、傷痕、嫉妬、嘘つき、狂信的、公正、勤勉、社交的、残虐。能力は歴代当主に比べるとかなり優秀。
上ブルゴーニュ公爵ルドルフ5世(バベンベルグ家)。46才。領土は、ニュシャテル州、シュウィッツ州、 フラデツ州、オロモウク州、ベルン州、ブラウエン州、アールガウ州、ブルゴーニュ州の8州。 レオポルト4世の娘イルザの末裔で母はレオポルト4世の妻でレンツブルグ家のエルメンガルトの兄の末裔。 バイエルン王国最大の貴族。妻はアルトマルク伯のゴセック家出身。長男マンフレトの妻はバヴァリア女公爵のオステルヒルトで、 二人の間の子は上ブルゴーニュ公爵とバヴァリア公爵の称号を受け継ぐことが約束されている。
ケルンテン女公爵ベルタ世(バベンベルグ家)。16才。領土は、ケルンテン州、イストリア州、クライン州、アキレア司教領。 レオポルト5世の弟カルロマンを祖とするバベンベルグ家の藩屏の一人。内戦によりケルンテン公爵の座を追われた父から 公爵位を0才にして得たが、その才能はバベンベルグ家の歴史に冠絶する。 夫はローマ皇帝を輩出した名門エッツォネン家の嫡流でブルゴーニュ公爵及びオウヴェルン公爵の後継者でもあるピーター。
スロヴェニア公爵ルップレヒト2世(バベンベルグ家)。18才。領土は、ヴァラジン州、クリジェヴィッツィ州。 祖父はローター1世の弟で反乱を起こし獄死したルップレヒト1世。バベンベルグ家ではあるがクロアチア貴族。独身。
チロル公爵及びフェララ公爵ウルリヒ1世(ティロル家)。49才。領土は、チロル州、サンクト・ガレン州、シュール司教領、 フェララ州、ボローニャ中央都市、ラヴェンナ司教領。 長年にわたりフェララ公爵の称号を継承してきたティロル家の嫡流。チロル女公爵を母に持ち、2つの公爵号を保持している。 ローター1世の時代に時の皇帝から家臣として譲渡された。
バデン公爵マイケル1世(ティロル家)。46才。領土は、バデン州。 チロル公爵ウルリヒ1世の弟で、チロル公爵及びフェララ公爵の後継者。妻は名門ビルン家の出身。
ぺクス公爵ゲオルグ1世(バベンベルグ家)。53才。領土は。セーケシュフェヘールバール州、ヴァシュ州。 オーストリア公爵アダルベルト1世の長男リッポルトの末裔で、ローター1世の即位直後に反乱を起こしたオルドゥルフ3世の弟。 妻は、三人目。 ジグフリート即位後にぺクス公爵に封じ、王国の五人目の公爵。
公爵以下の直臣は、サダル伯リュトミスル(スーピック家)、ヴルボスヴコ男爵ブルヒャルト(バベンベルグ家)、 クレムス男爵ピーター(バベンベルグ家)、ガスタイン男爵アンドレアス(バベンベルグ家)、 ストゥビング男爵コンラド(アルパド家)、その他、各司教領の司教及び市長達。
1304年1月。ジグフリートが即位してわずか2か月後、スロヴェニア公爵ルップレヒトが反乱を起こす。 この反乱にケルンテン公爵ベルタも呼応した。これに対し、ジグフリートはボヘミア王に援軍を要請すると、 かつてボヘミア王国の内戦において、ボヘミア王インドリヒの側に立ちジグフリートが参戦したこともあり、 インドリヒは快く応じてくれた。
4月。ジグフリートの次男ローターが激戦の最中、戦死する。そして、反乱軍にバヴァリア公爵までもが加わり、 反乱はさらに激化していった。
1305年5月。夫を亡くし、ウイーンに戻って来ていた長女アデリンドに成人したボヘミア王インドリヒから婚姻の提案があり、 ジグフリートは喜んで同意した。これでバイエルン王国とボヘミア王国は同じバベンベルグ家ということもあり、 より深く結びつくことが期待された。
1307年7月。3年半に及ぶ内戦はジグフリートの勝利で幕を閉じた。ルップレヒトは牢に入れ、スロヴェニア公爵号も剥奪したが、 ケルンテン公爵ベルタを罰することは出来なかった。
