さて、前回はどこまで話をしたんだっけ?ああ、そうそう。私が公爵になるまでだったな。本当にあれは予想外だったよ。 では早速私が公爵になってからのことについて話すとしようか。
まずは私が就くことになった上ブルグンドの当時の情勢について説明するとしようか。
これが我が上ブルグンド公爵領である。
当時上ブルグンドには私も含めて6人の伯爵がいた。そのうち2人の伯爵は別な公爵家の封臣であった。 私が上ブルグンド公爵になった際に私のもとにつけられたのは以下の3伯爵であった。
ベルン伯レンツブルグ家
ベルン伯ウルリッチ。私の妹の旦那である。頼れる親戚だ。
ブルゴーニュ伯イベラ家
ブルゴーニュ伯グィラウメ。代々ブルゴーニュの地を治めてきた土着領主である。
ネウチャテル伯ネウンブルグ家
ネウチャテル伯ウルリッチ。我がハプスブルグ家とは紛争の絶えない仇敵の間柄である。
公爵となり形式的には彼らを配下としたものの、公爵という地位を考えなければ同じ1領主にしか過ぎず、各々の勢力は拮抗している。 同じ伯爵であった我がハプスブルグ家が出し抜く形で彼らの上司になったことに、内心絶対に快くは思ってないだろう。 彼らが結託すれば容易に私を公爵の地位より引きずり落とすことが可能だ。 私の権力基盤は極めて脆弱なのだ。
1075年。宰相より待ちに待った知らせが届いた。
かねてより険悪な関係であったネウンブルグ家の領地であるネウチャテルの正当な支配者はこのウェルナー・ハプスブルグであるという書類のでっち上げに成功したというのだ! 非常に強引であまりにも事実とは逸脱しすぎたでっち上げである。信じる者など誰もいないであろう。 だが、それでいい。はったりであってもそれを押し通せば事実になるのである。 今や私にははったりを押し通すことのできる力があるのだ。
1075年の末。私は不当に我が正当なる領地であるネウチャテルを占拠しているウルリッチ・ネウンブルグに対し、土地の返還を求める書状を送った。
しかし、愚かにも彼は私の正当なる要求を拒否したのだ! え?当たり前じゃないかって?
ウルリッチ・ネウンブルグは私に反旗を翻し、ネウンブルグ城に籠城の構えを見せた。 おおかた、時を稼ぎ皇帝が裁定してくるのを待とうという考えだろう。とても浅はかだ!貴様が帝都に送った使者はとっくにこちらが捕えているのだからな! それに「たまたま」ネウンブルグ城近郊にいた上ブルグンド軍によってすでに城はアリの出る隙間もないほど厳重に包囲されているのだ!!
逆賊の根城を攻める勇敢な我が軍である!
かくして、愚かな反逆者は獄につながれ、正当な領地が私のもとに戻って来たのであった。正義は勝つ!
それから3年余りが過ぎた1078年の9月のこと。ブルゴーニュ伯レナウド(上述のグィラウメの息子)が上ブルゴーニュ公爵位の請求権を捏造しているという驚愕な知らせが密偵頭より届いた。
愚か者め!
他人の正当なる所有物を自分のものだとでっち上げようなどど、人として道に外れた浅ましき所業である。 当然、公爵領の風紀を乱すこの軽薄者の逮捕をすぐに命じ、彼もまた獄へとつながれたのであった。
軽薄者の末路。
しかし、このような者を投獄するだけで許しては示しがつかない。また、いつ同じようなことを企む者があらわれるやも知れない。 公爵領の安寧のためにも、ここは心を鬼として、他への見せしめとして彼の領地であるブルゴーニュの剥奪を私は命じたのであった。 別に望んだことではないが、結果的に私はアールガウに加え、ネウチャテル、ブルゴーニュの3つの直轄領を持つことになってしまったのだ。 ああ、本当はこんなことはしたくなかった。
かくして上ブルグンド公爵領は我がハプスブルグと義理の弟であるベルン伯レンツブルグ家による安定した統治体制が可能となったのだよ。
私が公爵になる数年前のある日、狩猟に行ったんだ。狩猟中とても腹が減ってな、たまたま近くにあった家に食料を求めた。
ところがさあ、その家で働いていた村娘がえらく美人でね、ひとめぼれってやつ?をしてしまってね。家の主人を説き伏せて娘を私の側近くに仕えさせることにしたんだ。 美人の若い愛人を得ることができてとてもうれしかったよ。でもうちの女房に知られたら何をされるかわからない。 女房に隠れてこそこそと愛を育んだものさ。 しかし遂に女房にばれる日が来てしまった。件の娘が私の男の子を産んだんだ!
