1375年1月。先王シモン2世の長女アデリンドは39才でバイエルン・クロアチア・ハンガリー王に即位した。夫は、エステルゴム公爵オルドゥルフで、事実上の共同統治者であった。即位直後、アデリンドは父の遺言に従い、ブルゴーニュ王国を340年ぶりに復活させ、その王冠を戴いた。父シモンがアデリンドの手でブルゴーニュ王国を復活させたのは、それが女王の権威につながり、バベンベルグ当主としての求心力を高めると考えたからであった。
希代の黒幕、内反足、残虐、気まぐれ、狂信的、充足感、勇敢
魅力的な交渉人、天才、冷笑的、慈善、嘘つき、勤勉、気まぐれ
相続した王位 | バイエルン、クロアチア、ハンガリー |
相続した公爵位 | なし |
相続した伯爵位 | エスターライヒ、シュタイアーマルク、シュタイアーマルク、ザグレブ、フェイエール |
相続した男爵位 | ステイル |
オーストリア公爵の称号は皇帝に簒奪されたまま
帝国と色が同じで見づらい
ドイツ全域、南フランス、イタリアとその版図は未だ広い
四王国の州の数は、もはや数え切れず、10人の公爵と2人の伯爵、さらに数多くの男爵がアデリンドの直属の家臣であった。
・バヴァリア公爵ルドルフ1世(23才) バベンベルグ家。モラヴィア公爵も兼ねる。家臣筆頭で四王国の領土の3分の1を占める大貴族。 ・ベスト公爵エギノルフ1世(67才) アルパド家。その他ハンガリーの3公爵の称号を持つ。一代にして、ハンガリー全域を征服した英雄。 ・サヴォイエ公爵ノーベルト1世(59才) バベンベルグ家。先王シモン2世の弟。一度も反乱を起こすことなく、兄に忠誠をつくした。 ・エステルゴム公爵オルドゥルフ1世(48才) バベンベルグ家。アデリンドの夫。四王国の共同統治者であり、密偵頭も務める。 ・チロル公爵ブルノ2世(46才) ティロル家。フェララ公爵も兼ねる。アルプスの麓とイタリア中部に領土を持つ。 ・モデナ公爵マグヌス1世(48才) スタデン家。先王シモン2世の代より家臣となる。 ・クロアチア女公爵グートルン1世(46才) アルパド家。ダルマティア公爵を兼ねる。父は、ペスト公爵エギノルフ。 ・スロヴェニア公爵イオアン1世(23才) バベンベルグ家。反乱の家系も父ルップレヒト3世は反乱を起こさず。そして、ついにドイツ貴族に戻る。 ・ぺクス公爵ゲオルグ1世(21才) バベンベルグ家。セケシュフェへ―州・ヴァシュ州を代々統治する。 ・上ブルゴーニュ公爵トーマス1世(63才) ルネン家。レンツブルグ家、バベンベルグ家に継承されてきた上ブルゴーニュ公爵の称号はルネン家に相続された。宰相を務める。
公爵以外の評議会メンバーは、元帥は、先代から仕える老練な戦術家であるドナウウォルト市長ハートヴィグ、家令は、レオポルト1世がスロヴェニア公爵と結婚して以来家臣となったスービック家のドラガン。宮廷司祭は、遠縁のバベンベルグ家のアンドレイ。
即位後、アデリンドが最も腐心したのは、王国内に内戦を起こさせないことだった。アデリンドは、家臣たちに金をばらまき、称号を授与し、恩赦を行うなどして、懐柔に努めた。ぺクス公爵にはフェイエール州を与え、チロル公爵には簒奪したバデン公爵の称号を与えた。
1376年3月。アデリンドは40才にして、二男エリヒをもうけた。夫オルドゥルフとの関係は、円満のように思えた。
1376年7月。クロアチア王国を選抜君主制にしようとしたクロアチア公爵の陰謀は未遂のまま終わった。しかし、これは本格的な内戦の前触れであった。クロアチア公爵はアデリンド即位後、王国内で領土を増やすべくセンジ州、ヴェグリア州と続けて攻撃していた。ヴェグリア伯はバベンベルグ家の者であるが、内乱を恐れたアデリンドは不干渉を貫いた。
1379年8月。クロアチア公爵グートルンは、ついにクロアチア王位を求めて宣戦布告した。グートルンの家系は、母方を遡れば、バベンベルグ家以前のクロアチア王家であるトリピミロヴィッチ家に繋がり、クロアチア王としての正当性は申し分なく、クロアチア貴族たちはこぞって支持した。この反乱には、常に反乱に参加するスロヴェニア公爵に加えて、2か月前に亡くなった叔父ノーベルトの後を継いだサヴォイエ公爵ベネディクタも参戦した。
アデリンドは、ペスト公爵エギノルフに助けを求めた。ハンガリー兵は精強で、帝国との独立戦争においても主力として活躍した。帝国と国境を接していないハンガリーは、兵力を集中させることが容易く、バベンベルグ家にとってとの切り札であった。
1381年10月。ペスト公爵エギノルフがストレスにより死亡した。享年73才だった。
1382年9月。エギノルフが死んだ後も、ハンガリー兵の士気は落ちず、傭兵隊と協力し、クロアチア軍を各地で破った。グートルンは和平に応じざるを得ず、アデリンドはクロアチア王位に対する挑戦を退けた。アデリンドは、戦後処理として、グートルンを投獄し、さらに、反乱に参加したサヴォイエ公爵を逮捕し、公爵号を奪った。新たなサヴォイエ公爵には、代々サヴォイエ伯を継ぐブルノーペン家のエルバールとした。