内戦終結後、ジグフリートはクロアチア王の称号を簒奪し、バベンベルグ家の悲願であったクロアチア王に即位した。 クロアチア王自体は、1254年にローターの異母兄であるレオポルトが即位して以来、バベンベルグ家のものとなっていたが、 バイエルンとクロアチアが一人の君主の元に統一されたのは、これが初めてであった。以後、ジグフリートは バイエルン・クロアチア王を名乗ることとなるが、第一称号はバイエルン王とした。
1308年2月。ジグフリートは即位したばかりのローマ皇帝フィリップから家老の称号を受けた。 皇帝の称号は、1284年にビルン家から、ルーゼッヒ家へと移っており、フィリップはルーゼッヒ家の皇帝としては二代目であった。 未だ23才の皇帝フィリップとしては、バベンベルグ家を自身の後ろ盾としたい意向があったのだが、 ジグフリートは家老となった後も、皇帝とは付かず離れずの関係を保つこととした。
1308年3月。ジグフリートはクロアチア王即位を祝すための饗宴を開くべく招待状を家臣たちに送った。 その矢先、長らく宰相を務めてきたガスタイン男爵アンドレアスが47才で死亡した。自然死であった。 饗宴は4月に開かれたものの、ジグフリートはアンドレアスの死を悼んだ。 ジグフリートは評議会を刷新した。アンドレアスの後任の宰相には、前元帥ロラン・ラポトネンの長男ルドルフ。 ロラン・ラポトネンは、密偵頭ジグハルトが亡くなったため、元帥から密偵頭へとスライドした。 ロランの後任の元帥には、老臣マティア・フォン・ステニクジャク。家令は変わらず、ベレンガル・エッツォネン。 宮廷司祭はラヴァント司教。
1308年10月。新しい密偵頭ロランはウィーンの宮廷にセンジ伯の要求権を持つグリゴリイ・トリピミロヴィッチを迎え、 ヴェグリア州のヴロボスヴコ男爵に封じた。近い将来、センジ州に対する戦争の下準備であった。
1309年4月。帝国は、ぺクス公爵ゲオルグ1世のぺクス州に対する請求権に基づき、ハンガリー王国に宣戦した。 しかし、宣戦布告直後、ゲオルグ1世が過酷なストレスにより死去し、大義名分を失った戦争は終了した。 ぺクス公爵は長男ルイトポルトが継いだが、すぐにハンガリー王にぺクス公爵の称号は簒奪された。
1310年7月。ぺクス公爵の称号を失ったセーケシュフェヘールバール伯及びヴァシュ伯のルイトポルトが反乱を起こした。 反乱軍には、王国第一の重臣である上ブルゴーニュ公爵ルドルフが参戦すると共に、ジグフリートの弟である ヴェグリア伯エギノルフも加わった。 王国軍には前回の内戦時と同じくボヘミア王にしてジグフリートの長女アデリンドの夫となったインドリヒが援軍に駆け付けた。
1311年4月。内戦の最中、ボヘミア王インドリヒ2世が家臣の手により暗殺された。享年21才であった。 インドリヒの長男オンドレイは0才の時に不審な事故死をしており、バベンベルグ家の直径男子の血はなく、 ボヘミアの王位は、何ゆえかティロル家のポッポのものとなった。
1313年11月。かねてより交渉を続けていたクロアチア女公爵ドロテアが、ついにバイエルン王国の家臣となった。 ドロテアもバベンベルグ家の出身であり、ローターの異母兄レオポルト以後、家門は別れたが、再び一つになった。
1313年12月。1269年から44年間にわたり牢に入っていたケルンテン伯ウテがついに亡くなった。75才であった。 ケルンテン伯の相続人は皇帝の直臣であるフランコニア公爵であったため、1126年以来バベンベルグ家が治めて来た ケルンテン州は王国の領土から離脱することとなった。
1316年5月。ボヘミア王離脱後、苦戦したものの、内戦はようやく終結した。そして、翌年の1月、評議会を刷新。 元帥にロラン・ラポトネンを復帰させ、密偵頭には、つい先ごろまで内乱の敵方であった上ブルゴーニュ公爵マンフレト1世を据え、 王国の中枢に取り込んだ。