私は信義を大切にしたいと思っている。嘘だけがつきたくない。 自分の子であることを潔く認めたよ。そりゃもう、女房はカンカンだね。男の子に財産の相続権を与えないことで何とか許してもらったさ。
後にこの男子は自ら修道僧になりたいと申し出てきた。
教会史に名を残す名僧になってもらいたいものだよ。
そうそう、1075年の12月のことだったろうか。何と驚くべきことに我が嫡男オットーとハンガリー王の長女の婚約が決まったんだ。
しかも、ハンガリー王に男子さえできなければ将来的にハンガリー王位を継ぐことになる王女だ。 孫の代でハプスブルグ家がハンガリー王になるのも夢ではない。当時の私は興奮したものだよ。 この後ハンガリーが選挙王制に移行したことで私の野望は見事に打ち砕かれてしまったがね・・・。
帝国内では皇帝や諸侯がそれぞれの思惑のもと、蠢動していたな。 1081年にはボヘミア公がボヘミア王への即位を宣言した。
元々ボヘミア諸侯は帝国とは一線を画する動きが強かった。ボヘミア王国の建国により、独立自治の動きをさらに強めていくのだろうか。
上ロレーヌ公ゲルパルトが一躍帝国の英雄になったのは1089年のことだった。
何と彼は、単独でフランス王に戦を仕掛け、勝ってしまったのだ。 彼の人気は大きく高まり、一時は次期皇帝の筆頭候補にまでなっていたな。 え、いくらなんでもフランスが1公爵に負けるのはおかしいって? ところがおかしくないのさ。地図を見てくれよ。
フランス狂いの皇帝の度重なる遠征で弱体化したフランスは、フランスとアキテーヌに大きく分裂してしまったんだ。
皇帝がフランスをここまで弱らせるほど執拗に攻めたのは、フランスが親教皇の立場にあったからなのかもしれない。 この時、帝国は皇帝派とローマの教皇派の対立が強まっていたのだ。 中でもイタリア諸侯はその多くが教皇の支持者であった。 我々スイス諸侯は皇帝派と教皇派の勢力のちょうど中間に位置しており、中立を決め込んでいた。中立と言えば聞こえはいいが、要はやっかいごとに巻き込まれたくはなかったのだ。
1069年の11月。皇帝派、教皇派両者の対立が決定的になったころ。皇帝が遂に動いた。
対立教皇ステプハヌス5世を擁立したのだ。 ローマの教皇かドイツの教皇か。 今まで中立という陰に隠れていた私にも決断の時が迫っていた。
私は対立教皇を支持することを決めた。私の主君は皇帝だ。皇帝の意志に従うのが正しき道だと判断したからだ。 何よりも上ブルグンド公爵の爵位を授かったという恩もあった。 今思えば、私の奏上を拒否したのに、一転して爵位をくれたのには私を皇帝派に引き入れようという意図があったのかもしれない。 もしもそうだったのなら、皇帝の策は大成功を収めたということだ。
1081年8月。私は上ブルグンド公爵領のde jure地域の回復を名目に、我が正当なる土地を不当に支配するロンバルディア公エステ家に宣戦布告した。
ロンバルディア公エステ家。現在イタリア最大の教皇派勢力。
ロンバルディア公エステ家はローマの教皇を支持している。そのエステ家に喧嘩を売ったことで、我がハプスブルグ家が皇帝派であるということを世に知らしめたのだ。 戦は長期化した。というのも、南仏の強豪プロブァンス公が敵方で参戦してきたからだ。
両者の戦力は拮抗してにらみ合いが続いた。長期戦はこちらに不利である。焦った私のもとに、カンタベリー公がエステ家に宣戦布告をしたという知らせが届いた。
漁夫の利を狙ったカンタベリー公。
これにより背後を衝かれる形となったエステ家の敗北は決定的となった。
6年にも及ぶ戦の結果、私は何とか勝利を収めることができた。 そして、それは皇帝派が教皇派に対し1歩有利になったことを意味していたのだ。
今日はよく来てくれた。もう、私も長くはないであろう。話を聞いてもらえてとてもよかったよ。 え、実は報告したいことがあるって?しかも次男のウェルナーのことでだって?
ウェルナーが不義の子をつくっただと!?
1090年8月。初代上ブルグンド公爵ウェルナー・ハプスブルグは世を去った。享年65歳。後は嫡男オットーが継いだ。