1383年5月。夫オルドゥルフが56才にして、愛人との間に不義の子をもうけた。先王シモン2世が存命の頃は、オルドゥルフは王位継承者の婿として相応しいかを常に試されている状況であった。オルドゥルフはその豊かな才能で舅の要求に答え続けたが、その舅が死に、オルドゥルフの中で何かが弾けたのだった。
アデリンドにとってオルドゥルフは9才年上の頼れる夫であった。女王に即位するまでのアデリンドは、エステルゴム公爵であり王国の密偵頭であった夫を支える立場であった。しかし、女王になり、アデリンドも変わらざるを得なかった。そして、内戦を終結させ自信を纏ったアデリンドは、もはや夫の影に隠れるだけのかよわい女性ではなく、それだけに自分より16才も若い女に溺れた夫が許せなかった。
1385年12月。スロヴェニア公爵イオアンは、クロアチア王国簒奪の陰謀を企てた。アデリンドは迷わず、イオアンを投獄し、公爵号を奪った。その冷徹な姿は、家臣を懐柔するかつての弱腰の女王の面影はなかった。奪ったスロヴェニア公爵の称号は自身が有するザグレブ伯の称号と共に長男アンドレアスに与えた。これまで反乱を繰り返してきたスロヴェニア公爵家の歴史を変えるための措置であった。
1386年1月。評議会メンバーを一新した。宰相には、時の皇帝の一族に連なるウィゲリチェ家のオルドゥルフを招聘した。元帥には、今や王国軍の主力であるハンガリー兵を率いるハンガリー貴族バログ家のアベル・サンドルフィ。家令には、スロヴェニア公爵となったばかりの長男アンドレアス。密偵頭には、イオアンの陰謀を暴いた立役者であるラムベルト・レンツブルグ。ラムベルトの能力を高く買っていたアデリンドは、領地を持っていなかったラムベルトにステイル男爵の称号を与え、年の近い長男の補佐役として期待した。四人はいずれも30前後と若く、アデリンドは皆を息子のように思い、頼もしく思っていた。
1388年6月。夫オルドゥルフが死去した。享年61才、自然死だった。若くして、アデリンドの婚約者となってから、バベンベルグ家のために馬車馬のように働いたが、晩年は、王国の中枢からは外れ、領地に戻り愛人と過ごした。最後の日々は、オルドゥルフにとってはようやく訪れた安らかな日々だったのかもしれない。
1388年7月。夫の死からわずか一か月後。アデリンドは52才にして再婚した。相手は、自分よりも35才も年下のメレツィオス・ドゥカス。言わずと知れたビザンティン帝国の皇族である。この結婚には疑問の声も上がったが、アデリンドに逆らう者はいなかった。
1391年1月。アデリンドは、いつしか「残酷王」と呼ばれるようになっていた。
1392年6月。偉大な先王シモン2世の御世に相続により失われたケルンテン公爵領を求め、アデリンドは帝国に宣戦を布告した。帝国との独立戦争から30年後のことである。独立戦争は、帝国の内乱に付け込んだものであったが、今回の戦争は帝国との全面戦争となった。しかし、アデリンドには成算はあった。国の規模こそ、四王国は帝国の半分だが、権力基盤の弱い皇帝に貴族たちは兵を出そうとせず、動員兵力で言えば、今や四王国の方が上だった。
1393年8月。元帥アベル・サンドルフィが闘病の末、死去した。四王国軍の指揮は、既に引退していた前元帥ハートヴィグが引き継ぎ、77才にして元帥に復帰した。
1397年2月。四王国は帝国に勝利し、ケルンテン州を奪った。5年半に及ぶ戦争の成果は、わずか1州であったが、周辺諸国に与えた影響は絶大であった。この勝利により、四王国は、帝国と同格の国と認められ、ウィーンの宮廷においては、もはや帝国は恐れるに足らずという気風が醸成されていった。そして、この勝利からわずか4か月後、勝利の立役者であった元帥ハートヴィグが82才にして死去した。その人生の大半を戦場で過ごした老軍人は、最後はベッドの上で大往生した。
1397年9月。皇帝フィリップが失意のまま死去すると、皇帝選挙により選ばれたのは、ブランデンブルク公爵のバベンベルグ家のエルバールだった。エルバールは、バイエルン王レオポルト1世の四女ハイルヴィヴァの末裔であり、紛うことなきバベンベルグ家の人間だった。ウィーンの宮廷では、皇帝が同じバベンベルグ家から出たことから、もはや四王国の王は皇帝よりも格上との意識が強まった。
1400年8月。四王国の後継者でありスロヴェニア公爵のアンドレアスが44才で死去した。
1401年3月。四王国は、ウソラ州をめぐり、ビザンティン帝国に宣戦布告した。時のビザンティン帝国の皇帝はまだ5才の幼女であり、その隙をついたのだ。
1403年8月。戦争開始から僅か2年後、ビザンティン帝国はウソラ州を四王国に割譲する和平に応じた。そして、ボスニア公爵の称号も簒奪した。これでアデリンドは、二つの帝国に勝利した女王となり、その声望はかつてない程に高まった。
1408年7月。アデリンドは、72才で死去した。自然死だった。その治世は、33年、独立したばかりの王国をローマ帝国、ビザンティン帝国と並び称されるまでに育て上げた。今や皇帝の冠に等しいともされる四つの王冠は、孫のオルドゥルフに引き継がれることとなった。
~続く~
平穏な治世。ここまで大きくなると、なかなか領土も増えない。 なぜ残酷王と呼ばれるようになったのかはよく分かりません。 あとは、残り2人です。