ウソラとケルンテン奪取。ズノーモは戦争中
ヨーロッパの中心を帝国・四王国を支配するバベンベルグ家が制している。
相続した王位 | バイエルン、クロアチア、ハンガリー、ブルゴーニュ |
相続した公爵位 | オーストリア、(スロヴェニア)、ボスニア |
相続した伯爵位 | エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケルンテン、(ザグレブ)、ウソラ |
相続した男爵位 | ボニャド |
()内の称号は元々有していたもの
1408年7月。先王アデリンド1世の孫オルドゥルフは34才でバイエルン・クロアチア・ハンガリー・ブルゴーニュ王に即位した。妻は、チロル公爵ブルノ2世の娘のゲトルーデ。母はペルリモフ男爵の娘のアマリア。なぜ、四王国の後継者であった父アンドレアスが下級貴族の娘と結婚したのかと言えば、アマリアが類まれな才能の持ち主だからであった。
先王アデリンドは、アマリアの才知に惚れ込み、長男の妻としたのだった。オルドゥルフは、母の才能を受け継ぎ成長した。
緻密な策略家、明敏、謙虚、公正、親切、充足感、勤勉、憤怒、ストレス
しかし、母アマリアの才能は、オルドゥルフの弟、エステルゴム公爵エギノルフの方に、より引き継がれた。優秀過ぎる弟が王国の火種となることを心配する者も多かった。
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オルドゥルフは、弟エギノルフを宰相に任じ、自らを支えるよう頼んだ。その他の評議会メンバーは、元帥に、先王の時代に招聘していた28才の若き将星ラインハルト・チャヴァネーナ。家令には、叔父にあたるがオルドゥルフよりも3才若いエリヒ。密偵頭には、バベンベルグ家歴代最強との誉れ高いラムベルト・レンツブルグ。バベンベルグ家の未来は、王オルドゥルフ、弟であり宰相のエギノルフ、叔父であり家令のエリヒの三人の団結に掛かっていると言えた。
1408年7月。オルドゥルフが即位して最初の仕事は、まだ幼いケルンテン公爵トーマスの暗殺だった。この陰謀を発案したのは当然のことながらラムベルトであった。ラムベルトの狙いは、トーマスの死後、ケルンテン公爵の称号は姉のハイケが相続することにあった。
ハイケが8才にしてケルンテン公爵となると、15才のオルドゥルフの長男ブルノと婚約させた。これにより、ケルンテン公爵の称号は、ブルノとハイケの子が継ぐこととなる。ケルンテン公爵領を帝国から取り返すことは、バベンベルグ家の宿願であった。
1408年11月。先王アデリンド1世が始めたズノーモをめぐる帝国との戦争に勝利した。
1408年12月。四王国最大の貴族であるバヴァリア女公爵イルザが反乱を起こし、第七次内戦の火ぶたが切って落とされた。この反乱には、何と、弟エギノルフも参加してしまった。エギノルフの妻が、イルザの妹であることもエギノルフが内戦に参加した理由の一つであった。
バヴァリア公爵の領土は広大で、四王国の約4分の1、総兵力は、約半分である。この兵力に王弟エギノルフが加わることにより、近年になく大規模な内戦となることが予想された。長引けば、他の諸侯達も反乱軍に加わる可能性もあった。
1409年1月。しかし、オルドゥルフは慌てていなかった。いや、家臣達からは危機感が薄いとすら思われた。オルドゥルフは、何とこの内戦の最中に、有力な諸侯の一人であるチロル公爵の妹の妻ゲトルーデと離婚したのだった。
離婚の理由は、アルサス公爵の第1後継者であるルーゼッヒ家のバルバラと結婚するためであった。教皇に離婚が認められると、オルドゥルフはすぐにバルバラ・ルーゼッヒと再婚した。チロル公爵に対しては、金を払い妹との離婚を詫びた。
1409年5月。早速、バルバラが妊娠し、オルドゥルフの思惑通りになるかと思われた。しかし、3か月後、バルバラは不審の事故死を遂げてしまい、オルドゥルフの野望は潰えた。
1409年6月。エステルゴム公爵と戦っていたハンガリー兵を率いるペスト公爵ステファンが戦死した。ステファンの母は先王アデリンドの妹のメヒティルトであった。
1411年4月。自ら前線に赴いたオルドゥルフは、エステルゴム公爵との戦いの最中、あえなく戦死した。享年37才、その治世はわずか3年足らずであった。四王国の王冠は長男ブルノに引き継がれた。
~続く~
能力値高かったのに、あっと言う間に死んでしまいました。 やはり兄弟いると揉めますね。 残るはいよいよあと1人、後に公正王と呼ばれることになります。