オト・アヴ・エストリズセンはヴァルデマ再興王の兄である。
スウェーデン王ビルイェルの娘アウネスを夫人とし、一子クリストファを儲けた。
デンマーク領の回収は弟にこそ功績があると恭しく王位を譲られ、自身はエストラント公の地位にお引きになられた。
ヴァルデマ再興王の崩御後、王子イーレクは未だ幼くエストラント公オトが践祚され王位に就かれた。
即位後、王はスコーネ大司教に若く聡明な者が居ると聞き及び、すぐさま召された。
スィモン・キハクマツにハーススル伯爵を賜り、宰相とした。
嫡子クリストファにエストラント公爵を賜り王国元帥とし、密偵頭ヴァルデマをオーゼル=ヴィク公とした。
3月25日、八歳年下の弟に先立たれた王は深く悲しまれ、
「日月が光を失い、天地はすでに崩れてしまった。これから誰を頼りに生きていけばいいのだろうか」
と宣われた。
二人の仲は良くない
7月8日、サラセン人の一派、シーア派がスンニ派に勝利宣言を出した。
だが、それはスンニ派が一方的に凋落しただけであり、シーア派の宗教権威はカトリックが常に上回っており、東方正教にすら及ばない権威であった。
12月30日、王は宴を開かれたが、レウエーレ市長カフツら二名は参らなかった。
1365年1月1日、王は宴会の最中に密偵頭ヴァルデマ2世からスウェーデンとノルウェーの女王、アウネスの崩御されたことをお聞きになられた。
スウェーデンとノルウェーの王太子であるクリストファは王と杯を交わした後、その日のうちにストックホルムに立たれた。
そしてこれが王と王太子の今生の別れであった。
この宴会は続けられたが、しめやかなものとなった。
その中でも騒ぎ続けたものは王から睨まれることとなった。
1月17日、王はカルヴナ公爵の娘、ペンカ・シスマンを王妃として立てた。
気立てのいい才女と評判で、王との関係も非常に良好であった。
3月27日、スウェーデン王クリストファは22歳の若さで崩御された。
王は大いに嘆き、先王の王妃、ビアトリクスを疑った。
彼女は先王時代にクリストファを暗殺しようとしていたことを密偵頭ヴァルデマに抑えられており、
先王の寛大な政策により王は王妃に何ものたまうことなく、共犯者のみを取り締まる方針であった。
オト王もその方針を引き継ぎ、何ものたまわなかった。それが仇となったのか、
クリストファが国外に出、王の目が届かなくなったがゆえにビアトリクスがまた企んだのではないか。
そのような証拠は何もない。だが、王としてはそう疑わざるを得なかった。
3月28日、王はアイスランド公を宰相、ハーススル伯爵スィモンに、エストラント公をインゴルフ賜る等、所領の整理を行われた。
1365年9月11日、ヴェスターゴトラントの女公イルヴァが叛いた。 1366年7月13日、乱は鎮められた。 イルヴァは公爵位を剥奪され、スカラ伯イーレクがヴェスターゴトラント公を賜った。
1366年5月17日、エストラント公インゴルフが叛いた。 王は公爵号を剥奪し、ヴィアラント伯爵トルギルに賜った。
1367年2月8日、王国元帥アケが卒去した。 ヴァルデマ再興王の時代に招かれた四人の将軍の一人で、王太子クリストファの後任で元帥となった。 後任の元帥には招かれた四人の将軍の最後の一人であるディートウィンが任じられた。
1367年3月16日、神聖ローマ帝国は皇帝レイナウド2世が決闘で弑され、その子供は未だ幼かった為ルードヴィヒ5世が重祚された。
王の姉、マルガレーテはその前年に薨去しており、ルードヴィヒ5世はニーダーロートリンゲン大公ジャンの後妻、ネシバを後妻として迎え入れた。
ムスリムで、庶民出身者が皇后にまで上り詰められたのだ。
3月17日、イーレク王子が成人され、ハンガリー女王アデリンデとご成婚された。
不穏なtraitが見える
イーレク王子が先王ヴァルデマ王の唯一の男子であり、 オト王の子クリストファは崩御されたことから全ての王位を継ぐ者はイーレクであると王と王子、どちらもそう思っていた。
ところが5月17日、王妃ペンカは懐妊された。
デンマークとエルサレムは選挙王制だが、ノルウェーとスウェーデンは長子相続制である。
生まれてくる子供が男子女子どちらであろうと国家が分裂することは避けられなくなっていた。
9月16日、王は突然にエルサレムへの行幸を詔した。
10月2日、オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世を摂政とし、王は御進発された。
10月7日、王は行幸の最中に病にかかられたが、それでも行幸を続けられた。
11月15日に王が還幸されたとき、諸臣は王の変貌に皆驚いた。
いままで現実主義的で教会を軽んじていた王はエルサレムにおいて奇蹟を体現され、教会を尊ぶようになられた。
