AAR/ターヒル家は傷つかない/アブダッラーの治世

※今回は長いです

アブダッラーは前王の次男である。 実務能力の高さを買われ890年には直々に後継者に指名され、前王の死とともに19歳で即位した。

アブダッラーは即位と同時にサーマーン朝と同盟し主家サッファール朝を牽制、クィヴィルにいた旧ターヒル王家を追放しターヒル家はファールス・ターヒル家の元で再統一された。 向かうところ敵なしのアブダッラーであったが、一族の退廃(decadance)が次の強敵となった。 退廃にまみれた兄を追放。 他の兄弟に対しアブダッラーは伯に封じることで不満を抑えようとしたが、兄弟対立はアブダッラーの死まで続いた。 900年にはイスファハン公最後の牙城ヤズドを陥落させ、公をサッファール朝に亡命させた。 こうして旧ターヒル家領はすべてがアブダッラーの元で支配されるようになり、家臣や領民に独立を求められるようになる。 同年、サッファール朝で王位を巡り争いが起こった。 これを好機と見たアブダッラーは901年には独立戦争を開始。 サッファール朝の奮戦もあり、ターヒル家は優勢ながらも多くの損害を被った。 なんとか必死の抵抗が実り904年11月29日、ついにサッファール家から独立承認の知らせが届き、ターヒル家は悲願の独立を果たした。 しかしまだ油断はできない。公爵のままでは王国であるサッファール家に再征服を受ける恐れがあった。 ペルシャ王を名乗る、というのが一番現実的であった。 が、王を名乗るにしても独立したてでは諸国の失笑を買うだけであり、外国との戦争でターヒル家の軍事力と威信を知らしめる必要があった。 アブダッラーは909年、突然ドゥッラーフ公に対して王である自らに領土の割譲を要求。 拒否されるとこれに宣戦布告。 同年、挟み撃ちを狙ってシールジャーン公が宣戦布告してくる。 しかしこれを全ペルシャにターヒル家を知らしめるための好機であると見たアブダッラーは、豊富な資金を用いて2方面作戦を開始。 913年とうとうシールジャーン公が降伏し、915年にはドゥッラーフ公が降伏。 アブダッラーは奪った領土を子どもたちの間で分割させると、自らはイスファハンで戴冠しペルシャ王を名乗った。

しかしペルシャ王を名乗ったとしても、北部は中小独立勢力が割拠しており、南東部はサッファール朝の領内であった。 まず北部を討つことを決めたアブダッラーは、915年アルシャーラービー公に対し宣戦布告。

しかし今度は中小勢力が同盟を組んでいたために上手くいかず、山がちなギーラーンでの戦いで大敗してしまう。 このことが920年ターヒル家家宰であったゴーラム伯の反乱を呼び、922年にはサッファール本家から失地奪回の宣戦布告を受ける。 ここにおいてアブダッラーの治世における最大の危機が訪れることになった。

しかしこれら反ターヒル勢力はそれぞれの目的を果たすためにバラバラに軍事行動を取った。 そのためイスファハンの戦いでゴーラム伯が敗北したのをきっかけに戦況は悶着。 922年にアルシャーラービー公が降伏。 923年10月同盟を結んでいたサーマーン朝の援軍4000が到着。これによりゴーラム伯が降伏。 925年にはヤズドの戦いでサッファール朝主力が壊滅。 サッファール朝でシールジャーン公が独立反乱を起こすに至って、ついに927年サッファール朝が和議に応じた。 12年に渡る戦争で得たものはあまりに少なかったが、これによってサッファール朝の圧力から完全に脱することが出来た。

929年、国力を回復させたアブダッラーはヤズィード家の11歳の幼君が収めるアゼルバイジャンに侵攻、これを奪い取った。

931年サッファール朝の内乱はシールジャーン公の勝利と独立という結果に終わった。 アブダッラーは公に対しペルシャの慣習的領土に当たるという理由からラーレスタン伯領を攻撃、933年までにこれを奪った。

937年にもシールジャーン公にさらなる要求を突き付け宣戦布告した。 が、938年アブダッラーは戦争中に自然死した。66歳であった。 ペルシャ王位は末子バフティヤルが継承した。

アブダッラーは父ほどのカリスマも軍事的才能もなかったが、長い治世と、父の代で築き上げられた資金力及び軍事力を活かして独立、勢力拡大を果たした。 また家臣が示した忠誠に対して必ず褒美をもって応えたとされ、公正王と呼ばれた。 しかしスンニ派の宗主国アッバース朝の勢力拡大に一切関心を持たず、これを放置したことは、次代バフティヤルに大きな決断を強いることになる。


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