1316年6月。ブルゴーニュ公爵レオポルト4世が帝国全土に対し、8才の皇帝ルドルフに対する挙兵を宣言した。 レオポルトはエッツォネン家の出身でありかつてのローマ皇帝レオポルト3世の孫であった。反乱の火の手は 燎原の火の如く帝国全土に広がった。ジグフリートの元にもレオポルトからの挙兵の誘いと皇帝からの援軍要請があった。 ジグフリートは評議会の中心である宰相ルドルフ、元帥ロランのラポトネン父子と協議した。名目だけとはいえ、 ジグフリートは帝国家老の地位にあり、反乱鎮圧のために出兵することもやむを得ないかと考えたが、 そこに現れたのはケルンテン女公爵ベルタであった。
ベルタ「叔父上、我が義父ブルゴーニュ公に味方して欲しいとは申しません。願わくば中立をお保ち下さい」 ルドルフ「その見返りは?」 ベルタ「何も。これまで以上に帝国はバベンベルグ家には干渉いたしません」 ロラン「その言いぶり、貴公はまるでバベンベルグ家の者ではないようだな」 ベルタ「申し訳ございません。私はすでにエッツォネン家の女。夢は私の子を皇帝にすることです」 ジグフリート「わかった。ベルタよ、お手並み拝見しようじゃないか」
バイエルン王国は反乱軍にも付かず、かと言って帝国のために出兵もせず、静観することにした。 しかし、後にジグフリートはこの時の決断を後悔することとなる。
1317年2月。ジグフリートは、牢獄にいたスロヴェニア公爵ルップレヒト2世を暗殺した。 スロヴェニア公爵はルップレヒト2世とその祖父ルップレヒト1世と二代続けて反乱を起こしており、 その原因は当主がクロアチア貴族に染まり過ぎていることと思われた。 そこで、密偵頭マンフレトはルップレヒト2世を殺害すると、新たな当主となったフラニスラヴ1世を ドイツ貴族の元で教育することで、再びドイツ貴族として育てることとしたのだった。
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1317年3月。ジグフリートの次女ソフィーをハンガリー・ポーランド王の長男ぺテルと婚姻させた。
1317年6月。ローターの密偵頭でストゥピング男爵あったダチョニィ・アルパドの孫であるエギノルフ・アルパドが突如、 ニトリア公爵、ニトラ公爵、トランシルヴァニア公爵の称号を簒奪し、ハンガリーの4州を奪取した。 9才の少年であるエギノルフになぜこのようなことが可能であったのか、ウィーンの宮廷は情報収集に追われることとなったが、 三つの公爵号を有するエギノルフが王国の臣下であることは間違いはなかった。この時から、エギノルフは ウィーンの宮廷の掣肘を離れ、独自の動きをしていくことになる。
&ref(;エギノルフ.jpg) &ref(;王国_1317.jpg) 嬉しい誤算
1317年12月。内戦開始からわずか1年半、帝国の内乱は多数の諸侯を味方に付け、帝国最大の諸侯であるバイエルン王国が 反乱鎮圧に動かなったこともあり、ブルゴーニュ公爵の完勝に終わった。神聖ローマ帝国の歴史上、初めて皇帝選挙によらず、 戦争による簒奪が成功し、レオポルトは皇帝となり、エッツォネン家が再び帝国を支配することとなった。 皇帝の傍には、後継者たるピーターと共に、まだ1才長男レオポルトを抱いたその妻であるケルンテン公爵 ベルタ・フォン・バベンベルグがいた。この簒奪劇を裏で計画したのは、新皇帝の息子の妻であるベルタであった。
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1918年2月。ヴロボスヴコ男爵グリゴリイの要求権によりセンジ伯に宣戦を布告。