Both Cynicalの+20からCynical vs Zealousの-20で計40も評価が変わってしまう
12月17日、王妃ペンカは男子ヴァルデマを出産されたが、また出産の際に歳21にして崩御された。
王は大いに悲しまれ、食事も喉を通らず月を見ても心を痛めるさまであった。
もう一つ王を悲しませたのは、デンマークの貴族らはヴァルデマではなくイーレクを未だに新王として支持し、
王の死後またも分裂することが確実であったことがある。
宰相アイスランド公スィモンはこの事を深く案じ、スカンジナビアの三国をまとめるに相応しい帝位に就かれるよう奏上した。 王は宰相の提案に興味を示され、帝位即位の取りまとめを宰相に命じた。
9月4日、前王妃ペンカの父、カルヴナ公爵ミハイル2世が薨去され、
公爵位は孫のヴァルデマが僅か一歳にして継承することになった。
摂政に公爵夫人にしてヴァルデマの祖母であるイヴァナが就いた。
このころ、ブルガリアはすでに帝国とはみなされなくなっていた。
ヴァルデマの生誕で帝国の過半が将来ノルド人の物になることが明らかになったとき、諸侯は今やブルガリアの君主はEmpelorではなくKingであると認識した。
ツァール・ミハイル3世は頑なにツァールを名乗り続けたが、もはや没落は止めようがなかった。
1369年2月1日、宰相アイスランド公スィモン以下、群臣諸侯みな王の下に参り奏上するには、
臣が伏して考えますに、国王陛下こそが全ての王民を子として治められるにふさわしい方に最も叶っております。
臣ら、国家のために考えますは、今こそ全てのノルド人の皇帝として即位されるべきであると。
神の恩寵と臣の崇敬をうける陛下は皇帝に即位され、王民に光を照らしてくださいませ。
王は宰相らの奏上を受け入れた。
2月15日、神の恩寵によりデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、エルサレムの王であらせられるオト陛下はノルドの皇帝に戴冠され、こう詔した。
朕の群卿大臣、百官諸寮の臣ならびに公侯伯またその他の封臣はみなよく聞け。
朕の代々の祖らは、卿らの祖先の助けを受け共に国を治められた。朕は今神の恩寵と卿らの忠孝によりデンマーク王、スウェーデン王、ノルウェー王を兼ねるに至った。
今やすべてのノルド人が朕の忠実なる臣民であり、ノルドは王国や公国で分けられるものではなく、朕の下に一つである。
故に朕は全ノルドの皇帝として即位することを宣言する。また、朕は全ノルドの皇帝として詔す。
嘗てノルド人の中にはノルドを離れ、遠く離れた異国の地にて定住するものも多く居た。
それらの子孫で、いまノルドの地に再び帰郷したいと申す者は誰であろうと朕は歓迎する。多くのノルド人が帰参することを朕は期待する」
皇帝はかつて祖国を離れたルーシ、ノルマンディー、ブリテン、イタリア、アンティオキアの各地のノルマン人に集結を呼びかけたが、 ノルマンディーとブリテンのノルマンディー家、イタリア、アンティオキアのオートヴィル家は末子分流に至るまですべて断絶しており、 リューリク家のイェフィミのみがカイザーの下に参られた。 武勇の誉れ高いノルマン人のファーラモントとオーセレディーも参った。 ノルドではないがオルデンブルク家のレオポルドもカイザーを慕い参内した。
1369年5月15日、皇帝はカレリアはノルド人の治める土地であると詔し、ノヴゴロドに軍を向けた。
9月1日、伝説となった一人の人物が参内した。
クリスティナ、リミゾルの少女である。
神の声を聴いたというこの17歳の少女は、類稀なる軍才を持ち、彼女の指揮した軍は百戦して百勝した。
皇帝は彼女の活躍に喜ばれた。諸臣の中には神の声を聴いたなどという少女を重用するのは、他国から謗りを受けると奏上した者もいた。皇帝はそれに応え
この女は神のお遣わしになられた聖の君である。帝国開闢の後、直ちにこのような者が現れるのは神が朕と朕の帝国を愛したもうておられる吉兆である
とのたまわれ、意に介さなかったどころか、12月5日の帝国元帥ディートウィンの卒去後にはクリスティナに帝国元帥の職を賜った。
1370年4月13日にはカレリアの土地をデンマークに割いてノヴゴロド大公は降伏した。
24日、皇帝は午前の政務を終えられた後宮廷の庭園に出られ、春の日を浴びられた。
午後になっても政務室に戻られないことを訝しんだ宰相が捜索すると、
皇帝は御座にお座りになられたまま主の御元へ召されておられた。
皇帝の崩御された後、帝国元帥クリスティナの姿を見たものは誰もいなかった。 リミゾルの少女、クリスティナが何者であったかは未だ解釈が定まらない。 「やはり彼女は主の遣わされた聖女であり、皇帝陛下の御帰天に付き従い天に帰られたのだ」という者もいれば 「そもそも集団幻覚だったのではないか」という者もいる。 真実は未だ闇の中である。