AAR/バべンベルグ家興亡史

四代目 オーストリアレオポルト4世(前半)

スタート時の状況

王朝図_1142.jpg レオポルト3世は三男一女を残した。

領有州保有する家名
エスターライヒ、シュタイアーマルクバベンベルグ
ヴァシュチエムガウ
パッソ―ラポトネン
ザルツブルグ司教領

周辺状況_1143.jpg バベンベルグ家の領地は、オーストリア公領とケルンテン公領に分裂。

アルボイノによる摂政政治

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 バベンベルグ家分裂後、摂政アルボイノがまず行ったのは、評議会の強化だった。レオポルト3世が信頼していた家令のカール・フォン・ヴィラッヒは 元々ケルンテン州出身の貴族であるが故に、弟エルンストの宮廷に去った。カールの後を担える人材を探していると、アルボイノは かのアマデウス・フォン・メルクが自分をウィーンの宮廷に招いたことを思い出していた。  アルボイノが見出したのは、帝国北部のゲルレ州のズッフェン男爵の次男、27才のアルヌルフ・アルヌルフスズーン・ファン・ズッフェンだった。

アルヌルフ.jpg

 当初、ウィーンの宮廷では、彼が、同じ帝国内とはいえ遠い北部のオランダ人であること、そして、名前が長すぎることで忌避されたが、 アルボイノは、かつて、アマデウスが言ったのと同じセリフを廷臣たちの前で言い放った。「この宮廷にアルヌルフ・アル・・・以上の人材はおらん」  こうして、アルヌルフはバベンベルグ家の家令に就任した。また、アルボイノ自身も幼いレオポルトを支えるべく密偵頭となり評議会に復帰した。

評議会_1143.jpg

 1144年9月。先のシュタイアーマルク伯の叔父のヴァシュ伯のエーレンフリートが反乱を起こした。  アルボイノは、先代のレオポルト3世のチエムガウ家に対する処置は誤りと考えており、彼がもし評議会にいれば主君を諌めたはずであった。  アルボイノは摂政政治開始直後から、ヴァシュ伯の反乱を阻止しようと尽力していてたが、その努力も空しく反乱は起きてしまった。  アルボイノはスイス傭兵を雇うと共に、元帥ヒセルベルト、バイヤス・マッガらに反乱鎮圧を命じた。

ヴァシュ州反乱①.jpg ヴァシュ州反乱②.jpg

 1145年7月。反乱を鎮圧。レオポルトは自らヴァシュ伯の称号を得た。

 1146年2月。アルボイノはレオポルトの成人を待たずして、72才で自然死で亡くなった。ウィーンの宮廷に来てから45年、 そのほとんどの期間をオーストリア公家の密偵頭を務めていた功臣は死のしばらく前に後任の摂政に元帥ヒセルベルトを指名し、 政事の万事の引き継ぎを済ませた後、用は済んだとばかりに死んでいった。アルボイノが摂政を務めていた期間 不審な金の動きは一切なかったという。

陰謀その1

 1146年10月。レオポルトは成人し、親政を開始した。この時点でのオーストリア公爵の後継者は弟のケルンテン公爵エルンストだった。

レオポルト4世.jpg 熟練の戦術家、正直、お人よし、忍耐、勤勉、策略家。能力的にはまあまあ。

 この頃、廷臣たちの間で奇妙な噂が流れていた。「ここ数代、バベンベルグ家の当主の名はエルンストとレオポルトが順番になっている。 現当主レオポルト4世の後は、弟君がオーストリア公の座をエルンスト3世として継がれるだろう」と。

 宮廷の不穏な空気を察し動き始めたのは、祖父エルンスト2世の非嫡出子ハートヴィグ・フォン・バベンベルグだった。  ハートヴィグは時の宰相エギノルフの娘と婚姻し、ルドヴィンゲル家を継いでおり、アルボイノの死後、密偵頭となっていた。  ケルンテン公暗殺の陰謀を最初に計画したのはこのハートヴィグであった。  ハートヴィグはまず、義父エギノルフに相談し、バベンベルグ家の将来のためにはこれしかないと説いた。  「義父上、今やらなければなりません。時間が過ぎれば過ぎるほど、事は困難となり、バベンベルグ家の分裂は決定的となります」。  エギノルフの賛同を得ると、次は家令アルヌルフに相談した。アルヌルフは自分は新参者故、自分から言い出すことは差し控えていたが、 それしかないと考えていたと答え、すぐにハートヴィグの考えに賛成した。