1319年1月。ジグフリートの長男シモンの妻であるサヴォイエ女公爵フリードリカ1世が38才の若さで肺炎で死去。 ジグフリートの孫にあたるシモンがサヴォイエ公爵を継いだ。しかし、その一か月後、シモンは家臣によって殺害された。 21才の若さであった。 後を継いだのは、ジグフリートのひ孫にあたるシモン。シモンの母は新皇帝レオポルトの次女であったので、 シモンは皇帝の孫でもあった。ジグフリートはこのひ孫の顔は未だ一度も見たことはなかった。
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1320年2月。センジ州を巡る戦争が終結。グリゴリイがセンジ伯となる。さらに、ジグフリートは ダルマティア公爵の慣習的請求権に基づきスプリット伯に宣戦を布告する。
1321年1月。ジグフリートは新皇帝より、施物長の称号を授与された。先の内乱で中立を守った見返りとしては 極めて安いものであり、ジグフリートは黙って頷いただけで帝国からの使者を帰らせた。
1321年7月。スプリット州をめぐる戦争に勝利する。同州はクロアチア女公爵ドロテアに与えた。
1322年12月。実力で皇帝の称号を簒奪した偉大な皇帝レオポルト4世が死去し、長男ピーター1世がその後を継いだ。そして、その妻ベルタが皇妃となった。
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1324年3月。ハンガリーを独力で席巻するニトリア公爵エギノルフが成人すると、その妻に、クロアチア女公爵ドロテアを迎えた。 バイエルン王国におけるハンガリー最大の貴族とクロアチア最大の貴族の婚姻は、ウィーンの宮廷に祝賀ムード共に 警戒心を呼び起こすものであった
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1329年4月。長年にわたり、王国の元帥と密偵頭を勤めたロラン・ラポトネンが衰弱により死去。72才であった。 これを機にジグフリートは評議会を刷新。宰相には、ルドルフ・フォン・ラポトネンが引退し、 クレムス男爵のノーベルト・フォン・ワギングを任命。 元帥には、スロヴェニア元帥であったドラガン・スービックをウィーンに招聘し任命。家令には、ベレンガルの死後、 名門ワイマール家のルドルフが後を継いだ。 密偵頭は、王国内で人材を探したところ、下級貴族のグントラム・フォン・チュルディムを抜擢し、任命した。
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1329年8月。かつて皇帝を出したこともあるビルン家のブルボン公爵ルドヴィクが皇帝に叛旗を翻した。
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ポーランド王、ボヘミア王等が反乱に加わったが、ジグフリートの元には参戦要請はなかった。 ジグフリートはベルタからの要請もあり、最後のご奉公と皇帝軍に味方した。しかし、それは年寄りの冷や水となり、 ジグフリートはあえなく戦死した。69才であった。
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ジグフリートは43才と遅い即位ではあったが、その治世は26年と意外と長かった。レオポルト4世の遺訓に従い ハンガリーとクロアチアに領土を拡げた。バイエルン・クロアチア王国の二つの王冠は、長男シモンに託された。
~続く~
今回、帝国内乱の才にリロードしました。結果は変わりませんでしたけど。 今回ボヘミア王国で相続がありましたが、なぜティロル家に相続されたのか謎。 エギノルフが突如ニトリア公爵等を簒奪したのかもきっかけがよく分かりません。 いろいろ分からないことがありますね。それにしても、君主が皆、長生きしすぎ。