AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト4世の治世・後半

六代目 オーストリア公レオポルト5世

スタート時の状況

&ref(): File not found: "王朝図_1168.jpg" at page "AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト5世の治世";王朝図_1168 &size(12){''レオポルト4世は前妻との間に四女、後妻との間に二男、二女。孫は8人。 ''};

領有州保有する家名
エスターライヒ、シュタイアーマルク、イストリア、セーケシュフェヘールバールバベンベルグ
ケルンテン、ヴェグリアトリピミロヴィッチ
パッソ―ラポトネン
ヴァシュチエムガウ
クラインブルノーペン
ザルツブルグ、アキレア司教領
相続した公爵位オーストリア、ケルンテン、ぺクス
相続した伯爵位エスターライヒ、シュタイアーマルク

レオポルト5世.jpgレオポルト5世 並ぶものなき神学者、気まぐれ、社交的、忍耐、怠惰。学習力高し、軍事力まあまあ。いつの間にかフランコニア公爵の姉アンデシュ家の次女と結婚してた。

評議会_1186.jpg 父から評議会をそのまま引き継ぎ、元帥は姉の夫クライン伯に。

兄弟たちの反乱

 1186年8月。レオポルトがオーストリア公、ケルンテン公、ぺクス公の称号を継ぐと、弟カルロマンはウィーンの宮廷を離れ、 姉イルザの夫であるクロアチア王家出身のミルマンが治めるケルンテン州のヴィラッヒへと去って行った。これは内乱の前兆であった。

カルロマン.jpg

 1187年10月。レオポルトがバベンベルグ家の当主を継いでからわずか2か月後、クライン伯とヴェグリア伯である義兄のミルマンが宣戦布告。 その大義名分は、バベンベルグ家の当主をカルロマンとするためものであった。カルロマンは16才と若く、ミルマンに唆されてしまったのだ。

ミルマンの乱.jpg ミルマンの乱②.jpg

 カルロマンは当主の継承順位は、レオポルトの長男の次であり、大義名分としては十分であったため、内乱が拡大することも想定された。  しかし、姉ウルリケの夫でクライン伯ルトヴィクはいち早くレオポルト支持を訴えた。  「ミルマンの今回の暴挙は自らの野心を実現するためのものに他ならない。バベンベルグ家の正当な後継者はレオポルト4世である」

 ルドヴィクは元帥として自ら兵を率い、ヴァシュ伯オタカル、パッソ―伯ディエトポルトを従え、ミルマン討伐に赴いた。 この2人を軍勢に加えたのは、バベンベルグ家の結束を示すと共に、両者の裏切りを防ぐための処置でもあった。

ルドヴィクの軍勢.jpg

 1188年6月。ルドヴィクの軍勢は連戦連勝でミルマンを追い詰め、ケルンテン州の城を攻め落としていった。 そんな最中、驚くべき情報がもたらされた。カルロマンはレンツブルグ家のコンスタンツェとの婿養子婚の婚約をしていたが、 婚姻の際に婿養子婚を解消してしまったのだ。

カルロマン②.jpg

 レオポルトは亡き父と母との約束を違えたカルロマンの暴挙に怒りを覚えた。カルロマンがミルマンに担がれただけであれば、 反乱後は許し、将来はバベンベルグ家のために重く遇するつもりでいたが、もはや信頼関係は完全に崩れてしまった。

 1188年8月。レオポルトは母との約束を果たすため、妻の出身であるアンデシュ家のゲプハルトをインスブルック州から宮廷に迎えた。 そして、ゲプハルトとレンツブルグ家のベルタと婿養子婚姻をさせてその間に生まれた子にレンツブルグ家を継がせるつもりであった。

ベルタ婿養子婚.jpg ゲプハルト.jpg ゲプハルトは早速、上ブルゴーニュ宰相に就任。

 1180年12月。ミルマンからの降伏の使者が送られて、戦争は終結した。レオポルトは戦後処理として、ミルマンからケルンテン伯の称号を没収した。

&ref(): File not found: "ミルマンの乱③.jpg" at page "AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト5世の治世";

 1190年2月。ハンガリー王がぺクス公の称号を簒奪。ぺクス公領は4州で、バベンブルグ家とハンガリー王家アルパド家とが2州ずつ有しており、 その後も両すくみの状態が続く。

称号簒奪.jpg

1190年7月。母エルメンガルトはいつの間にか、再婚していた。相手は21才も年下のサリアン家のサヴォイエ公爵であった。

母の夫.jpg

 また、この時、エルメンガルトは、自らの領土であるケンプテン州を家臣から剥奪する戦争を起こしていた。 この後も、エルメンガルトは上ブルゴーニュ公爵として、勢力を伸ばしていく。

ケンプテン剥奪.jpg

 1191年4月。レオポルトは妹コンスタンツェと母の夫であるサヴォイエ公爵の後継者であるプルシア公爵マインハルトとの婚約をさせた。

&ref(): File not found: "コンスタンツェ婚約 .jpg" at page "AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト5世の治世";

 1192年7月。反乱を起こしたクロアチア王子ミルマンを釈放。ミルマンは引き続きヴェグリア伯としてレオポルトに臣下の礼を取った。

周辺状況_1193.jpg バヴァリア公爵家は領土が分裂、元気があるのはロンバルディア公爵家

ムスリムとの戦い

 1193年11月。前年からローマ帝国は皇帝自らが陣頭に立ち、南フランスのガスコーニュをめぐりムスリムとの戦争を開始していた。  信仰心の強いレオポルトも自ら軍勢を率いて皇帝に従っていた。その戦争の中で、バッソー伯爵ジグフリートが戦死した。  これにより、ジグフリートの妹アマリアが伯爵の称号を継いだが、後継者がモデナ伯爵家臣の子となり、もし女伯爵が亡くなれば、 パッソー州はトスカーナ公爵家のものとなってしまう。そこで、レオポルトはバッソー州の剥奪に対する陰謀を発動させた。  この時、家令アルヌルフは「相続はまだ先のこと、焦ることはありません」と諫言したが、レオポルトは聞く耳を持たず、 パッソ―伯の剥奪を家臣に命じた後、皇帝に従い南フランスの戦場に戻って行った。その後も、ムスリムとの戦争は凄惨を極めるものとなった。

 1194年5月。ヴェグリア伯ミルマンとヴァシュ伯オットーが戦死する。 ミルマン戦死.jpg オットー戦死.jpg

 1194年7月。囚われの身となっていたステイル男爵マーティンが獄中で死亡した。 マーティン獄死.jpg

 1194年8月。今度はついに皇帝オルドゥルフ1世までも戦死し、帝国は戦慄する。 皇帝戦死.jpg

 1194年10月。そして、ムスリムの尖刃はレオポルトにも襲い掛かった。暗殺教団大総長ポトフとの戦いで、 自ら切り込んでいったレオポルトはムスリムに囲まれ、その曲刀の餌食となった。享年26才、その治世はわずか8年であった。

レオポルト戦死.jpg

 上ブルゴーニュ公爵領を相続しバイエルン王国を再興するというレオポルトの夢は、母よりも早く死んでしまったため叶わず、 この夢は、8才の長男レオポルトへと引き継がれた。

~続く~

あとがき

あっと言う間に死んでしまいました。 なかなかうまく行きませんが、特に大きな失敗もなかったので よかったかなと。 長男も早く生まれてましたし。


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS