AAR/デンマーク年代記

エアンスト一世

エアンスト一世はオト大胆帝の第二子である。 歳六にして先帝よりシチリアとランゴバルトの王位を賜り、 歳十六にしてイタリア皇帝となられた。 歳十九にして父オト大胆帝崩御により四つの帝位と十三の王位を兼ねられた。 性格は謹厳実直で神を敬い、諸学に通じられた。 先帝までの皇帝と異なり、イタリア半島サルッツォにて政務を採られた。 001.jpg

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3月17日、皇帝はジョリー家のフィリパを皇后に立てられた。 003.jpg

005.jpg 5月20日、教皇シルヴェステル五世はタロン公アダムらと帝国を覆さんと共に謀り、その情報は皇帝にも奏上された。 皇帝はシルヴェステル五世の教会を軽侮し、百姓と諸侯を顧みない性を憂い、ベルクヘイミルの司教ロディンを対立教皇フェリクス五世として立てられた。 &ref(007.jpg)

偽教皇シルヴェステル五世とタロン公は大いに狼狽し、 偽教皇.jpg 何に由りて、汝は教皇と成りて来るか。

大して教皇フェリクス五世の応えるに、 教皇.jpg 汝は天に逆らい、道は無い。その上帝室を傾けようとしている。 教皇.jpg 故、教皇と成りて、汝ら逆う者を討たん。これ皇帝の勅命なり。

6月11日、皇帝は偽教皇派のナポリ王エンリクを捕えると、 翌日、タロン公アダムはイングランド王ヒュー、テッサロニキ王エイクネチャン、セルビア王ヴラスティミル、マジャール王シグルド二世、ヌビア王ダヴィド、アビシニア王テファセ、ドゥブロヴニク王ゾラン、ハリーチ=ヴォリン王ヴィレリツラウ、レオン王スィスィーリェ、ペルム王アンドレイ、ホルムガルドル王ヤロツラウらの諸侯と通じて兵を挙げ作乱し、叛いた。 &ref(009.jpg) &ref(010.jpg)

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宰相スオミ教徒のブルタシー族長オトラ、帝国元帥セルビア王ヴラスティミル、宮廷家令ドゥブロヴニク王ゾランも叛乱側に回った。

ロンバルディアの叛徒には皇帝御自ら1万の兵を率いて親征なされ、 公正帝の子のエジプト王ヨルンに兵2万を授けてアエギュプトゥスに、 同族のアイスラント公グリムに兵5千を授けてカッパドキアに、 イーイ家のイングリア公トリールスに兵1万5千を授けてマウレタニアに、 バルガ公トルドに兵1万6千を授けてマジャールに、 ラインフランケン公メインハルトに兵2万を授けてシチリアに遣わしめ、詔して曰く、

&ref(最終皇帝.jpg) もし君命に従わぬものがあれば、兵をもってこれを討て。

と、各々に印綬を授け将軍とした。 &ref(018.jpg)

8月14日、ラインフランケン公メインハルトがトレントのランシア城でハリィーチ=ヴォリン王の1万の軍と、イングリア公トルギルスがアンナバでヌビア王の1万の軍を破った。 &ref(012.jpg)

9月20日、エジプト王ヨルンがクスカムでエジプト王ヨルンが1万3千の軍を破った。 &ref(014.jpg)

9月26日、アイスラント公グリムがタロン公とアビシニア王の軍1万を破った。 &ref(013.jpg)

10月22日、バルガ公トルドがドミトロヴィカの会戦でテッサロニキ王の率いる1万2千の軍を破った。 &ref(015.jpg)

ラインフランケン公メインハルトはウドビナにおいて叛徒1万を破り、大陸の叛徒を鎮定した。 &ref(016.jpg)

帝国軍はブリタニアの叛徒を征伐するためラインフランケン公軍をブリタニアに遣かわせ、カンタベリーに軍を陣した。 &ref(017.jpg)

1488年1月12日、カンタベリーに上陸した帝国軍2万5千に叛徒5万が襲来した。 18日、モーリ公ホルムイェルの軍3万カンタベリーに到着し、叛徒に対し反撃を開始した。 2月8日、叛徒軍は敗走し、タロン公アダムは捕えられ、叛乱は鎮圧された。 &ref(019.jpg)

参加した王は皆王位を剥奪された。 イングランド王位はブレートラント王ルズヴィグの子、バヴォに、 レオン王位はアキテーヌ公グルムに、 ヌビア王位はマルツォフィロスの第一子ザカリアスの子、ザカリアスに、 そのほかの王位も次々と臣下に賜り、皇帝の保持する王位は北欧の三国とロンバルディア、シチリア、エルサレムの六つみとなった。

5月11日、マルケの総督サルヴォ二世が臣従した。 この者の臣従により、地上のすべてのキリスト教徒は皇帝の臣下となった。 &ref(021.jpg) &ref(020.jpg)

今や廃教皇に従う者は一人もいない

7月31日、皇帝はエルサレムに行幸された。 &ref(022.jpg)

8月23日、ノーフォーク朝イングランド王オーブレーの三世の孫、ミカエルがイングランド王位を求めてバヴォに対し反乱を起こした。

9月11日、皇帝は馬上槍試合を開催された。

10月19日、叔母エストリズを宮廷道化師とした。

1489年1月2日、皇帝は宴を催された。

1月22日、宮廷近くに盗賊が出没し、宴に参内した諸侯が被害にあった。 &ref(023.jpg)

6月30日、皇帝は群臣に詔して曰く、 &ref(最終皇帝.jpg) 今叛けりし者、悉く誅に伏し、国内には事変が無くなった。唯し、海外の荒ぶる俗らは、騒動が未だ止まない。

サラセン人を征伐すべくティムール朝、ダイリャム朝、カラマン朝について軍を興した。 &ref(024.jpg)

9月23日、オロミエの会戦でティムール軍1万3千を破った。

12月13日、サラセン人のシッソが侵略してきた。

1490年2月13日、ティムール朝可汗バラは降伏し、バグダッド周辺を帝国に割いて詫びた。 皇帝はサラセン人への宣撫のため、バクダッドの司教は顕学にして美麗な者を就かせるよう詔し、 デンマーク人のエスベンが司教となった。 &ref(025.jpg)

3月26日、カラマン朝がベイ=グンドゥズを割いて降伏した。

6月10日、シッソの軍隊は鎧袖一触にして破れ、シッソは捕えられた。 500グルデンもの大金を所持していたため、それを没収し追放した。

6月18日、皇帝は教会の修繕を行った。

7月2日、160グルデンの献上があった。

7月6日、ダイリャム朝が降伏し、マルツバン=カシムは帝国領となった。

8月4日、皇后フィリパが御懐妊された。

11月24日、皇帝は皇后の懐妊とサラセン人征伐の成功を祝い宴を催すことを詔し、 宮廷付近に巣食う盗賊を捕えるべく、元帥セレウキア伯爵ギルドを遣わしめたが、捕えることは出来なかった。 &ref(026.jpg)

1491年3月5日、皇后は男女の双子を出産された。 皇帝は大いに喜ばれ、女子にイリザベト、男子にオトと名付けられた。 &ref(027.jpg)

3月26日、バイエルン大公ステーンが薨去した。35歳であった。 私戦で敵に捕まり、牢獄で薨去したのだという。 大公位は父、ブルガリアとサルカヴェトロの王イーナルが継承した。

4月1日、皇帝は先帝の時より牢獄にいるブレートラント王ルズヴィグを釈放し、ルズヴィグに詔して曰く、 &ref(004.jpg)

&ref(最終皇帝.jpg) 汝が子、バヴォ、イングランドの僭称者ヒューを鎮めることを得ずして今や敗北寸前なり。 故、汝、征きてブリタニアを鎮めよ。 是を以て、ルズヴィグ、皇帝の詔を承りて、子の業を成さんとし、即ち兵を擧げて撃った。

6月4日、ザクセンとモルドヴァとワラキアの王プリドビョルン二世が薨去した。52歳であった。 祖父よりモルドヴァ、ワラキアの王位とホルスティーン公位を引き継ぎ、よく治めた為にザクセン王位を賜った。 性格は厳正にして忠義に富み、容姿端麗であったという。

7月16日、皇帝は宮中に諸王を集わせ、宝剣御璽を献じせしめた。 &ref(028.jpg)

8月11日、ブリタニアの僭称者ヒュー等、イングランド王バヴォに叩頭し降伏した。降伏した者を免して、従わざる者を誅したという。

9月5日、皇帝は狩猟に巡行された。

9月23日、皇帝は狩猟から還幸された。

 

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1492年1月1日、皇帝は詔して曰く、 &ref(最終皇帝.jpg) 朕、初め帝位を承けたまわりて、国家を得て保つも、明かりも遮る所有り、徳も安んずることが出来ず。是を以て、叛乱多に起りて、百姓、災を蒙る。 &ref(最終皇帝.jpg) しかるに今、罪を祓い過ちを改めて、篤く神祗を敬い。また、教義を垂れて荒ぶる俗を服属させ、兵を挙げて以て服さぬ賊を討つ。 &ref(最終皇帝.jpg) 是を以て、官に荒廃無く、下に逸民無し。教化はゆき行われ、風雨はときに和らぐ。異国の者は訳を重ねて来朝し、海外の者も既に帰化している。善き事かな。

皇帝此歳二十三、早朝に起き夜遅くに寝まして、租税を軽くし兵役を少なくして、民衆をゆるやかにし、徳を布き恵みを施して、困窮を救う。 訓経を宣達され、遠近悉く治まり、皆、聖志を継ぐ。徳を受けざる者なく、各々その家のもとに安んず。 死を弔い疾を問いて、鰥寡孤独の者を養われた。是を以て、政令よく行われて、天下大いに平なり。

編集後記

編年部はこれで終了です。 あと国王列表、諸蕃伝、帝室系図で完成です。


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