弟暗殺①.jpg グントラムは獄中でしぶとく生きている

 評議会の3人がこの陰謀を主君に伝えるべく、レオポルトの私室を訪れた。3人を代表し、ハートヴィグが、レオポルトに言った。 「バベンベルグ家の将来のため、亡きレオポルト3世閣下のバイエルン王国再興の夢のため、弟君を弑し奉ります。 許可はいりません。失敗した時は、私の首を献上いたします」  レオポルトは動揺しも宰相エギノルフの顔を見た。エギノルフが重々しく頷くと、レオポルトは重臣たちに「退室せよ」と命じ、「やめよ」とは言わなかった。  ハートヴィグはケルンテン州のクラーゲンフルト市長でケルンテン公爵家の密偵頭であるクリストファーと密議を交わしていた。  クリストファーから驚くべき事実を聞かされた。既にケルンテン公爵の家臣がレオポルトの暗殺を計画しているとのことであった。  1146年11月。レオポルトは事故死に見せかけて殺されそうになったが、それを阻止したのは、曽祖父エルンスト1世の弟リュドゲールの子 マイケル・フォン・バベンベルグだった。

暗殺阻止.jpg

 1146年12月。クリストファーがエルンストを狩猟旅行に連れて行き、エルンストは猟師が射殺した。 表向きは、流れ矢が当たったことにされ、エルンストの死因は事故死とされた。

弟暗殺②.jpg 弟暗殺③.jpg

 こうして、レオポルトは弟の死によりケルンテン公爵領をすべて相続し、父レオポルト3世の領土を回復した。

ケルンテン相続.jpg

 今回の陰謀の中心人物たるハートヴィグは30代にして一線を退き、新たな密偵頭にはエルンストの密偵頭であったクリストファーが就任した。  後日、ハートヴィグは身内の者に「グントラムのようにはなりたくない。早めに隠居した方が警戒もされないだろう」と言ったという。

周辺状況_1146.jpg

平穏な日々

 1147年5月。レオポルトは投獄していたヴァシュ伯エーレンフリートを解放した。シュタイーマルク伯であったオタカルは 既に遠くフリースラントへと去って行ったが、エーレンフリートはエスターライヒに残った。

 1148年1月。レオポルトの義兄である下ロレーヌ公爵の要請に応じてブラバント公爵家と戦争に参戦。 元帥ヒセルベルトを大将としてブレーダへ遠征、翌年5月に終結、勝利に貢献する。

 1148年7月。レオポルトはかねてより婚約していたボヘミア王子の長女エリスカ・プレミスリドを妻に迎えた。

 1149年4月。レオポルトは元帥ベレンガル・ルトヴインゲルの末裔であるエギノルフ・ルトヴィンゲルをエスターライヒ州に新設したステイル男爵に封じた。  以後、レオポルトはバベンベルグ家の隆盛に功のあった廷臣の末裔を男爵に封じていく。

 1151年9月。レオポルトは成人してから5年が経ち、評議会の刷新を行った。

評議会_1151.jpg

 引退したエギノルフの後の宰相には、ウィーンにやって来たドイツ貴族のマンフレト・スタデン、31才。  スタデン家は遡ればブランデンブルグ公爵家に続く名門である。引退したヒセルベルトの後の元帥は、ブルノ・フォン・ヴァスヴァル、39歳。  ヴァスヴァル家は新興貴族で、ブルノはチエムガウ家の次女と婚姻させた。家令と密偵頭は変わらず、 それぞれオランダ貴族のアルヌルフ・アルヌルフスズーン、クラーゲンフルト市長のクリストファーである。  宮廷司祭にはエリヒ・フォン・パッソー、35才でレオポルト即位からこの任にあった。

 1152年2月。グントラムが獄死。

グントラム獄死.jpg

 1153年8月。神聖ローマ帝国が標準的な国主の権威法が制定された。これにより、帝国内部での私闘が禁止された。

 1157年1月。長く元帥を務めたヒセルベルト・ツェーリングが63才で自然死で亡くなった。

 1160年1月。バベンベルグ家の戦争において、常に一翼を担ってきたバイキングの末裔バイヤスマッガが自然死で亡くなった。享年は、何と91才であった。

 1161年2月。伝説的な家令アマデウス・フォン・メルクの末裔であるオルドゥルフ・フォン・バベンベルグをエスターライヒ州に新設したクレムス男爵に封じた。

 レオポルトは31才。治世は安定しており、バイエルン王国再興のためにあと1州という状況も変わっていない。  しかし、この治世には一つだけ不安材料があった。妻エリスカとの間には既に4人の子を設けていたが、すべて娘だったのだ。  オーストリア公爵家の相続法は伝統的に準親族制を採用しており、男が産まれなくても相続に問題はないが、その場合は長女の婿として 迎える相手は慎重に選ぶ必要がある。  レオポルトと家令アルヌルフは頭を悩ませるのだった。

~続く~

あとがき

前半です。初めての暗殺はうまくいくか不安でしたが 陰謀だったのでうまくいきました。相手の密偵頭が協力してくれたので 達成率は385%というとんでもない数字でした。 後半も地味展開ですが、引き続きお付き合い願います。


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